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女子高のイエスー中原俊『櫻の園』



Ⅰ はじまり

 桜の季節に、復活祭の時期に、ぜひ観ていただきたい、そんな映画。

 ※予告編は、本編にない映像も多いですが、雰囲気を味わえます。

 女子高の創立記念日に、演劇部の部室で、2年生の城丸香織(宮澤美保)と大学生の彼が会話するところから映画は始まる。城丸は彼に、毎年、学校の創立記念日にチェーホフの『桜の園』を上演するのが習わしであることを伝え、『桜の園』のあらすじを話す。城丸が彼に時間を尋ねると、8時10分前で、10時の公演開始まであと2時間ほどであることがわかる。
 映画は、『桜の園』の上演開始までの2時間ほどを描いている。『桜の園』の公演では舞台監督を務める城丸は、狂言回しの役割を果たしているといえる。

城丸と彼

 城丸は彼とキスをしてから別れる。これは本作がエロースを主題とする映画であることを示唆しているといえよう。

Ⅱ 二つのハードル

 『桜の園』の上演に際して、二つのハードルがある。一つは、前日のゲネプロの後、3年生の杉山(つみきみほ)が喫茶店でタバコを吸い、警察に捕まったことである。後になって、杉山はタバコを吸う他校の生徒と一緒にいただけで、タバコは吸っていなかったことがわかるのだが。この「杉山事件」は、夜に演劇部の電話連絡網で回され、外泊した城丸を除く部員全員が知るところとなっている。この事件を巡って、朝、臨時の職員会議が開かれ、公演中止の可能性が生まれる。
 
 チェーホフの戯曲『桜の園』の中で、執事のエピホードフは「二十二の不仕合せ」と呼ばれるが、2・3年生を合わせると22人いる演劇部員は、22人の不仕合せな女子高生となるのである。因みに、桜の園が競売に出されるのは8月「22日」であり、戯曲で「22」は不幸とつながりがある数字となっている。

 もう一つは、3年生で主役のラネフスカヤを演じる倉田知代子(白島靖代)が、ゲネプロで台詞をつっかえるなどして失敗し、演技に自信が持てないでいることである。彼女は決められた登校時間に遅刻して現れ、曇った表情をしている。

遅刻して現れた倉田

Ⅲ 二人のイエス

 1 教師のイエス


 この二つのハードルを乗り越えようと奮闘するのが、顧問で、演出も務める里美(岡本舞)という若い女性教師と、3年生で部長の志水由布子(中島ひろ子)である。里美は職員会議で泣きながら、「来年来年って言ったって、もうあの子達は卒業してるじゃありませんか」といい、公演中止を阻止しようとする。このことは、倉田が職員室での伝聞という形で描かれる。

里美

 里美は、3年生の演劇部員に代わって、準備したのに公演できないという生徒たちの精神的苦痛を取り除こうとしているのである。生徒に代わって自己犠牲を払う里美は、生徒への無償の愛たるアガペー―里美は、演劇部顧問も務めることで給料を受け取っているため、純粋な無償の愛とはいえないかもしれないが―を実践するイエスのごとき存在であるといえる。結局、里美同様、公演中止に反対する教師もいて、公演は予定通り行われることとなる。

 2 高校生のイエス

 一方、志水は倉田を教室に呼び出し、「昨日のゲネ見てて、何か気にしてるなって思ったんだ」「これつけとけばアクセントになって胸、目立たないでしょ?」といい、倉田の許可を得て、倉田の胸にレースの飾りを縫いつける。倉田は胸の大きさを気にしていたことを認め、後になってから、「これ……ありがとう」という。志水は倉田本人に代わって、胸が目立つという精神的苦痛を取り除いているのである。イエスが十字架にかかることで、自分では自身の罪をどうすることもできないという人間の苦しみを、人間に代わって取り除いているように。

  

 倉田本人に代わって自己犠牲を払う志水もまた、イエス的存在であるといえる。しかし、里美と異なり、志水は倉田に対してエロースの感情を抱いている。これは、冒頭で志水が、倉田の衣装を持って恍惚とした表情を見せることで暗示されているし、杉山から聞かれたときに「倉田さんの事、好きなのは本当よ……」と認めてもいる。志水の行動は、自己中心的なエロースに端を発しているようでいて、結果として相手の苦しみを軽くしており、アガペーの役割を果たしているのである。   

