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第七十七話 マーメイド

もくじ

 それからしばらくして、美緒がボディボードで岩礁にやって来た。久寿彦が来なかったことは意外だったが、考えてみれば、沖合の岩礁へ来るにはボティボードを使うのがいちばん手っ取り早い。そして、美緒はボディボードの扱いに慣れている。

「袋ってコンビニの袋でいいの?」

 板の上に腹這いになりながら、美緒は手首のリーシュコードにおみくじみたいに結んだ袋を指さした。

「それでいい。サンキュー」
「どうやってそっちに行けばいい?」

 岩礁の周りをきょろきょろ見回している美緒に、真一は北東側に浅い棚が張り出していることを教える。

「ウニとかいない?」
「大丈夫、さっきチェックした」

 美緒はそれでも少し警戒したように、ゆっくり棚に進入してきた。岩底に足を着いて立ち上がると、手首のリーシュコードを外して、一段高い濡れた岩の上に板を置く。フィンとソックスをデッキに揃え、岩伝いに黄金色に輝く浅瀬を歩いてきた。

 白いビキニに思わず目を奪われる。明るいストレートのロングヘア。小麦色の手足がすらりと伸び、腰の位置の高さは明らかに日本人離れしている。美緒はあらゆる点で 「普通」 を軽々と超越していて、ただ歩いているだけなのに、映画のワンシーンを見ている気がする。

「何?」

 濡れた岩の上に上がると、真一たちの視線に気づいて、少し怪訝そうな顔をした。

「いやあ、スタイルいいなと思って」
「そうですよ、美緒さんモデルやったらどうですか」

 岡崎が勢い込んで言うと、美緒は岡崎を一瞥して、ありがと、と答えた。あっさりした態度。普段から褒められることに慣れている証だ。美緒の場合、こんな態度にも違和感がない。

「真面目な話ですって。海から上がったときは、本物のマーメイドが現れたかと思いましたから」

「おだてても何も出ないよ」

 表情を変えず言う。

「いやいや、素直に感動したんですよ」

 すると、さすがに照れたのか、苦笑いで首を横に振った。それから、ふと何かを思い出した顔になり、

「袋って何に使うの」
「ああ、そうだった」

 真一は美緒を手招く。

「うわっ、何これ。イワシ?」

 潮溜まりの縁で足を止めた美緒は、口に手を当て水面に目を瞠った。しばらく人の気配が消えて気が緩んだのか、群れは潮溜まりの手前側に寄っていた。水深が浅い分、水の透明度も増して、繊月型の青い背中がいっそう明るく鮮やかに見える。

「そう。これを持って帰ろうって話」
「でも、数が少なくない?」
「まあ、確かに。おかずと言うには、ちょっと寂しいかな」

 真一は腕を組んでイワシの群れに目を落とす。マリネしてサラダの具にするとか、食べ方を工夫すれば数の少なさを多少はごまかすことはできるだろうが、腹を満たす量にはならない。

「これをエサにして、カニを獲るってのはどうですかね」

 岡崎が、何となく思いついた、みたいな感じの声で言った。

「カニ?」

 美緒が顔を向ける。

「ショウジンガニですよ。知ってますか」
「味噌汁にするカニでしょ」

 知っていた。意外……でもないか。頻繁に海に行く美緒なら、ショウジンガニの味噌汁を食べたことがあっても不思議ではない。サーファー向けの食堂でも出す所はあるだろう。味は……と言えば、これが実に美味しい。特に新鮮なカニをふんだんに使った味噌汁は、世界三大スープに加えて、四大スープにしていいとさえ思う。ボルシチを忘れるな、と言う人がいれば五大スープ。

「でも、味噌がないだろ」

 ショウジンガニは味噌汁にして食べるのが一般的。ほかの食べ方はあまり聞かない。

「べつにいいんじゃない。いい出汁が取れるから、ほかの料理にも使えるよ」

 あくまで美緒は、ショウジンガニを使った料理に興味がある様子。ショウジンガニの長所はその出汁のうまさにある。だから食べ方は味噌汁に限らず、本来色々あるはずだ。美緒にはいいアイデアがあるのだろうか。

