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第六十五話 ハゼ釣り その三~龍宮の白壁~

もくじ

 日没間近になって、葵の竿に大きなアタリがきた。

 シッ、静かに、と言われて、真一が話しかけるのを止めると、視線の先で不自然に振れる穂先。少し待っても変化がなく、葵は慎重にリールを巻いて誘いを入れる。すると穂先がググッと引き込んだ。本アタリだ。葵はすかさず竿を煽ってアワセを入れた。

 大きくしなった竿が上下に跳ねる。今までの魚とはまったく違う竿の暴れ方だ。

 ゴリゴリとリールを巻いて釣れたのは、五十センチはあろうかというマゴチ。水面から顔を出した時、一瞬、巨大なハゼかと思ってしまった。台風の荒れた海を嫌って、汽水域に逃げ込んできたのだろう。あるいは、エサを追ってここまで遡ってきたのか。

「これなら余裕でハゼ二十匹に匹敵するでしょ」

 締めたマゴチを高々と掲げると、葵は自信たっぷりの表情で言った。

 マゴチは白身の高級魚。特に陽射しが照りつける夏場のマゴチは 「照りゴチ」 と言って、市場でも高値がつく。

 勝負は真帆と岡崎が他を大きく引き離し、事実上、この二人を除いた四人の戦いになっていた。葵は真一たちを追い上げていたものの、最下位の順位は変わらず、イチかバチかの賭けに出た。

 ハゼをエサにして大物を釣る。

 大きな魚を釣ることができれば、一発逆転を狙える。残された時間は少ない。ちまちまとハゼを釣るより、よっぽど可能性がある――葵はそう考えた。

 作戦は見事成功した。久寿彦が終了の号令をかける直前、葵はマゴチを釣り上げたのだった。その結果、一気に三位まで順位を上げた。

 一方、真一は葵に追い抜かれたものの、二匹差で久寿彦を下し、天ぷらを揚げる役をぎりぎり免れることができた。久寿彦とともに調理担当になった美汐は、まあがんばってくれたまえよ、と葵に肩を叩かれると、ルールを元に戻す、と怒って言い返したが、大人げない主張は皆に一蹴された。真帆と岡崎は、クーラーボックスに入れられたマゴチを囲んで、巨人のハセだー、と大笑いしていた。

◇◇◇

 うっすら暗くなり始めた貯水池の周りに、知らぬ間に秋の虫の声が満ちていた。スズムシやマツムシのほか、クリーク沿いの草むらからは、夏を枯らすようなカヤキリの声も聞こえる。初夏に鳴くクビキリギスの声にそっくりだが、こっちのほうが音が大きい。

 今日は七十二候の 「天地始粛」 の候。暑さが収まり、朝晩は肌寒く感じられる頃だ。台風の生暖かい空気が流れ込んでいなかったら、今ももっと涼しかったはず。ただ、夕暮れ時の景色が醸し出す雰囲気は、やはり真夏と違ってどこか物寂しい。

「すごい、あれ見て」

 突然、真帆が興奮した声を上げ、真一は釣りの後片付けの手を止める。

 真帆は水色の水門の背後の空――南東だから海の方角だ――を指していた。

 そこにあったのは、巨大な入道雲。いつの間に湧き上がったのだろう。夕方になって風が収まり、雲がまとまりやすくなったのかもしれない。天地を貫く摩天楼の底辺はすでに青暗い闇に沈んでいるが、中層は鮮やかな夕焼け色に染まり、頂上付近は今なお真昼の白さに輝いていた。これほど見事な雲を見たのは、生まれて初めてかもしれない。遠い南海上へ帰ろうとする龍宮の白壁が、真一たちに別れを告げているようだった。

「わあ……」

 誰もが放心して空を見上げていた。

 それは、夏がくれた最後の贈り物。

「美汐さん、写真撮ろうよ。カメラ持ってるでしょ」

 真帆の声にうなずいた美汐が、荷物をまとめた場所へ向かう。カメラは美汐のデイパックの中。

 ただ、この場で写真を撮ろうとすると、水門が大きく写りすぎてしまうので、クリーク沿いの道を少し歩くことにした。

 空き地に荷物を置いたまま、虫の声がする道をぞろぞろ歩く。

 雲と水門のバランスがちょうどよくなった所で足を止めた。相談の結果、最初に美汐がシャッターを切り、次に葵がカメラ役を代わることになった。

 真帆と葵が並んで道の真ん中にしゃがみ、真一と久寿彦と岡崎がその後ろに立つ。
 美汐がカメラを構えた。

「撮るよー」

 そう言った直後。

「チンチン!」

 岡崎が叫んで、夕闇にフラッシュが瞬く。
 後日、出来上がった写真には、大きく口を開けて笑う真一たちの顔が写っていた。

◇◇◇

「葵の逆転劇にはぶったまげたよ」

「確かに、神がかってたな。ちょうど終わりの合図を出そうとした時刻の三十秒前だった」

「あれがなければ、お前も天ぷら揚げずに済んだのにな」

「まさか負けるとは思わなかったよ」

 久寿彦は首を振りつつ苦笑して、対岸のハンの木立の上空を見上げる。

 南の空に、不穏なほど黒い雲が迫っていた。いっとき好転しかけた天気が、またおかしくなりそうだった。この空模様で強い南風が吹けば、梅雨をもたらす黒南風となるのだろう。

 湿原に浮かぶ島のようなハンの木立では、梅雨に入ると、ミドリシジミという蝶が飛び始める。翅を閉じた姿は地味でも、開いたときの色の鮮やかさは目が覚めるようで、写真好きの人を多く呼び集めている。メタリックブルー、あるいは、メタリックグリーンと、個体によって色に差が出ることも人気の理由だ。

「あれが青春時代の最後に見た雲だったな」

 真一はぽつりと言った。トンボ沼の景色は、ハゼを釣った汽水池周辺の景色に似ている。風や水に潮気がない点が違う。

 あのときは、また同じ夏が巡ってくると思っていた。龍宮の白壁との出会いと別れは、毎年繰り返されるドラマなのだ、と。

 だが、今は無知ゆえの思い込みだったと理解している。
 今日、久寿彦と話をして、確信がいっそう深まった。
 自分はあの時の自分とは違う。あの時の心はもうない。そんな自分が、あの時と同じ雲を見ることはないだろう。

 久寿彦の反応はない。ただ、心の中でうなずいている気がした。

 久寿彦だって十分わかっているはずだ。
 二度と見れない景色や帰れない場所が出来上がってしまうこと。

 結局、それが大人になるということなのだ。

 キョキョキョ……とアシの茂みでヒクイナが鳴き始めた。古典に登場する 「クイナ (水鶏)」 はこのヒクイナのこと。真一の耳には水を注ぐ音のように聞こえるが、昔の人には戸を叩く音に聞こえたようで、クイナが鳴くことを 「クイナ叩く」 と表現した。

 卯の花が咲き、蛍が飛び交い、ホトトギスやクイナが鳴く――子供の合唱などで歌われる 「夏は来ぬ」 という歌は、ちょうど今の時期の風景を切り取った歌だろう。

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