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空がたかく見えたころ〜レトロな 小学生時代   

 
  朱色のランドセル


 「おおくにぬしのみことさま」との結婚を夢見ていたわたしも、もうすぐ幼稚園を卒園し、春から一年生になることになった。

 「おおくにぬしのみことさま」との結婚は、頭の片隅によぎることはあったけれど、「毎日考えて、毎日お祈りする」といった、三才くらいのころの熱心さは、さすがに無くなっていた。

 だって、もう、小学生になるのだから、あまり赤ちゃんぽいことを言ってはいけない、と自分に言い聞かせていたのだ。

 そんなある日、父と母から、

 「今度の日曜日に、ランドセルを買いに出かけよう。」と言われた。

 「ランドセルかぁ。」

 父と母のいろんな知り合いとか、親戚とかから、すでにいろいろお祝いをもらっていたので、わたしは、学習机とか、机上本棚とか、鉛筆削り器などは、もう買ってもらっていた。

  でも、一番大事なのは、毎日教科書を入れて通うランドセルだ。

 ランドセルについては、わたしには、特別のこだわりがあった。

 それは、その頃の女の子なら、普通にみんな欲しがった「赤いランドセル」だけは、絶対にいや!というこだわりだ。

 わたしは「朱色のランドセル」が欲しかったのだ。

 なぜなら、「朱色」は「神さまの色」と、その頃のわたしは強く思っていたからだ。

 「朱色のランドセル」は、わたしを見つけてもらうための目印になるはずで、わたしが、未来に、「おおくにぬしのみことさま」と結婚するためには、「朱色」のランドセルを背負っていないと、他の女の子と見分けがつかなくなるからまずいのだ、と、わたしは考えていたのだ。

 「他の女の子とは違うわたし」を、わたしは望んでいた。

 さて、日曜日が来て、わたしたち家族は、全員で、ランドセルを買いに出かけた。

 「わたしは、朱色のランドセルしか欲しくないからね!」

 でかける前に、わたしは、父と母に、そう宣言した。

 わたしが普段から「朱色」が好きなことは父も母も知っているので、

 「朱色ねぇ。あればいいねぇ。」

 と言ってくれたけれど、「朱色のランドセル」が、どこかに売っている確証はどこにもなかった。

 わたしが住んでいた地方都市には、その当時、大きなデパートが三つあった。わたしたち家族は、その三つのデパートのランドセル売り場を残らず見て歩いた。

 デパートは、それぞれ離れた場所にあったので、三つめのデパートに着いた時には、もうみんなくたくただった。

 全部見たけれど、どこにも「朱色のランドセル」は売っていなかった。

 「全部見たけど売ってなかったねー。仕方ないね。」

 と、父と母は言った。ここまで見ても無いのだから、頑固なわたしもあきらめてくれるだろう、と二人は思ったのだろう。

 けれど、わたしは、あきらめるどころか、逆に、俄然やる気になっていた。

 「朱色のランドセルしか欲しくないんだよ!」

 わたしはまた宣言した。もう必死だった。

 「絶対にあるの、どこかに。わたしが背負うための朱色のランドセルは!」

 わたしは、まるで、朱色のランドセルが、自分にだけは見えているかのように、主張した。

 するとそのとき、父が、ふと思い出したように、

 「一軒だけ、古いカバン屋さんだけど、見てないお店がある!」と言ったのだ。

 わたしたちは、もと来た道を引き返し、かなり古い、老舗感のある、カバン屋さんを見つけて、入って行った。

 「いらっしゃいませ。」  

 老舗感のあるおじいさんが、わたしたちを迎えてくれた。

 「あのぅ。朱色のランドセルを探しているんですが、無いですよね?」

 父がおそるおそるおじいさんに聞くと、そのおじいさんは、

 「朱色のランドセルですか、あ、はい、ございますよ。」

 と、にっこりとして答えたではないか。

 わたしは、思わず、

 「やったー!」

 と飛び上がってしまった。

 「奥にございますので。」

 と言うおじいさんに付いて、わたしたちは、奥にあるショーケースまで歩いていった。

 古めかしいお店の、一番奥の、ガラスケースの中に、その「朱色のランドセル」は、とても特別な感じに、飾られていた!

 「これ、これ、これだよ、お父さん!」

 わたしは感動して、声が裏返ってしまったのを、今でも憶えている。

 いかにも「おおくにぬしのみことさま」ぽい荘厳さだと思ったのだ。

 ーーあぁ、これでもう大丈夫!

