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小説|罠 ③/4

↑前回のお話です。

男は、土の壁に背中をつけ、足を地面に投げ出して深いため息を漏らした。月の光が男の顔を照らし、べっとりとついた脂汗が生々しく光っていた。

背中から伝わる土の温もりが、かろうじて自分の命を繋ぎ止めているような気がして、まだ生きているということを実感することができた。体はやはり丈夫で、ふくらはぎのあたりが少し腫れてはいるが、別段大きな怪我を負っているというわけではなさそうだった。男は、冷静になることに努めた。目を閉じ、周りの音に耳を澄ませ、思考が円滑に流れるのを待った。

しばらくして目を開け、また頭上を見上げた。どうやらこの落とし穴は2メートル半の深さはあるようだ。男は立ち上がり、天に向かって手を伸ばした。しかし、穴の縁に手をかけることはできなかった。

勢いよく飛んでみても、手は届かず、かえって着地する際に、土がめくり上がってより穴が深くなっていく始末だった。

手探りで土壁の突起を探り、そこに手をかけ体を持ち上げようとしたが、あっけなく突起は崩れ去り、体は再び地面へと投げ出された。どうやら、このあたりの土は非常に柔らかいらしい。男の顔が、にわかに絶望の色に染まった。

まだ、親族の群れで生活していた時、隣山には絶対に足を踏み込むな、と群れの長である父親にきつく言われたものだった。

隣山の一族は、落とし穴を使って獲物を取る。しかも、その穴がよくできたもので、穴の上に葉や草、枝などをたくみに組み合わせカモフラージュしてある。そのため、ひと目見ただけでは、穴があることさへ分からない。一度、落ちてしまったら最後。隣山の一族は縄張り意識が強いから、見つかり次第石をぶつけられて殺されてしまう。それが、群れの中で言い伝えられていたことだった。

男は、それを思い出すと、体が震えてきた。一度、冷静になった頭の中に、再び嵐が巻き起こり、堰を切った土石流のように激しく暴れまわり、土壁を登ろうと必死に壁を引っ掻いた。しかし、土壁は虚しく土埃を舞わせて崩れていくだけであり、一向に状況は変わらなかった。

男は、周りの土壁が自分に迫ってくるように感じた。極めて無機的なシステマティックな動きで、自分を押し潰そうとしてくるのだ。男は息が苦しくなり、両手で土壁を抑えて、土の天井に開いた青く澄んだ穴に向かって唇を尖らせ、メダカの様に、外の空気を吸おうと試みるのだ。しかしそれは抜け出せないという絶望が生んだ閉塞感の幻であって、土壁は少しも動いてはいなかった。

男は、天井に開いた穴を見つめていた。夜空が、ここまで美しく映えて見えるのは初めてだった。小さな星々が宝石の様にさざめき、夜空の丸い円盤を舞台にして、それぞれが手を取り合い、ワルツを踊っているように見えた。鈴の音が聞こえてくる。それが、彼らのワルツを美しく彩った。この音は、鈴虫が出している音らしかった。

ああ、僕も、再び地上に出ることができたら…もう何もいらない!

男は心の中で叫んだ。このとき、男の目に、燦々と輝く後光に身を包んだ、美しい女が映った。女は夜空に悠々と漂い、何か、透き通ってひだがたくさんついた着物をはためかせ、男を真っ直ぐ見下ろしていた。

なんと美しいことだろう。肌は白く透き通り、今にも消えそうな儚さがある。髪は後ろ手に、豊満な卵型に結われ、金や銀の串で止められ、それらは孔雀の羽の様に、扇型に広がっていた。目は青く、男に透き通ったみずみずしい視線を投げかけていた。その女は、身につけている物こそ違えど、紛れもなく、男にいつも食糧を持ってきては、胸の中に優しく導いてくれたあの女だった。

ああ…君か!来てくれたのか!

男は感動で目に涙を一杯に溜め、両手を胸の前で硬く握って、跪いた。男の視界が涙でぼやけ、繊細に揺れた。涙を払い、男はつぶやいた。

僕は君のものだ!君が望むなら僕は何だってする。煮るなり焼くなり何なりとしてくれ!僕は惨めにも、一人では何もできなくなってしまった。いや、今までもずっとそうだった。僕は一人で生きることなどできない男なんだ。君がいなければ、小便一つすらままならないんだ。ああ、君はそんな僕を見捨てなかった。こんな男を君はまだ愛してくれるかい?

女の体は、緩やかに上下していた。星の合間を、風に漂っているように見えた。女は何も答えなかった。ふっくらとした唇は少し緩められ、隙間が空いていたが、何も話そうとする様子はなかった。

しばらく、男は女を見上げていた。女は、月の光よりも眩しかった。男の皮膚だけでなく、心まで、明るく照らした。しかし、何やら空間がぐにゃりと歪んだかと思うと、天に続く窓はたちまち形を崩し、丸い形はたちまち星形になり、四角になり三角になり、脈打つ様に変わっていった。その瞬間男はハッと目を覚ました。

男はうつ伏せに地面に横たわっていた。口に入った土が苦かった。男は上半身を持ち上げると、壁に向かって勢いよく土を吐き出した。男は無心になり反対側の壁に身を預けた。総身に力が入らない。地面に投げ出された手足は、まるで死んだ魚の様に冷たくなっていた。男は、土壁の上の方の、月明かりに照らされ、陰影が波模様になっている箇所を何の当てもなくただ見つめた。すると、頭上から風が悲鳴を上げるような音が聞こえ、男は反射的に上を見上げた。

空から何か白く光るものが落ちてくる。それは、波間を漂う漂泊船の様に、右へ、左へ、揺られて落ちてきた。その動きが、どこか愉快そうに見えた。

男は、手のひらでそれをそっと受け取った。柔らかく絹のようなきめ細かい白色をしたそれは、タムシバの花弁だった。それは、艶っぽく光っていた。その光は、月の光ではなかった。何やらその花弁自体が内側から放っている光のようで、薄い光のヴェールで、花弁が包まれていた。男は、その神々しい天からの贈り物を見て、自分が今見ていた夢は、決してデタラメではないような気がしてきた。

男はいそいそと立ち上がって、その花弁を腰巻の隙間に差し込むと、周りから土をかき集め、その上に小便をした。そして、それをこねまわすと、一塊の粘土ができた。その粘土で、丸く、小さな皿を作った。男は、土まみれになった手を丹念に払うと、腰に差したタムシバの花弁を優しく取り出し、皿の上に置いた。そして、その前でひざまづくと、目を閉じて何やらぶつぶつ言い始めた。


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