「Lost in Jazz」
夏の香り
エリカは、仕事に行き詰まり、人生の意味を見失いつつあった。
ラジオ局での長いキャリアの中で成功は収めてきたが、最近はその虚無感に押しつぶされそうになっていた。
そんな中、彼女は休暇を取ることに決め、南ヨーロッパの海辺にある隠れ家ホテルへと向かった。
ホテルのプールサイドで、彼女は日常から解放されたような開放感に浸る。
プールのそばにはカフェがあり、そこで彼女はバンドの演奏が聞こえる静かな空間を見つけた。
そのカフェの奥では、ホテルの常連客でピアニストのマルコが、誰もいない深夜のバーで、静かにジャズピアノを演奏していた。
ある夜、エリカはプールサイドでパスタを食べながら、ラジオ局の仕事や自身の孤独について思い悩む。
夜風が吹き、ホテルのバーから流れるジャズが彼女の耳に心地よく響いてくる。
プールサイドは、夜の静けさに包まれ、淡いランタンの光が水面に反射していた。
エリカはワインのグラスを指で軽く回しながら、海から届く夜風を感じていた。
8月の夜空はまだ明るさを残し、空気にじんわりとした熱が漂っている。
彼女の目の前には、トマトとバジルの香りが漂うパスタが置かれ、その隣には、カフェのメニューで見つけた、夏の味、熟れたメロンが甘く輝いていた。
「どうですか?やっぱりビル・エヴァンスは夜にぴったりですね。」
いつの間にか、マルコがそっと隣に座っていた。彼の指先がグラスの縁をなぞりながら、優雅な口調でそう言った。
エリカはふと微笑んだ。「ええ、彼の音楽には特別なものがありますね。静かな夜に、心の奥に触れるような。」
彼女はジャズが好きだった。
それは、ある意味で過去との繋がりでもあった。
東京でラジオ局の仕事を始めたばかりの頃、彼女は一つの企画を担当した。
テーマは「深夜に響くジャズ」。
その時、彼女が最も愛したのが、ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」だった。
エリカはその曲を聴きながら、何度も孤独な夜を過ごした。
マルコはそのままワインを口に含み、瞳を細めた。
「そういえば、あなたはチャット・ベイカーもお好きですね。
あなたが彼の曲をプレイするのを見かけたことがあります。」
エリカは驚いて目を大きくした。
「よく覚えていますね。
チャット・ベイカーはすごく好きでレコードも持っていました。
大学時代に初めて手に入れた大切なものなんです。
彼のトランペットには、優しさと繊細さが同居していて、心を揺さぶられます。」
「ええ、僕も彼の演奏に影響を受けました。
特に夜遅く、コーヒー片手に聴くと、あのフレーズが優雅な香りを帯びて頭の中でいつまでもリフレインするんです。」
マルコは遠い目をして、静かに言葉を紡いだ。
二人はしばらく音楽について話し込んだ。
チャット・ベイカーの甘いトランペット、ダイアナ・クラールの現代的なジャズの響き、そしてそれぞれの音楽が持つ独特の世界観。音楽が二人を包み込み、共通の記憶を引き出していった。
過去の光
「でも、あなたはなぜ演奏を辞めたの?」エリカはふと尋ねた。
マルコは少し考え込み、ワインをまた一口。
「たくさんの理由があったけれど…一言で言えば、疲れてしまったんです。
音楽は僕にとってすべてだったけれど、ある瞬間から、ステージに立つことが怖くなった。期待されることも、それに応えることもね。」
マルコもまた、人生の岐路に立っていた。
彼は成功したピアニストだったが、音楽の世界に疲れ、今はリゾート地を点々として静かに暮らしている。
音楽から離れたマルコの寂しさは、行く宛のない毎日を活躍していた頃の自分が眺める、そんな感覚だった。
エリカは彼の言葉に、自分自身を重ねていた。
彼女もまた、ラジオの世界で成功を収めながらも、次第にそのプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのだ。
リスナーの期待に応えるために、感情を押し殺し、次第に音楽を楽しむことを忘れてしまっていた。
「あなたも何かから逃げているのかもしれませんね。」
マルコが優しくそう言った。
エリカは少し驚いたが、彼の言葉に反論する気にはなれなかった。
「そうかもしれません…」と呟き、目を伏せた。
新しい恋と夜の風
その夜、二人はプールサイドのカフェで深夜まで話し込んだ。
心地よい風が静かに流れる中、マルコはふとエリカに近づき、肩に手を添えた。
その瞬間、エリカの心に柔らかな波紋が広がった。
彼の指先が伝える温もりは、今まで忘れていた感情を呼び覚ました。
二人の間に流れる微妙な空気。
まるでジャズのアドリブのように、予測できない緊張感があった。
それは大人の恋のように複雑で、甘美で、そしてどこか切なさを伴うものだった。
エリカはその感覚を、ワインのように少し苦く、そして後味がほんのり甘いものとして感じた。
「この夏、あなたとこうして出会えたのは偶然ではない気がするんです」
とエリカは囁いた。
「僕も同じ気持ちです。夏の終わりが来る前に、もっと話をしましょう。」
マルコの瞳が深くエリカを見つめた。
マルコはエリカの手を取り、おもむろに奥のバーにあるピアノへ向かい、二人でその前に腰を下ろした。
エリカの見つめる先にマルコが演奏する姿があり、その音色は昔の輝きを取り戻したかのように優雅で洗練されたものだった。
しかし、二人はその夜のうちに、言葉以上の関係には踏み込まなかった。
大人だからこそ、踏み込めない境界線があることをお互いに理解していた。
それがまた、甘く切ない感覚をより鮮明にした。
翌朝の再会と、永遠の別れ
翌朝、ホテルのテラスでエリカは静かにコーヒーを飲んでいた。
昨夜の会話を思い返しながら、心に残る余韻を楽しんでいた。
マルコは部屋をチェックアウトする前に、彼女の前に現れた。
「これでさよならですね。」
彼は笑顔を浮かべながらも、その瞳にはわずかな悲しみがあった。
「ええ、でもあなたの音楽をもう一度聴けて良かった。」
エリカは微笑み返した。
「エリカ、僕たちの出会いも、音楽みたいなものかもしれませんね。
気まぐれで、でもどこか完璧で…そして、いつかまた別の旋律で再会するかもしれない。」
マルコはそう言って、エリカの手にそっと触れた。
それは長くは続かない、でも忘れられない一瞬だった。
新しい旋律と余韻
マルコが去った後、エリカは深い息を吐き、コーヒーを一口飲んだ。
苦味の中にほのかな甘さが広がる。
それは、昨夜の恋の余韻と重なり合った。
プールサイドからはジャズが静かに流れ続けている。
まるでチャット・ベイカーが甘いトランペットで、夏の終わりを告げているかのようだった。
エリカはその音楽に包まれながら、マルコとの夜を思い出した。
彼との出会いは、まるで一夜限りのジャズセッションのようだった。
短く、でも心に残る一曲。
それはこれからの彼女の人生にも、心の中でリフレインするだろう。
夏はやがて終わる。
けれど、その短い瞬間に奏でられた感情は、きっとまたどこかで蘇る。
そしてそれが、エリカにとっての新しい旋律となることを彼女は感じていた。
終わり
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