 わたしは、このランドセルさえ手に入ったら、何も恐れることなく、小学生になれる、と確信した。

 これで、「他の女の子とはちがうわたし」に、なれるのだ。

 老舗のカバン屋さんに、何故一個だけ「朱色のランドセル」があったのか?

 どう考えてもとても不思議だ。

 わたしは、これは、絶対に、「おおくにぬしのみことさま」からわたしへの、「空からのプレゼント」に違いない、と思った。

  店員さんがおじいさんだったのも、わたしには「神さまのお使い」を想像させた。

 「おおくにぬしのみことさま」は、やっぱりかっこいい。

 わたしは、このうれしい出来事から、

 「絶対にあきらめないで、願い続けることの大事さ」を知った。

 願い続ける人には、きっと、神さまは味方をしてくれるはずなのだ。

 欲しいものは、最後まで、あきらめない。

 そのおもいは、どんなときも、今でも、わたしの人生を支え続けている。


膨らんだ袖のブラウスとずぶ濡れの日


 わたしが子どもの頃、既製服は高級品だった。だから、よほどのお金持ちでない限り、子どもは皆、お下がりか、親の手作りの洋服を着ていた。

 わたしの母は、洋裁の専門学校を出ていて、洋裁が得意だった。季節ごとに、「スタイルブック」なるものを参考にして、流行を取り入れた洋服を縫っては、私たち姉妹に着せてくれていた。

 季節ごとに、作る洋服のデザインを決めると、母は、私たちを、市の繁華街にある生地屋さんに連れて行く。

 天井から所狭しと下がっている、たくさんの生地の中から、

 「好きな色と柄を選びなさい。」

と、言うのである。

 デザインは頭に入っているので、生地を眺めながら、イメージしてみる。この作業は、想像力を使うので、わたしは大好きだった。妹は小さかったので、たいていの場合、妹の生地も、わたしが選んでいた。

 三年生の夏休み前の七月、社会科見学で、学校の近くの貝塚に行くことになった時も、母は、わたしに、

 「じゃ、新しいブラウスを作ってあげようか?」

と、提案してくれた。

 「わーい。それなら、膨らんだ袖のブラウスがいいな!」

 わたしはさっそく、その頃憧れていた、膨らんだ袖のブラウスを母にねだった。

 母と「スタイルブック」を見ながら、あーでもないこーでもないと話し合い、ショールカラーの丸襟で、胸の部分で切り替えがあるデザインに決めた。胸の部分の切り替えでは、ギャザーを少し寄せることにした。あとは生地選びである。

 日曜日、私たち家族は生地屋さんに行き、生地を選んだ。そんな日は、みんなで出かけるので、一日がかりになる。

 いつもの生地屋さんで、わたしは、山吹色の、モダンな、一風変わったお花柄の生地を選んだ。その生地は、とても自分に似合うように思えた。あとは、母の腕しだいだ。

 社会科見学は七月一日だった。

 母は毎日忙しいので、決まった日時に合わせて洋服を作るときは、その当日の朝に出来上がる、とほぼ相場が決まっていた。たいてい、徹夜で仕上げるのだ。

 社会科見学の朝も、例外ではなく、やはり、当日の朝、出来上がったブラウスに、母はアイロンをかけていた。

 「膨らんだ袖は難しいね。」

 と、言いながら、母は、出来上がったブラウスを見せてくれた。

 完璧!

 とても素敵で、とても可愛らしい。

山吹色の、真新しい、膨らんだ袖のブラウスを着て、リュックを背負い、わたしは、誇らしい気持ちで家を出た。

 数時間後に、信じられないような出来事に遭遇することになるなんて、全く予想だにせず、ただただ、新しいブラウスを着ている自分に酔いしれていた。

 貝塚までは、学校から、ほんの二十分くらいだったと思う。地元では有名な貝塚で、昔の人が、貝を食べて、捨てた殻が、地層になっているのだった。

 みんなで貝塚の説明を先生から聞いていると、空の雲行きが少し怪しくなって来た。すると、そう思う間もなく、今度は、空がいきなり真っ暗になった。

 大粒の雨が降ってきた。そして、その雨は、あっという間に土砂降りに変わったのだ。学校を出る時は良いお天気だったので、傘を持っている人は誰もいない。

 先生が先頭に立って、とりあえず、すぐ近くの、旅館のような建物の、軒下に避難した。押し合い圧し合いである。

 そのうちにも、雨はどんどん強くなり、豪雨になった。わたしは、雨が強すぎると息が出来なくなるのだ、ということをその時初めて経験した。とても怖かった。

 先生が、旅館の人に頼んで、みんなで旅館のなかに避難させてもらった。もうみんなずぶ濡れだった。夏だから、寒くはないのだけれど、下着まで通るくらい濡れてしまったので、風邪をひきそうだった。

