掌編小説『未読に戻しますか?』

        あらすじ

 主婦の“私”は、隣の齋藤家、特に奥さんの百子との付き合いがうまく行っていない。はっきり言って、トラブル続きだ。向こうは影でこそこそとやるタイプみたいだけど、こっちは常識があるつもりだから、なるべく穏便に済ませたい。でも、ここまで反りが合わないとなると、ふと、天罰でもくだらないかしら……と思わないでもない。すると。

         本文

 三十五年間生きてきて、ご近所トラブルとは無縁だった。小さな子供だった頃も、一人暮らしをした学生時代も、結婚して子をもうけてからも一切なかった。多少のストレスを感じることもあるにはあったけれども、今にして思えば恵まれていたんだと分かる。
 それだけ現在の隣人とは反りが合わない。きっかけはゴミの分別だった。
 個包装になったキャンディの包みで、一見、銀紙のような物があるけれども、あれは燃えるゴミに入れていい。自治体によって違うかもしれないが、少なくとも私達の暮らす区域では燃えるゴミになる。
 そのことを隣の齋藤百子さいとうももこは知らなかった。なのに、私の家から出たゴミ袋に、キャンディの包みをめざとく見つけて、燃えないゴミを燃えるゴミに入れているのではないかとクレームを付けてきたのだ。もちろん、これが最初だったから、私の方も穏やかに応じたつもりだ。「いえこれは燃えるゴミでいいんですよ。見た目はアルミホイルみたいですけどね」と。
 相手はそのときは大人しく引き下がったけれども、どこかで恥をかかされたという感情を抱いたに違いない。しばらく経って、資源ゴミなどを出す日を迎えたときだ。当番は四人、うち二人が私と齋藤百子だった。
 私はその日、持ち込まれたスプレー缶をチェックし、穴を開けていない物には道具を使って開ける役を担っていた。ほとんどは穴開けの処置が施されているけれども、希に開けてない物がある。私はそういったスプレー缶を手に取っては、先がL字型になった道具を振るい、軽快に穴を開けていった。
 十五分ほどして、齋藤百子が「これも開いてないわ」と渡してきたのは、塗料のスプレー缶。私は受け取ってすぐに道具の切っ先を振り下ろした。
 穴が開いた途端に、ぷしゅっという小さな破裂音がした。同時に、中から赤の塗料が勢いよく吹き出し、私の上半身を染めた。
 年甲斐もなく悲鳴を上げていた。まさか、中身がこんなに残っているなんて。顔や腕といった肌の露出した箇所にはほぼ飛ばなかったけど、服にたっぷりと浴びてしまった。
「あら~、ごめんなさい。そんなに残っているとは気付かなくって」
 齋藤百子は眉を八の字に寄せて、いかにも申し訳なさげに手を拝み合わせてきた。声のトーンが高くて、イラッとしないでもなかったが、わざとこんなことをやるはずない。「いいのいいの」と応じた。班長を務める年長の鈴木すずきさんに「帰って着替えてきても」と、みなまで言う前に「ええ、早く行きなさい。服の汚れ、取れないかも」と答えてくれた。
 こういう作業をするのだから、ジャージ姿だった。まあだめになるだろうけれど、服のことはそう心配するほどではない。ただ、齋藤百子がクリーニング代を出しましょうかとか、代わりのジャージをとか言い出さないのは、何となく腑に落ちなかった。
 それからまただいぶあとになって、特に親しい田中たなかさんからこんな話を打ち明けられた。
「あなたが着替えてくる間に、誰がこんなに残してゴミに出したのかしらねって話になったんだけど、その場では分からなかったのよ」
「ええ、それは聞いた」
「でも、本当は齋藤さん家が出したゴミみたいなのよ」
「えっ? まさか……」
「見たのよ私、あそこのご主人と子供が、空き地でラジコンを走らせているのを。前に見たときは白かったラジコンカーが、いつの間にか赤をメインにして違うデザインになっていたわ」
「新しいのを買ったんじゃないの」
「ううん、そんなことない。というのも、私、話し掛けたから。『新しいのを買ってもらって、いいわねえ』って。そうしたら、子供は首を横に振るし、ご主人は頭をかきながら『前のを塗り替えただけなんですよ』って』
「……偶然じゃないの」
 口ではそう言ったものの、疑念が生じたのはこのときだ。
 以来、私は隣をそういう目で見るようになった。すると、今まで気にならなかったことが目に付くようになったのだ。最初は門扉の開け閉めで、そこの一人息子・友照ともてるは通る度に派手に音を立てる。そのガチャン!に、扉が戻るときのきぃいーという軋みも相まって、非常に耳障り。小学校低学年とは言え、ちゃんとしつけてほしい。
