パトカーになりたい少年と進路の部屋

同僚の先生がご実家に帰省された際,甥っ子(5歳)とこんな会話をしたそうだ。
同僚「将来は何になりたいの?」
甥「ぼくはパトカーになりたい!」
同僚「?警察さんかな?」
甥「違うよ!パトカーだよ!」
同僚「(笑)どうしてパトカーになりたいの?」
甥「かっこいいじゃん!」
というなんともほほえましい会話だ。

だがしかし,高校教員をやっていると,こんな会話からも考えが広がる。これは進路指導に通ずる会話だ。

彼は本当にパトカーになりたいのか。

答えはYesでありNoだと思う。
どういうことか。

彼の世界ではこれは紛れもなく真実だ。彼はパトカーになりたい。そう思っている。
だが,客観的な視点で見ると,これは正確でない。彼は,「パトカーとしか言えない」状態にあるのだ。
彼は,パトカーを何だと思っているのか。パトカーの何に惹かれているのか。その白黒のカラーリングか,サイレンを鳴らす緊急車両の特殊性か,正義を執行するヒーロー像か……パトカーには様々な要素が詰め込まれている。表象されている。
彼はこれらを分けて認知することができない。あまりに言葉も経験も不足している。彼は彼の憧れをパトカーとしか言い表せないのだ。
世界の解像度が粗々なのだ。世界がドット絵なのだ。ゆえに彼には自分の憧れが「パトカー」としか言えない。そう見えている。

これがYesでありNoであるということだ。

では,これは5歳児故の話なのか?成長すればなくなるのか?

この答えはNoだろう。高校生を指導していてもそう思う。
結局は,認識の問題を多分に含んでいるわけだ。物事をよく理解していなければ,世界は単純に見えてしまう。いやむしろ,単純な解釈で済ませられるからこそ,物事を理解せずに平穏な生活を送っていられるのかもしれない。

進路指導をする上で,ありがちな状況だ。世界の解像度が低ければ,自分の目指すものは何なのかも見えづらくなる。心の中には確かに惹かれる思いがあるが,それを安直にしか見れない。
例えば「人の役に立ちたい,だから看護師になります」こういう生徒を毎年よくみかける。しかし,よくよく話を聞いていくと,医療に全く興味を持たない者も多い。なぜ看護師なのかと問うと,あこがれだという。これがパトカーの彼と何か違うのか?いや全く同じだ。この生徒は自分の志望を「看護師」という言葉に託すしかないのだ。その生徒にとっては真実なのだが,解像度が粗いが故に「そう表現するしかない」ところに留まっている。

では進路指導においてこの問題をどう克服するのか。

まず,教科で深く学ぶことが,進路指導にダイレクトに活きると言えるだろう。
教科で世界を探究していくということは,より精緻に物事を捉えたり,よりダイナミックに物事を捉えたりすることだ。自分にとって馴染みのない対象世界との関係性を編み直していく作業だ。いままでわからなかったことがわかるようになることだ。その過程で,様々な追体験や追発見をし,世界の解像度が上がる。自分の生き方・在り方をより克明に思い描けるだろう。

しかし世界の解像度が上がっただけでは不十分だ。大事なのは自分自身について自覚することだ。「そうか,私ってこれが好きだったのか」と。
これを促すのが対話だ。問いを投げかけることで,生徒は思考する。その応答には生徒の信念や価値観が現れる。ゆえに,問答を繰り返す中で,生徒がもつ志向や興味関心の領域が見えてきたりする。そして生徒は自分のそれをなんとなく知ってはいるものの,うまく表現できないでいたり,発見できていなかったりする。したがって,折に触れて,キーワードを渡してみたり,生徒の言っていることを評してみたりすることで,生徒が志望の根底を自覚するような,ハッとした表情をみせたりする。
実際,看護師になりたいと言っている生徒で,よくよく話をきけば,社会的に立場や状態が弱っている人に対して,精神的に安心させてあげたいような,そんな気持ちだったという。そこから,福祉や幼児教育にも関心を広げていった。

このように,学びによって世界の解像度を上げ,対話によって生徒自身が考えを自覚することを促す。これが高等学校における進路指導の原理の一つとして有効ではないかと思っている。

人生において,世界の見方は日々更新されていく。自分の望みは何なのか。大人だって右往左往している。探究と自覚がその縁になるのではないだろうか。パトカーの少年はこの先,どこへ向かうのだろう。

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