 タオルを貸してもらって、濡れたからだを拭いたように記憶している。それだけでも楽になり、少し安心出来た。みんなで旅館の人の親切に感謝したと思う。

 やがて、豪雨は去り、晴れ間が見えてきたので、その隙に、私たちは、学校に帰った。

 学校には、お迎えの、着換えを持ったおかあさんたちが続々とやって来た。そして、着換えた人から、おかあさんと帰っていった。

 わたしには、お迎えは来なかった。多分、徹夜した母は、手のかかる妹を連れて、バスに乗って、学校までやってくる体力がなかったのだと思う。

 わたしは、無惨にも濡れて、からだにひっついてしまい、ぺしゃんこになった山吹色の、膨らんだ袖のブラウスのまま、家に帰った。

 夏だったので、もう、ブラウスは乾いていたけれど、朝、出来たてで、アイロンがかかったばかりの、ふんわりしたあのブラウスのおもかげは、もう、みじんもなかった。

 「ただいま。」

 と帰ると、げっそりした顔の母が、

 「おかえり。お風呂にはいったほうがいいよ。」

と、迎えてくれた。母は、迎えに行くよりも、お風呂を焚いたほうが良い、と判断したようだった。

 わたしは、膨らんだ袖のブラウスを脱いで、お風呂に入った。

 温まったので、風邪はひかなかった。

 でも、土砂降りの雨に打たれた新しいブラウスは、風邪をひいたように、わたしには思えた。

 洗って、アイロンをかけてもらっても、出来たての朝の時のようなふんわりの感覚には、もう二度とならなかったのだ。

 山吹色も、少し色褪せたように感じた。

 なんでも無い日常は、天変地異によって、一瞬にしてこんなにも変わるのだ、ということをその日、わたしは初めて知った。

 それに、旅館の人の親切に触れて、何の関係もない人が、困った時に、親切にしてくれることのありがたさも知ったのだった。

 山吹色の膨らんだ袖のブラウスは、それでもお気に入りだったので、小さくなって着れなくなるまで良く着た。

 おろしたての日に経験した出来事は、学校の語り草となり、「七月一日のこと」として、文集にまでなった。

 山吹色の膨らんだ袖のブラウスを着たときの誇らしい気持ちと、「七月一日のこと」は、一対の想い出として、今もわたしのこころに刻まれている。

 あの日の朝、おろしたてのふんわりしたブラウスを着た、得意気なわたしを、写真に撮っておいてもらえば良かったな、と思う。  

  

 ポプラの並木と学生寮の小道


 三年生のとき、クラスの子に恋をした。初恋だったかもしれない。

 その子の名前は「きよしくん」。

 一年生と二年生の時は違うクラスだったので、顔を合わす機会もあまりなくて、全然印象に残っていない子だった。

 三年生に進級して、同じクラスになってはじめて、「きよし」という名前なのだと知った。

 「きよしくん」は、背が高くて、色が白くて、お目々がパッチリのイケメンだった。運動も得意だし、成績も良くて、授業中もハキハキ正解するので、いわばクラスの中心人物だった。

 それなのに、女子からは全然モテていなかった。

 何故か?

 それは、彼には、女子からみたら、よく意味のわからない、不思議な趣味があったからだ。

 休み時間になると、「きよしくん」は、お掃除の用具入れから、ほうきを取り出す。

 そして、取り出したほうきを「刀」に見立てて、「きよしくん」は、いきなり、「座頭市」のものまねを始めるのだ。

 まず、目が見えないような顔つきをし、目を白目にする。次に、暗記しているセリフを、ほうきを片手にうなり出すのだ。

 黙っていたらすごいイケメンなのに、「きよしくん」は、何故か休み時間になると、「座頭市」になりきってしまうのだ。

 でも、わたしは、「きよしくん」の、その意外な一面が、実は大好きだった。

 イケメンなのに、一生懸命に三枚目を演じる「きよしくん」は面白い。

 女子たちは、

「きよしくんて変だよね。」

と、口々に言って、どちらかというと嫌っているようだった。

 でも、わたしは、イケメンで面白い「きよしくん」にぞっこんで、いつも、「きよしくん」の「座頭市」を笑って見ていたし、どうにか工夫して、一緒に下校してお話してみたいものだ、と策を練っていた。

