見出し画像

小説|罠 ②/4


↑前回のお話です

3昼夜、男は女の胸の中で眠っていた。木立の隙間から、日光が棒状に降りてきて、舞っている塵を砂金のようにきらきら光らせながら、男のまぶたを温めた。次第に、男はゆっくりと目を開け、女のへそのあたりに溜まっている、透明な水たまりをぼんやり眺めた。水面が、細かに震えて、森の木立が、ビロードのように滑らかに映っていた。

男は、形を確かめるように、さらさらと女の肌をなでて、額にキスすると、立ち上がった。そして、手にしばりがたつのを恐れながら、側に落ちている適当な枝を手に取ると、鷺のように足を高く上げ、つま先で恐る恐る地に足をつけて、森の中を歩き始めた。

別段、どこに行くあてもないのである。ただ、募る空腹感と、不安にかられて、倒木や、ぬかるみによる悪路を、体を傷つける小枝を恐れて歩いていくのだった。

***

いよいよ森も深くなり、奇妙な静けさが森中に漂ってくると、男は今までと質の異なる不安感に襲われてきた。森中をあてもなく彷徨っているときの不安感は、積極的な不安感とでも言うべきものであった。じっとしているのが恐ろしく、何か行動しなければ、現状を変えなければならない、という止まることに対する不安感だった。しかし、今、男を襲ったのは、動くことに対する不安である。

この先を進んでいったら何か恐ろしいものが自分を待ち構えているのではないか。一歩でも進んだら危険な事態に巻き込まれるのではないか。男は、日が傾き、暗くなり始めた森がとてつもなく大きな一つの生き物のように感じ、それに飲み込まれるのではないかと思うと、額を冷たい汗がつたった。

男は自分がたどってきた道を振り返った。そこには、自分が通った痕跡はどこにも見いだせなかった。ひとり、置き去りにされたような気になり、男は虚ろな表情をして立ち尽くした。鼻から細い息が途切れがちに溢れた。


ふと、右側の斜面のシダの茂みがガサガサ音を立てた。そして、荒い鼻息が、何かを嗅ぎまわっている音を聞いた。葉に獣の体毛がこすれて、乾いた音が響く。それに続いて、左からも獣が不気味な声を発しながら動き始めた。

男は、先ほど手につかんで持ってきた枝をわなわなと前にかざした。そして、自分でも驚くほど大きくよく響く声でその獣どもに向かって吠え始めた。すると、興奮した一匹の若い猪のオスが、左手の斜面の茂みから勢いよく飛び出してきた。その瞬間、男は自分の身をこの棒切れ一本で守れるはずのないことを悟り、棒切れを捨て、一目散に走りだした。

息も絶え絶え、無我夢中でかけた。その間、足にはいくつもしばりが刺さったが、そのようなことはこれっぽっちも気にならなかった。森をかけていると、自分も獣になったような気がしてきた。恐怖に震えながらも、酸素は体中を駆け巡り、死と生のぎりぎりの縁で、自分の命が、鮮やかに、鋭敏になるのを感じた。

それは、風の様な爽快感を男の精神に吹き込んだ。周りの景色が勢いよく後方へ過ぎ去っていく。もはや、背後に獣の気配は感じない。

しかし、男は走った!息を弾ませながら!空を見上げると、一筋の流星が夜空を駆け抜けた!

ドゴッ

体が急にふわりと宙に浮いたかと思うと、目の前の景色が凄まじい勢いで上方へ消え、暗闇に吸い込まれ、激しい衝撃が足に走ったかと思うと、続いて額が地面に打ち付けられた。状況がうまくつかめない間に、鉄臭い臭いが鼻の奥にこみ上げてきた。どうやら鼻血が出ているようだ。

めまいによって、いくつもの円が中心に向かって収束していく、幻覚が現れた。すこしづつ息を吸って、吐いてを繰り返していくうちに、動揺している気持ちも幻覚もおちついてきた。周りをゆっくり見まわしてみると、黒い土壁で、上を見上げると、夜空がぽっかり丸く見えていた。

「ああ...」

男は、蚊の様なか細い声を漏らした。

↓続きです。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?