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第八十六話 花火大会

もくじ

 今夜は花火大会だ。毎年立秋の日に行われ、平日でも曜日が振り替えられることはない。江戸時代から続く伝統行事だからだそうだ。夕食が済むと、宿の窓辺で見てる、と言った何人かを残して、港町に繰り出すことにした。

 民宿前の道を海へ向かって歩く。気持ちいい夏の夕暮れ。昼間権勢を誇っていた入道雲は、もうどこにもない。代わって空には茜色の筋雲が浮かび、街外れの山で鳴くヒグラシの声がかすかに聞こえる。三々五々歩いている人々の中には、浴衣姿の女性もちらほら。通りに溢れる話し声。それを突き破って、時々、甲高いはしゃぎ声が上がる。うっすら暗くなり始めた港町は、祭りの前の高揚感に包まれている。

「お前の下駄、いい音するなあ」

 益田が松浦の足元を覗き込んで言うと、仲間たちがどっと笑った。みんな同じことを思っていたらしい。カラン、コロン……。確かに、抜けるような痛快な音だ。温泉街を舞台にしたドラマで聞く音もこの音だろう。

「どこにあったんだ? まさか便所から持ち出したんじゃないだろうな」
「玄関に並んでたんだよ。気づかなかったのかよ」

 松浦が履いている下駄は、鼻緒があって二枚の歯が付いている通常の下駄ではない。足と下駄を繋ぎ止めているのは、マジックペンで 「蓬莱宮」 と書かれた緑色のビニールストラップ。台の部分に歯もなく、かかと側が少し高くなっているだけ。

「この下駄、何ていうんですかね」
「さあ。便所下駄? 便所にあるし」

 隣の西脇に訊かれたが、真一も正しい名前は知らない。便所によく置いてあることと、「こち亀」 の両さんが愛用していることは知っている。

「昔のツッパリが履いてただろ」

 益田が、今度は仲間たちを振り返った。

「時代が時代なら、こいつも喜んで履いてたな」

 松浦を指さしながら言うと、ゲラゲラ笑いが上がる。真帆が、間違いない、と親指を立てて太鼓判を押した。

「うるせー」

 ぶり返す笑いの中、松浦が益田を蹴ろうとする。

「危ねえな、当たったらどうすんだよ」

 益田はすんでのところでかわし、真顔で文句を言った。なるほど、便所下駄の破壊力はかなりのもの。海番長の武器にふさわしいと言える。

 道沿いの家々には、すでに明かりが灯り始めている。歩いている人々の姿も、日中よりぼんやりして見える。

「あ、筒川さん、そこ左に入って下さい」

 岡崎が先頭の久寿彦に声をかけた。

「え、ここ?」

 木製電柱の手前で振り返った久寿彦は、道路脇の暗がりを指さす。頭上に降り注ぐ裸電球の光が、怪訝そうな顔を橙色に染めている。ホーローの電笠が付いた外灯は、古い物が多いこの港町でも、たぶん珍しい。

「はい、そこです」

 岡崎はきっぱりと言った。久寿彦が示しているのは、自転車くらいなら何とか通ることができそうな狭い道の口――ではなくて、暗渠だった。久寿彦の足元に、コンクリートのドブ板が並んでいるのが見える。

「よく知ってるな、こんな道」
「合宿に来たときに使ったんですよ」

 岡崎は去年の夏まで、大学のテニス・スキーサークルに所属していた。夏の合宿では、奇しくもこの港町を訪れたという。今歩いている道を山側に少し遡った所に、泊まった旅館があるそうだ。真一たちの民宿も何代か前の先輩たちが利用していたらしく、部屋の様子や値段を知っていた岡崎が予約した。岡崎がサークルを辞めたのは、べつにトラブルを起こしたからではない。単純に、久寿彦たちとつるんでいたほうが面白かったからだそうだ。

「おー、懐かしい。まさか、今年もこの道を歩くとはなあ」

 人が通るたび、足元のドブ板がバコバコと音を立てる。腕を広げれば、両側の塀や生け垣に楽に手が届く。家々の明かりが足元まで届いているので、もっと暗くなったとしても外灯や懐中電灯は必要ないだろう。人々の生活感を間近に感じる道だ。網戸――やはり青い網戸の家が多い――越しに聞こえる赤ん坊の泣き声、プロ野球中継の音声、煮炊きや蚊取り線香の匂い……。路地にも満たない狭い道の口が開けているところもあるが、うっかり踏み込んだら迷子になってしまいそうだ。

 暗渠を抜けると、もう目の前は海岸通りだった。伝統的な漁師町の風景は一変して、垢抜けた雰囲気が漂う。タイル張りの歩道にヤシの片並木が続き、ガス燈を模した外灯が暖かい火を灯す。車両通行止めの道路を、大勢の人々が闊歩している。ただ、夕凪の海を望む歩道のベンチはどこも人で埋まっていて、ゆっくり花火を眺めることができそうな場所はない。

「こりゃ、宿に戻ったほうがよさそうだな」

 久寿彦がいかりや長介みたいなあきらめ顔で振り返った。波田や四谷など、一部の仲間たちは、はじめから宿にいることを選択した。花火は二階の部屋からでも見ることができる。宿は打ち上げ場所からわりと近い所にある、と女将も言っていた。

「でも、せっかく外に出たんだから、もう少し歩こうよ」

 美緒が言った。湾の東側に当たるこの場所もまた、打ち上げ場所に近い。もう少し西のほうに行けば、空いている場所があるかもしれない。この時期の港町の事情に詳しい岡崎も同じことを言い、西のほうに歩いてみることにした。

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