 「きよしくん」は、途中まで同じ道を帰るのだけれど、たいてい仲良しの男子と一緒に帰るので、なかなかチャンスが無い。

 わたしにしても、一人で帰ろうとすると、たいてい女子の誰かが追いかけて来て、

 「一緒に帰ろう!」

と言って来るので、「きよしくん」と二人で帰ることはかなり難しかった。

 素敵な「きよしくん」に、ただただあこがれながら、わたしの毎日は、ワクワクと過ぎていった。

 けれども、そんなわたしに、やがてチャンスが巡って来た。席替えで、「きよしくん」とわたしは隣の席になったのだ!

 神さまが味方してくれてる、とわたしは思った。

 「きよしくん」と、毎日、他愛もないお話をすることができるようになった。「きよしくん」が、どんなに「座頭市」が大好きなのか、もよくよくわかった。

 だって、「きよしくん」は、ちょっとでも時間があると、すぐに「座頭市」になってしまうのだもの。そうして、暗記しているセリフをずっと喋っているのだもの。

 ある日、一緒に教室のそうじ当番をしていたら、わたしと「きよしくん」は、先生に呼ばれた。

 「君たち二人で、黒板のお掃除をしてもらえないかな?もうすぐ夏休みだから、黒板は、隅々まできれいにして、短いチョークは捨てて、チョーク箱や黒板消しもきれいにしてね。」

 ーーこれは一緒に帰るチャンスだ!

 わたしは、他の子たちが教室のお掃除を終えても、居残って、「きよしくん」と二人で、一生懸命に黒板掃除をした。

 黒板も、チョーク箱も、黒板消しも、とてもきれいになった。

 「きよしくんて、ポプラの木の方に帰るよね?」

 もちろん知っているんだけれど、わたしは「きよしくん」にそう聞いた。

 「うん。」

 「わたしもポプラの木の方に帰るんだ。一緒に帰ろうよ。」

 ドキドキしながら、必死に言ってみた。

 「うん。」

 そうして、わたしの願いは、夏休みの目前に叶ったのだった。

 学校の校庭の、一番端っこに、とても背の高いポプラの並木があった。夏の青空に、ポプラの緑はとても似合う。風にポプラの大きな葉がそよぎ、ざわざわと音がする。二人で歩くのにピッタリな、素敵な場所だった。

 ポプラの並木を過ぎると、今度は、大学の学生寮が見えてくる。学生寮の横は小道になっていて、通り抜けることが出来るので、わたしたちは通学路として使っていたのだ。

 わたしと「きよしくん」は、小道を並んで歩きながら、今日学校であったことや、習ったことなんかを話した。

 とても楽しかったし、とても嬉しかった。

 すると、「きよしくん」は、

 「あのさ、僕さ、夏休みに引っ越すんだ。」

と、言い出した。

 「え?」

 「だからさ、僕さ、転校しちゃうん だ。」

 ーーなんですって?

 耳を疑った。にわかには信じられなかった。

 せっかく一緒に帰れるところまで仲良くなれたのに、転校だなんて。。

 でも、「きよしくん」のお話は本当だった。「きよしくん」は、わたしに、一番最初に話してくれたのだ。

 次の日、担任の先生から、「きよしくんの転校」についてのお話があった。

 そこから三日間くらい、わたしは、誰が邪魔しに来ても断って、「きよしくん」と一緒に、ポプラの木の方に帰った。そして、大学の学生寮の小道を、二人で並んで歩いた。

 次の日から夏休み、という日、「きよしくん」は、みんなの前で、お別れのあいさつをした。

 そして、みんなに、一冊ずつ、大学ノートを配った。

 「元気でね。」

わたしは、大学の学生寮の小道で、「きよしくん」とお別れをした。

「きよしくん」は、お父さんのお仕事の都合で、他県に引越して行った。でも、どこの県だったのか、全く憶えていない。

 わたしには、「きよしくん」と、ポプラの並木を通って、大学の学生寮の小道を並んで歩いた「幸せな記憶」と、「大学ノート」だけが残った。

 大学ノートには、「きよしくんがくれたノート」と書いたけれど、自分の机の、大切なものを入れる引き出しに仕舞ったまま、結局、使うことは出来なかった。

 わたしの初恋は、こんな風に、はかなく消えたけれど、イケメンなのに三枚目だった「きよしくん」が、その後、どんな人生を歩んだのか、少しだけ知りたいような気もする。


  泳げるようになったわけ 


 三年生の夏休み。学校のプールが、期間限定で開放されていた。

 「開放日のうち、何日かは参加しないといけませんよ。」

 と、休み前に、担任の先生から言われていたのだけれど、わたしは気が重かった。

 だって、わたしは泳げないのだ。

 しかも、とても背が小さいので、学校のプールでは、一番浅いところでも、やっと、つま先立ちで、口が水面から出る、というくらいだ。だから、入っているだけでとても疲れる。

