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『春よ、来い』は春の歌じゃない。


最近ユーミンがよくテレビに出てますね。
50周年らしいです。

私がユーミンの曲で1番好きなのは、
『春よ、来い』です。

ところで皆さんは、『春よ、来い』をいつの季節の曲だと思いますか?

私は梅雨、もしくは冬。少なくとも春ではないかなと思います。

その理由と『春よ、来い』の魅力を話していこうと思います。



来いと言っているから春ではない


まず、『春よ、来い』と言う曲名から季節感が予想できます。


通常、来いというからにはその時点にはいないと思われます。


たとえば『はやく夏休み来て。旅行行きたい。』というように、

未来を呼んでいるとき


に使います。


そのため、季節が春ではないと思われるのです。


しかし季節という特色上、春の可能性も残しています。
春の終わりに春よ、来いと言った場合、春の訪れを感じたいのかな?と考えることもできます。

しかし一般的にこのような使い方はしませんので、やはり季節は春でないでしょう。



にわか雨と沈丁花が醸す梅雨の空気


私が『春よ、来い』を梅雨の曲だと思う理由は、1番最初のフレーズにあります。

『春よ、来い』の歌い出しは


浅き光立つにわか雨
愛し面影の沈丁花

です。

私はここから梅雨の空気感を感じました。

まず浅き光立つにわか雨です。

雨という言葉から連想される季節はやはり梅雨が強いのではないでしょうか。


またそのあとの

愛し面影の沈丁花

にも梅雨を思わせる表現があります。


沈丁花とは、4月ごろまでに咲く花です。

そのため沈丁花が愛し面影ということは、

4月はすでに過ぎ去っている


のです。


そしてそのすぎた花を面影として思い出せるほどの時期である。つまり忘れるほど時間は過ぎていない。

ということから

梅雨あたりの季節の歌ではないか

と私は思うのです。


アートとして聴く『春よ、来い』



今回のテーマ『春よ、来い』ですが、
深く聴くと途轍も無く多くの表現が詰め込まれています。

絵画で例えるなら、

ドラクロワ作『民衆を導く自由の女神』

のようなポジションでしょうか。


色彩や構図のみならず多角的に表現がなされ、その一つ一つから想いを受け取ることができる。

そして一見マス的で単調な表現に見えるものの、実は思考サイクルの熱が感じられる作品。

このように私は思います。


この『春よ、来い』について、実はすでに記事を書いたのですが、
1番の解説だけで5000文字を突破してしまいました。
このままではとてもじゃないですが読みきれないものだと判断し、トピックごとに五月雨式に出していくことにしました。

よかったら次回も読んでください。

ではまた。

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