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小説|罠 ①/4

激しい雨が、濃緑の木立を、白く浮き上がらせ、谷間からは、狼煙のような雲が登っている。雨で腐った倒木の甘ったるい匂いが、つんと鼻をつく。時々、頭上から、喉に痰がからまりながらも、必死で捻り出した叫び声のような、しゃがれた、汚らしい鳥の鳴き声が降ってくる。いったい、あの鳥はなんという鳥だろうか。。

男は体毛が濃かった。雨に濡れ、身体中にびっしりとまとわりついたうねうねした毛たちは、なんとも鬱陶しく見えた。身体中に、ヒルか何かが蠢いている様に見えるのだ。身長こそ、高くはないが、丸く盛り上がった肩から、厚くはち切れんばかりの胸板、そして、でっぷりと肥えた毛むくじゃらの腹、またいくつもの肉の塊が微細な動きにもざわつき出す、太い足にかけて、なんともたくましかった。その豊満な肉体を包むのは、腰回りに申し訳程度に巻き付けられた、麻の布だけだ。それは、至る所が裂け、カビでうっすらと緑色になっていた。

髪は、細い藤蔓で、後ろ手にぐるぐる巻きにしてあった。眉は厚く盛り上がっている。その下の落ち窪んだ眼は、大柄な肉体の割に繊細で、微妙な光をとらえ、静かにさざめいている。いちじくの身の様に丸く大きい鼻は、常に激しい呼吸音に唸っている。厚ぼったく、横に広がった唇は、常にキュッと閉じられている。この男の大きな彫りの深い顔は、恐ろしくはあったが、獰猛さは感じられず、落ち着いていて、それでいて臆病そうに見えた。この男が1人森の真ん中で立ち尽くしている。大きな体から、溢れ出す悲壮感がなんとも痛ましかった。顔面蒼白の若く逞しい男が1人森のなかで立ち尽くしている、その状況を説明するには、この男の送ってきた人生について語る必要があるだろう。

この男は、人々がまだ狩猟生活をして、森の中をあちこち駆け回っていた時代に生を受けた。山の斜面にぽっかり開いている洞穴が、彼の住まいだった。そこに、家族から離れてから、もう3年ほど住んでいる。男は、何事にも挑戦し、失敗を恐れないという様な、勇敢な男では決してなかった。むしろ、手のひらの傷を恐れ、皮膚のできものを気にして、一日中怯えながら暮らすという具合だった。1人立ちしたときは、この男、いい年こいていつまで群れに居座っているのだと、父親にどやされて、逃げる様に飛び出してきたのだ。

この男は、男の体がやっと入るほどのちっぽけな洞窟の中で、ほとんど一日中、両足を三角に折り曲げて座り、両膝に手を回し、そこに頭を埋めて過ごすのだった。なんとも惨めな男である。それでいて、不思議と、森の中のどの男よりも、立派な体を持っているのである。

この男には、恋人がいた。この時代の女には珍しく、細面で、透き通った目の、華奢で色白な女だった。男が一日中、洞窟でうなだれ、座していることを知って、いてもたってもいられなくなり、毎日自分が属している男どもが狩ってきた、猪やら、山鳥やらの肉をコッソリとこの男に分け与えるのだった。食料を洞窟に運ぶ道中、山葡萄や、山桃の実が少女の美しさに花を添えるため、風を呼んでゆらゆらとダンスをする。それを見て、少女は、細く滑らかな手で、それらの実を、2、3粒さっともぎ取り、蝶のようにひらひらと男の元へかけていくのだった。

「悪いね。」女が洞窟の前に現れ、腰を屈めてその長い髪がはらりと男の顔にかかったとき、男は少しも笑わず言った。ふわりと漂うオニユリの香りが男をつつみ、冷たく萎れた心を緩ませた。

「いいだよ。気にしないで。」女は両手で抱えた食料を、男の目の前にぼろぼろこぼした。そして、男の体に両手を回すと、深いため息を吐いた。雲の様に柔らかいため息が2人の世界の中に充満した。やがて、それが霞んで消えてしまうと、ヒヨドリの高く、弾んだ歌声が静寂を少しずつ破っていった。

「もう来なくていい。」男は、怯えた目つきで女の顔を見上げた。

「いやさ。」女は小さな頭を、男の額に擦り付けながら、言った。ジリジリと額が痛んだ。

「そう。」

「うん。」

翌日から、女はぱったりと来なくなった。女が気を悪くしたのかと心配になった男は、風の匂いに女の影を探した。時は2日、3日と過ぎていき、一週間も経つと、流石に腹が減ってきた。男は、同じ体勢によって固まった体を少しずつほぐして、洞窟から顔を出した。

女は、洞窟の隣のいぬふぐりの咲き誇る中で、両手を投げ出し音も立てずに眠っていた。白い肌はいよいよ透き通り、光っていた。塵一つこの女に触れることは許されないという様子だった。それほどに清潔な見た目をしていたのだ。ひたりと頬に手を触れてみると、氷のような冷たさだ。女は死んでいた。男は、女の体を巻いている麻布を引き裂いた。女は泥人形のような鈍い動きで両手を震わせた。上半身が顕になった。男は女の胸に顔を埋め、涙で純白の肌を濡らした。

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