 プールはキライだった。

 でも、行くと、先生からはんこを押してもらえる「プールカード」というのがあって、行かなかったらはんこは無いので、バレてしまう。

 重い腰をあげて、わたしはプールの支度をしてバスに乗った。

 夏休みのプールは、開放日には、学校の子なら誰でも入れるので、いろんな学年の子が同時に入っている。

 縦長のプールの真ん中あたりには、当番の先生がいて、危険なことが起きないように見張ってくれていた。

 家から水着を着て行くので、教室では、ブラウスとスカートを脱ぐだけで、すぐに準備は完了だ。

 おそるおそる水のシャワーを浴び、準備体操をして、さぁ、プールに入る。

 でも、わたしは泳げないから、プールの手すりにつかまって、バタ足をするだけが精一杯なのだけれど。。

 前かがみになって、手すりにつかまり、わたしがプールへの階段を降りようとしたとき、ちょうど、五年生くらいの、体格の良い男の子たちが三人くらい、わたしのすぐ後ろを、早足ですり抜けて行った。

 と、その瞬間、わたしは、バランスを崩して、そのまま、頭からプールに落っこちてしまったのだ!

「プールに入ったら目を開くんだよ。」

と、いつも先生に言われていたので、わたしは、落ちたとき、無我夢中で目を開いた。

 勢いよく落ちてしまったので、目を開いてみたら、わたしは、なんと、プールの底まで落ちていて、プールの底におしりが着く、という格好になっていた。

 すると、次の瞬間、何か強烈な力がどこからか働いて来た。そして、すごい勢いで、わたしの体は、いきなり浮き上がっていったのだ。

 「え?」

 泳げないはずなのに、なぜか、わたしはプールに浮いていた。

 「浮いてる!」  

 「浮くってこういうことなんだ!」

 こうして、泳げないはずのわたしは、ひょんなことから、初めて「浮く」ということを知った。

  不意に落ちてしまったために、「怖い」とか、「どうしよう」とか、人間らしく考えるゆとりがなかったので、とても物理的な反応が起きたのだと思う。 

 「物」は、浮くのだ。

 水が怖いので、水に入ると体がこわばり、力が入る。バタバタしてしまう。そうすると浮かないのだ。

 はたからは、プールに入ろうとしていた児童が、プールに飛びこみ、浮いている、としか見えなかったのかもしれない。見張りの先生は、わたしのことを、全く気にもとめていないようだった。

 でも、このちょっとした事件から、わたしは「浮くこと」ができるようになった。

 さらに、授業で教わったように手足を動かしてみたら、あっという間に、いとも簡単に、泳げるようになったのだった。

 泳げるようになってみると、プールは楽しい。

 わたしはプールが好きになった。

 三年生の夏休みの後半は、プール開放日のたびに、そそくさと学校に出かけ、存分に泳いだ。楽しくてしかたがなかった。

 調子に乗りすぎたのかもしれない。

 夏休みももうすぐ終わる頃、わたしは高熱を出して寝込んだ。

 お医者さんには、

「プール熱ですね。」

 と、言われた。

 三日間、高熱にうなされ、うわ言まで言ったらしい。

「枕と枕がケンカしてるよぉー。」

 と、何度も何度も叫んでいたよ、とあとで母に言われた。

 熱が下がったら、三年生の夏休みも残すところ数日となっていた。

 連日泳いでいたわたしは真っ黒に日焼けしていて、なんだかたくましくなっていた。

 もう、泳げなかったときのわたしとは別人のようだった。

 ーー泳げるってすごいことなんだ。

と、思った。

 夏休み明け、学校が始まると、泳げるようになったわたしを見て、クラスのみんなも、先生も、とても喜んでくれた。

 でも、結局、「泳げるようになったわけ」については、わたしは誰にも言わなかった。

 だって、「プールに落ちたから。」なんて、恥ずかしくて、とても言えるわけがない。


   通学路のおじいさん


 小学校二年生のときに引っ越してから、中学校を卒業するまで、わたしは、ずうっと同じ通学路を通って学校に通った。

 わたしが通った学校は、入学試験に合格して幼稚園に入ると、そこからは、中学校まで、エスカレーター式だった。

 幼稚園も小学校も中学校も同じ敷地内に隣り合っていたので、結果、同じ場所に、十一年間も通い続けることになったのだ。  

 幼稚園の頃は、その学校から比較的近くに住んでいたので、徒歩通学だった。

 その後小学校二年生で県営団地に引っ越してからはバス通学になった。中学校一年生で、また引っ越したけれど、学校のある町でバスを降りることには変わりがないので、学校までの通学路は結局同じだったのだ。