 次に気になったのは、我が家との境界間際に植えてあるキンモクセイの木だ。甘い匂いがきついのは我慢するとして、五月から六月にかけて毛虫が大量発生する。今のところうちの草花に被害はないようだけど、隣はキンモクセイに何の手入れもしてないし、虫退治もしない。どういう神経でいるのだろう。
 それから、同じく境目、我が家側に煙草の吸い殻が落ちていることがたまにあった。当初は、生活道路に近い側だったので、心ない歩行者が歩き煙草をしてポイ捨てしていくのかと思っていた。だが、常に同じ銘柄で、長さも同程度。これは一人の喫煙者による仕業だ。しかも、齋藤家の旦那の吸っている銘柄と一致する。ただし、隣の旦那・義貴よしきは昔風に言えばホタル族で、家の中では吸うなと言われているらしく、二階のベランダで吸っているところを二度ほど目撃したことがある。ベランダは私の家の方に向いていないし、境界線からは一番離れている。わざわざ投げたとしても、毎回うまく境界線のこちら側に落とせるとは考えにくい。
 そこでうちの主人が子供と出かけた日、お隣を一日中見張ってやるつもりで、境界線をどうにか見通せる勝手口近くの窓にへばりついてみた。そうしたら昼前に齋藤百子が出てきて、ビニール袋を片手に庭など家回りのゴミを拾い集めたかと思うと、最後に袋から吸い殻を一本だけ取り出した。何をするのかと息を詰めて見続けると、素知らぬふりをした齋藤百子は、吸い殻を私の家の玄関先に、ポトッと落とした。
 私は頭に血が上った状態で、勝手口を飛び出し、家に戻ろうとする齋藤百子に食ってかかった。
 最初、相手は驚き狼狽していたみたいだった。しかしじきに体勢を立て直すと、落ちていた、否、落としていった吸い殻を拾い上げ、「どうもすみません。落ちたのに気が付きませんでしたわ。次からは充分に注意するので、今日のところはご勘弁ください」と来た。たまたま落ちたのだという主張を突き崩すだけの物証はこちらになく、動画でも撮っていればよかったと後悔した。だが、この日以降、煙草のポイ捨ては一切なくなった。
 その後、目に見える形での嫌がらせはなくなったが、精神的な張り合いはエスカレートしていった。自分自身と夫と子供に関して、自慢し合う。ただそれだけなのだが、非常にくたびれるやり取りが続いた。認めるのは悔しいが、稼ぎは齋藤家の方が上だ。それも三段階か四段階ぐらいのレベル差だろう。お金があるのなら、もっといいところへ引っ越しなさいよと思うのだが、そんなつもりは毛頭ないみたい。家にお金を掛けるのは馬鹿らしい、夏涼しくて冬暖かく過ごせれば充分という主義のようだ。そういうお金を掛けていない家が、私達にとって精一杯のマイホームなのかと思うと、また腹立たしくなった。
 そんな静かな戦争状態がくすぶり続ける日々を重ねて、八月を迎えた。
 子供が夏休みに入り、主人も休みが取れたため、家族で十日間、私の実家に帰省することにした。齋藤家はもっと豪勢に海外で過ごすという計画を吹聴していた。なので、隣には何も伝えず、黙って出発した。
 東北の山に囲まれた片田舎で過ごしていると、齋藤百子のことを頭の中からすっかり追い払えた。父母だけでなく祖父母も健在でよくしてくれるし、自然に恵まれて心地がよい。思っていたほど涼しくはなかったが、それくらいは我慢できる。
 そんなある日。多分、帰省して四日目か五日目だったと思う。昼過ぎに実家の郵便受けを覗くと、結構たくさん郵便物が入っていて、取り出した。十日留守にするのだから、郵便局に転送届け(正式には転居届けだそうだが)を出しておいたので、自分たち帰省組宛の郵便物もある。
 宛名を見て手の内で分けながら、母屋に戻る。その途中で、レモンイエローの封筒に目がとまった。
 私宛で、ナップ・キッズ社という会社から来た物らしい。その企業専用とおぼしきちゃんとした封筒で、宛名書きは印刷したシールを貼ってある。
 でも、私は急速に興味を失った。というのも、子供が大きくなるにつれて、節目節目でこの手のダイレクトメールが大量に送りつけられることを知っていた。事実、ナップ・キッズ社なんて全く知らないし、資料請求をした覚えもない。どうせどこかから手に入れた名簿を元に、手当たり次第に送りつけているんだろう。そう理解した私は、母屋に上がるや、ゴミ箱にその黄色い封筒を投げ入れた。