 志水の舞台での役回りは、ラネフスカヤの召使「ドゥニャーシャ」である。志水は、倉田が気持ちよく演技できるよう、レースの飾りをつけてやっており、舞台から下りても召使のように女主人の世話をしているといえる。マルコ福音書10章43節で、イエスは「人に仕えるため」に来た、というが、それを身をもって実践しているのである。戯曲の中で、ドゥニャーシャは、ラネフスカヤにコーヒーを用意した際、クリームを忘れて老僕のフィールスに注意されているので、志水は舞台の下で、役柄以上に召使らしい気遣いを示しているのである。

 志水は倉田にレースの飾りをつけてやるが、倉田の苦しみは胸が目立つことだけではなかった。倉田は「女の役なんてやったことないし……そんなのできないよ」といい、公演を「火事でも地震でもいいから……中止にしてくれないかなって……」という。倉田は初の女役に精神的苦痛を感じていたのである。志水は、女役に自信が持てない倉田が公演の中止を望んでいることを知り、驚く。その後、精神的に追い詰められた倉田は火災報知器を鳴らし、そのことを志水は城丸づてに知る。

 志水は公演のために他の部員が去った部室で、倉田と二人きりになると、こういう。「中止になんかならない。覚悟を決めよう」と。そして、倉田がラネフスカヤの台詞を口にすると、それをハモるのだ。このとき倉田が口にするのは「この胸から、この肩から、重い石を取り除けたら……」という台詞であり、倉田が感じている重圧とシンクロする仕掛けになっている。
 志水が台詞をハモることで、倉田は初めて笑顔を見せる。倉田を元気づけようとする志水の言動は、倉田の重圧を取り除き、喜ばせたのである。台詞を言い終えた倉田の「大丈夫よね?」という問いに、志水は「うん」と答える。

ハモる志水と倉田

 自信を取り戻した倉田に、志水は「ねえ、写真撮らない?」といい、中庭で二人きりで記念写真を撮り、「あたし、倉田さんのこと好きよ……」とエロースの感情を告白する。倉田は「うれしい……もっと言って……」と志水のエロースの感情を受け入れ、二人はカメラに寄ってはリモコンのスイッチを押し、最後には二人の顔でスクリーンがいっぱいになる。二人は頬と頬を寄せ合い、笑みを浮かべる(トップ画面のショット)。 

 倉田は初の女役にプレッシャーを感じていた。その苦しみを、志水は倉田本人に代わって自己犠牲を払い、取り除いているのである。志水の言動は、胸元に飾りをつけてやったときと同様、エロースに端を発しているようでいて、相手の苦しみを軽くしており、アガペーの役割を果たしているのである。志水の言動は私的な感情に端を発しているようでいて、結果として、公演の中止ないしは失敗という、共同体の危機を救ってもいる。志水はその意味で、部長としての役割を十二分に果たしているといえよう。

 倉田と志水の記念撮影よりも前に、3人の2年生が倉田に「劇が終ったら、一緒に写真撮らせてもらえませんか?」「『桜の園』の衣装のまま……」といってきている。倉田は困った様子で、逃げるように城丸と職員室に行ってしまう。倉田の心境を知らないで、一方的に公演後の写真撮影を申し込んだ下級生は適当にあしらわれ、そのエロースが成就することはない。
 倉田の心境を知り、苦しみを軽くしてやった上で、公演前に写真撮影を提案した同級生は快くオーケーされ、そのエロースはみごとに成就しているのだ。志水は大学の演劇学科への進学を志望しているが、相手の心情をおもんばかり、なおかつ、後で述べるように部内のいさかいは巧みに回避するよう、行動している。志水は高校生にして、すでに名優の域に達しているといえよう。 


Ⅳ ミッションスクールとしての「櫻華学園」

 里美と志水の二人がイエス的存在であると述べたが、あまりに唐突だと感じた方もおられるかもしれない。ここで、舞台となっている女子高「櫻華学園」がどのような学校なのか、考えてみたい。

 教室で志水が倉田にレースの飾りをつけてやっているとき、背後の掲示板に「わたしをつかわされたかたのみこころを行うため」という、ヨハネ福音書6章38節の一部が記された紙が貼ってある。イエスが人々に、自分が命のパンであり、自分を信ずる者を最後の日に復活させることが神の御心である、と語っている箇所である。 
 