 その通学路といったら、まるで迷路のようだった。表の大通りから、自動車が通らない安全な裏道に入るのだけれど、もしも一丁、間違って入ってしまったら、おそらく全然違うところに連れて行かれてしまうような道だったのだ。

 そんなわけで、慣れていない一年生などには、必ず上級生が一緒に付き添った。

 わたしが二年生で初めてその通学路を通ることになったときは、なにせ、引っ越したばかりで知り合いがおらず、連れて行ってくれる上級生はいなかったので、何度も迷って、大変な苦労をして学校にたどり着いた。

 わたしは、朝は早めに家を出る子どもだったので、迷ってもなんとか遅刻はせずに学校にたどり着いたが、それでもしばらく慣れるまでは、毎朝ドキドキしながら道を探したものだった。

 迷路のような通学路の極めつけは、「はんこ屋のおじいさんのお店」だった。

 「名物のおじいさん」だった。

 間違わずに裏道に入ると、路地のつきあたりに、「はんこ屋のおじいさんのお店」が見えてくる。そのお店は、角地にあって、そこを抜けると、学校に通じる大通りに出ることができるのだった。

 「おじいさんのお店」には、格子戸があって、ガラスが張ってある。子どもたちが通る、道に面しているところには、お店の入り口はないので、「おじいさんのお店」に入ったことがある子どもはいなかった。

 「はんこ」という看板があるので、「お店」らしいのだけれど、どこから入るのかはわからないのだった。

 「おじいさんのお店」の中は、通り抜ける時に見える。

 箪笥のようなものの上に、丸い大きめの卓上めざまし時計が置いてあって、それが、通学の子どもたちの方に向けてあるので、わたしたちは、その時間を見て、自分たちの足の速さの調整ができるのだった。

 おじいさんは、毎朝、子どもたちが通っても、特に気にとめるような様子もなく、一生懸命にはんこ作りをしている。

 子どもたちはみな、通り抜ける瞬間に、口々に、

「おはようございます!」

と、元気よく挨拶した。

 おじいさんは、時々手を振ってくれたりもするのだが、基本ははんこ作りをしていた。ガラス越しだから、声を出していたとしてもたぶん聞こえなかったのだ。

 「おはようございます。」

 「おはようございます。」

 子どもたちが口々に言っても、おじいさんが笑ったところは、誰も見たことがなかった。今思うと、おじいさんは、いわゆる典型的な「職人さん」だったのだろうと思う。

 それでも、わたしたちは、必ず挨拶をした。みんな、何故か、そのおじいさんが大好きだったのだ。

 みんな、「時計屋のおじいさん」と呼んでいたけれど、おじいさんは「はんこ屋さん」だったし、「おじいさん」と思っていたけれど、意外と「おじさん」だったのかもしれない。十一年間、「おじいさん」は、全く、雰囲気が変わらなかったのだから。

 それでも、おじいさんは、大切な時計を、おじいさんからは見えない方向に、子どもたちのために、向けておいてくれている、という優しい心づかいに、みんなすっかり感心して、とても感謝していた。 

 中学校を卒業して、おじいさんのいる道を通ることもなくなり、自分の腕に時計をして通学するようになっても、わたしはときおり、おじいさんの時計のことを思い出した。

 その後、大分大人になってから、その通学路のあった場所を訪ねてみたことがあった。

 市の道路開発で、もう、全部が大通りになっていて、路地も裏道もなんにも無くなっていた。

 「おじいさん」だって、とっくに天国に召されたことだろう。

 それでも、わたしのこころのなかには、まだ、あのまんまるのめざまし時計が見える。

 二年生のわたしが、迷路のような路地の道に迷いながらも、やっとあのおじいさんの時計が見える道までたどり着いて、

 「やった!」

 としたり顔をしてうなずくところを、あの時計はきっと、見ていたはずだ。

 

 



















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