「どうする?」

 真一は岡崎に尋ねた。

「俺はいいっすよ。俺が言ったんだし」
「じゃ、決まりで」
「はい」

 イワシはカニのエサにすることなった。あとは、ほかの仲間たちが一緒に調理する魚介を獲ってきてくれることに期待する。

◇◇◇

 三人で潮溜まりの西側へ回った。網はないので、イワシは手づかみで捕まえる。ただ、闇雲に追い回しても成果は上がらないので、人間らしく知恵を使うことにしよう。

 やり方はこう。三人で潮溜まりの幅一杯に並び、バシャバシャと水を跳ね上げてイワシを追い立てる。東側の浅い場所に群れを追いやったら、作戦の第一段階は成功。続いてお互いの距離を詰めながら、先すぼまりの場所にイワシを追い詰めていく。イワシたちの退路を断ったところで、一気につかみ取り。ようするに追い込み漁だ。潮溜まりの大きさからして二人では難しかったが、一人増えて三人になったのでうまくいくと思う。

「せーの」

 真一の合図で、一斉に水を蹴り上げる。真っ白な水しぶきが花火みたいに盛大に噴き上がった。驚いたイワシが一斉に身を翻す。逃げ惑うイワシたちに向かって次なる水を浴びせかけると、何匹かが浅い東側へ逃げていくのが見えた。すぐにほかの何匹かが追いかける。狙い通りだ。

「どんどん追い込め」

 真一たちは、立て続けに水を蹴り上げていく。並び順は北から真一、美緒、岡崎。美緒の脚力はかなりのもの。長い足を使って、真一たちとほぼ同じ量の水を掻き上げる。普段、ボディボードで足を鍛えているだけのことはある。いずれにせよ、水しぶきは派手であるほどいい。広範に飛び散れば、魚も警戒して戻ってこようとしない。

 海の切り抜きみたいなイワシたちは、それ自体が意志を持った水のようだ。細長い体をくねらせて、我も我もと浅いほうへ突き進んでいく。

「あ、逃げた」

 浅い場所の真ん中あたりで、岡崎が深場へ逃げ戻るイワシに気づいたが、真一は気にしない。包囲網を掻い潜るイワシがいたとしても、大多数が浅い方に留まっていれば、そっちを捕まえることが先決だ。

 三人の距離がだいぶ詰まった。水深はもう踝にも満たない。水面にイワシの背中が覗き、バシャバシャと水を跳ね上げている。前方と両側を岩に阻まれたイワシたちに、もう逃げ場はない。

「今だっ」

 一斉に屈み込んで足下に手を伸ばす。

「一匹ゲット」

 右手がイワシを捕らえた。

「こっちも」

 真一がイワシを岩場に放り出すと、美緒も真似た。イワシはあとで拾い集めればいい。

「一網打尽にするぞ」

 次々と手のひらにイワシが収まっていく。水深が浅ければ圧倒的に人間のほうが有利だ。イワシたちは思うように泳げない。やぶれかぶれになって、自ら岩の上に乗り上げてしまうものもいる。

「ぐえっ」
「あ、ごめん」

 夢中になりすぎた美緒が岡崎の足を踏んづけてしまったようだ。

「気をつけて下さいよ、もう」

 泣きそうな顔で岡崎は訴える。

「シンさん、足下!」

 それに気づかない美緒の声で下を見ると、一匹のイワシが真一の股の間をくぐり抜けようとしていた。猛然と突っ込んでくるイワシに向かって足を出す。ブロックするだけでは横から逃げられてしまうので、勢いのまま足を蹴り出した。イワシは水と一緒に岩の上に打ち上げられ、ビチビチ身をバタつかせる。

「よしっ、と」

 拳を握って軽く一振り。今のが最後の一匹だった。

「いやあ、鮎のつかみ取りみたいで面白いっすね」

 岡崎は足の痛みが回復したようで、満足そうな笑顔を見せた。

「これがあのメザシになるんだよねえ……」

 美緒は岩場のイワシをつまみ上げてまじまじと見つめる。フルーティーな背中の色からメザシを想像することは、確かに難しい。かき氷のメロンとブルーハワイのシロップを混ぜ合わせたら、たぶんこんな色になる。明るく鮮やかな海の色。真夏の陽射しが降り注ぐ入り江の色だ。

 美緒がボディボードを置いた場所にコンビニ袋を取りに行き、真一と岡崎は岩場でバタついているイワシを拾い集めた。一回の追い込み漁で獲れたイワシは十七匹。これだけあれば、カニのエサとしては十分だろう。まだ潮溜まりに残っているイワシは、隣の岩礁で物欲しそうにこちらを見つめているトンビに譲ることして、真一たちは岩礁をあとにすることにした。

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