 快適な日々はあっという間に過ぎる。長くいれば実家の父母らも多少は疎ましく感じて、まだ帰らないの的な空気を醸し出すものだが、今回は全く感じなかった。それだけ、私が齋藤家との“暗闘”に疲れていたのかもしれない。
 予定していた十日が経ち、引き留めてくれる両親らの言葉をありがたく感じながら、都会へ、自宅への帰途についた。その道中、新幹線内で、電光掲示のニュースを何の気なしに眺めていると。

<都内で誘拐事件発生。齋藤友照君(七才)が遺体で発見。犯人からの要求確認できず、行き違いか>

「……ねえ、あなた」
 私は主人を揺り起こした。主人も子供も眠りこけていたのだ。
「何だ。もう着くのか」
 目をこする主人を、電光掲示の方に注目させようとしたが間に合わず、次に表示されるまでしばらく待たなくてはいけなかった。
「……どう思う?」
「確かに、お隣の子供と同姓同名だな。でもまさかな。一応、確認してみよう」
 主人は携帯端末を取り出した。が、それは検索するまでもなく、トップニュース扱いだった。
「途中までしか住所は出てないけど、一致する」
「……」
 私は何とも言えない気分に味わっていた。
 無論、ざまーみろだなんてみじんも感じない。たとえ母親がどんなに性悪でも、子供に罪はない。いや、齋藤百子にだって同情する。子供が誘拐され、殺されるなんて、きつすぎる。もし仮に神様みたいなのがいて、齋藤百子が私に対してした嫌がらせの代償として、子供を奪ったのだとしたら、やり過ぎ、ひどすぎると言うほかない。
 どんな顔をして帰宅すればいいんだろう。暗澹たる気持ちになった。
 それからはほとんどしゃべることもなく、車内の時間を過ごした。そして終点の一つ前の駅を出発した段階で、私は荷物の整理を始めた。飲んだり食べたりした跡や、読みかけの雑誌、タオルなどを片付ける。
 その最中、バッグの外ポケットに黄色い物が見えた。引っ張り出してみると、あのナップ・キッズ社からの郵便だった。捨てたはずなのに……と不審に思いつつ、裏返す。そこには母の字で手書きしてあった。
『間違って捨てていたようなので、入れておきます』
 私はちょっとだけ苦笑した。とても笑う気分ではないけれども、それでもこの些細な、どうでもいい出来事、母のお節介が笑いを誘った。
 くしゃくしゃに丸めて、新幹線内のゴミ箱に入れようかと思ったのだが、何かの縁かもしれないと考え直し、開封した。
 中身は便せんが一枚と、さらに小さな封筒が一通。そして金券が五万円分。
 便せんには印刷した字で、「申し訳ありませんが、同封の小さな封筒を、お隣の齋藤家に届けてください。お礼として、同封した五万円分の金券は進呈します」とだけ記してあった。
「――あわわわ」
 歯の根が合わなくて、口がふにゃふにゃとしか動かせず、全身に震えが来た。こんなとき、人間は本当に「あわわわ」と言うんだなと、別の自分が感心していたかもしれない。
「どうした?」
 隣で目をつむっていた主人が聞いてきた。
 私はこの小さい方の封筒を開けて、中身を確かめるべきなのかを迷っていた。
 私が想像した通りの代物だとしても、私に責任はない。私は悪くない。でも、こんなことが明るみに出たら……だめだ。
 秘密を抱えて、嘘をつき通す覚悟はあるかを自問自答する。答は意外に早く出た。
「おい、どうしたんだよ。変だぞ」
 主人の声には反応せずに、私は席を立った。手には小さな封筒を握りしめて。

 終わり

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