第四十六話 蛍の川
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五月下旬の今、待合広場のツツジに花はなかった。白い掲示板にも、レストランの求人広告はなく、代わりに 「ホタル観賞の夕べ」 という張り紙が貼ってあった。公園の山の麓に広がる親水ゾーンでは、小満の頃からゲンジボタルが飛び始める。昔はこのあたりの山野で普通に見られたそうだが、開発に伴って姿を消し、それをまた地元有志が復活させたという話だ。ホタル観賞会は、概ね好評のようだ。レストランHORAIも、ホタルの時季は客の入りが良かった。ホタルが盛んに飛び交う時間帯は七、八時台と、まだ宵の口のため、蛍狩りの前後に食事をしようという人が多かったのだ。
真一は、公園のホタル観賞会に行ったことはない。ただ、バイト明けに、小川沿いの観賞コースを歩いたことはある。発光のピークはすでに過ぎていたが、それでも喧騒が引いた川辺には、キンヒバリやタンボコオロギの声がし、昔日の里山の雰囲気を味わうことができた。
子供の頃ハヤ釣りをした野川でも、毎年、小満を過ぎた頃からホタルが飛び始めた。あの当時は、今ほどホタルをありがたがる風潮はなかったが、夏を告げる光の乱舞を見たいという気持ちは誰にでもあって、日が落ちた後の川辺には、蛍狩りに来た人の姿が散見された。
真一も、何度となくホタルを見に行った。プロ野球中継のない日に父親が、行ってみるか、と言ってくれたり、同じ団地に住む友達の家族が誘いに来たこともある。公園の鉄棒裏から続く森の坂道は暗くても、父親と一緒だったり、大人数で歩けば怖くなかった。むしろ、冒険気分を味わえて楽しかった。奇っ怪な形をした木の枝を懐中電灯で照らしたり、葉むらの合間に覗く空に向かってライトを点滅させ、宇宙人と交信するふりをした。毎回、はしゃぎながら、坂を下っていった記憶がある。六月になると、谷戸の田んぼでヘイケボタルも飛び始めるが、その頃には、道沿いのクヌギの木でクワガタを捕る楽しみも加わった。
ホタルの時季、野川に架かる橋は、団地住民のちょっとした社交場になっていた。行けば、大抵知り合いの誰かがいる。真一と同様に、親子でホタルを見に来た友達もいて、暗闇に顔を見つけると、互いに叫び声を上げながら駆け寄って抱き合った。普段と違う時間に会えたことが、妙に嬉しかったのだ。
ホタルはちょうど今日みたいな陽気の日――蒸し暑く、風のない日にたくさん現れる。夕闇が満ち始めた川面の上に、ぽつぽつと灯り出した萌黄色の光は、暗くなるにつれて数を増し、やがて当初から想像できなかったほどの大群を形成した。完全に暗くなった頃には、無数のホタルの光で、川筋の形がわかるほどだった。
親たちが世間話に花を咲かせている間、子供同士で探検に出かけたこともある。いつだったか、同じ棟に住む友達とその兄の三人で、普段あまり行かない場所まで、足を伸ばしてみたことがあった。夕暮れ時の、うっすら明るさが残る時分だった。蛍火の帯が延々と続く川沿いの道を、未知なる世界へ旅立つ高揚感を胸に出発した。谷戸を渡る夜ガラスの鳴き真似をする友人兄がおかしくて、友達と一緒に、ゲラゲラ笑いながら口ぶりを真似た。川面の上空には、もの凄い数のホタルが飛び交い、土手の上まで彷徨い出てきたものは、真一たちの肩や腕にも止まった。体についたホタルと川面の上を舞うホタルが、示し合わせたように明滅のタイミングを合わせることが面白く、自分たちもホタルの仲間になった気がした。道端に咲いていたホタルブクロを摘み取って、ホタルの提灯を作った。釣鐘型の花は、形も大きさも、ホタルを入れるのにちょうどよかった。ホタルは花の中でも殊勝に光を放ち、発光するたび、白い花の内側に散りばめられた小豆色の斑点が、ぼんやりと闇に浮かび上がった。それを見た真一たちは、ますます気持ちが昂って、御用だ、御用だ、と声を張り上げながら、川辺の道を突き進んでいった。
しばらくすると、左右の山並みが途切れて、緩斜面に拓かれた谷戸田の下に、広大な水田地帯を見渡せる場所に出た。そのとき、テレビアニメの話に熱中していたが、ふと前方に視線を伸ばしたら、地平線のすぐ上に、赤い満月が昇り始めているのが見えた。赤といっても、オレンジに近い赤ではない。血で染め抜いたような、本当に真っ赤な月だった。しかも、あり得ないくらいの大きさ。
青紫色の闇が、ニヤリと笑った気がした。
一つ目の妖怪と目が合ってしまった。
文字通り、逢魔ヶ刻に魔と出くわしたのだ。
「うわあっ」
しかし、悲鳴を上げたのは真一でも友達でもなく、友達の兄貴だった。先頭を歩いていた彼は、身を翻すなり、後ろの二人を突き飛ばして駆け出した。真一たちは、どちらも地面に尻もちをついたが、友達はすぐに立ち上がって兄を追った。脱兎のごとく逃げて行く兄弟を、真一もまた、わけもわからず追いかけた。川沿いの道には、外灯もなければ人家の明かりもない。草むらの合間に、ぼんやりと白っぽい道筋が浮かび上がっているだけ。兄弟は、ともにリレーの選手に選ばれるほど足が速く、必死に追いかけても、どんどん引き離されてしまう。無我夢中で走っていたため、弟の背中を見失った先に、カーブが潜んでいることに気がつかなかった。ふっと足が軽くなったときには、すでに手遅れ。道から飛び出した真一は、漫画のように手足をかき回しながら、宙を泳いでいた。奇妙な浮遊感を味わったあと、右半身に強い衝撃を感じ、為す術もなく土手の草むらを転がり落ちていった。
あちこち体をぶつけながら、黄緑色の流星をたくさん見た。
プラネタリウムの中を飛んでいるみたいで、きれいだと思った。
ざっぱーん。
派手な水音とともに、口の中に生ぬるい水の感触が広がった。
深みに落ちたため、幸いケガはなかった。水泳は得意だったので、こんな流れの緩い川で溺れたりはしない。ただ、全身ずぶ濡れになってしまい、心配して迎えに来た父親と兄弟親子を仰天させた。
ホタルの川の水は、甘くも苦くもなく、泥臭かった。