 黒板には、「4月14日(日)創立記念式典」とある。復活祭当日か、極めて近い時期に、復活にまつわる聖句が貼られているのである。 櫻華学園は、ミッションスクールであることがわかる。しかも、高校生たちの制服は黒で、スカートの丈はみな膝が隠れるぐらいの丈であり、タイツの色もみな黒である。つまり、どこかシスターを思わせる制服で、服装に関する決まりも厳しいようである。とすると、櫻華学園は、カソリックのミッションスクールであると推測できる。
 
 ミッションスクールの目的はもちろん、イエスの福音を伝道することである。イエスの福音とは、イエスが全人類に代わって十字架にかかることで、全人類の罪が許されたということである。ミッションスクールで、教師はもちろん、生徒にも求められるのは、イエスに倣って隣人に無償の愛―アガペー―を注ぐことである。

 こう考えると、他者の代わりに自己犠牲を払う里美と志水は、ミッションスクールの模範といえよう。2年生の城丸らが放送室にいるとき、創立記念式典における校長らしき人の式辞が流れてくる。「私たちがこの話から学ばなければならないことはなんでしょうか。それは思いやりの心です。」と。こんなふうに、校長らしき人から思いやりの心を教えてもらわずとも、卒業生でもある里美も、在校生の志水も、イエスに倣って、思いやりの心を実践しているのだ。

 3年生の演劇部員は12人おり、一見すると、里美イエスと十二弟子による『桜の園』上演までの話のようにも見えるが、里美は脇役に過ぎず、主役は志水といえる。これは志水が圧倒的に登場シーンが多いだけでなく、志水が創立記念式典の日に誕生日を迎えていることからもいえる。

Ⅴ イエス誕生―志水由布子

 志水の誕生日は、奇しくも創立記念式典が実施される4月14日である。彼女は、前夜、校則違反のパーマをかけて、登校してくる。志水は、城丸からもほかの3年生からも、「イメージ」が「変わ」ったといわれているし、里美からは「……誰がいるのかと思った」といわれており、外見が別人のように変わっていることがわかる。他の部員からパーマをかけた理由を聞かれて、志水は「目覚めたのかな」という。人間は毎日、眠ることでかりそめの死と再生を繰り返しているといえるが、「目覚め」て別人のようになった志水は、その自己犠牲的な言動も合わせて考えると、復活したイエスといえよう。 

パーマをかけた志水

 志水は城丸には誕生日であることを明かしているが、ほかの部員がそのことを知るのは結末近くである。舞台の幕が上がる前に、杉山が「志水さん……今日誕生日でしょ?」と指摘し、部員たちがハッピーバースデーの歌をうたい、志水は火のついた三本のろうそくを持ち、舞台に上がっていく。志水は舞台でろうそくの火を吹き消す。まるで、誕生日ケーキのろうそくの火を消すかのように。 


舞台の志水

 島田裕巳氏は『ローマで王女が知ったこと―映画が描く通過儀礼』(1995、筑摩書房)の中で、同じシーンに着目し、「誕生のイメージで貫かれているのは、少女たちが生まれ変わること、つまりは彼女たちの通過儀礼がテーマとなっているからである。」と述べている。 四方田犬彦氏もまた、『日本映画のラディカルな意志』(1999、岩波書店)の中で、映画は「通過儀礼の、その果てにある解放された時間という主題」を「もっとも完璧に実現」したものであると述べている。

 この日は、桜の花が咲き誇っている。植物が死から再生へと移行する時期に、学校は『桜の園』を上演し、その創立=誕生を祝っているのだ。学校の創立を記念することは、ミッションスクールであることを考えると、イエスの誕生ないしは復活を祝うことと同義である。創立記念式典を「4月」上旬の「日曜日」としたのは、キリスト教の復活祭と重ね合わせるためではないか。舞台の役柄と現実世界の言動が重なるように作られていることはすでに述べた通りだが、戯曲『桜の園』で、登場人物は、復活祭を基準としたキリスト教の暦を口にしている。戯曲と二重写しになるように作られている本作においても、背景に復活祭があると考えるのは自然なことといえる。 

 イエス誕生ないしは復活を祝う、この日の創立記念式典は、誕生日を迎えた、志水由布子という新たなイエスの誕生を祝うことと二重写しになる。 
 黒いワンピースに白いエプロン姿の志水が持つ、火のついたろうそくは、カソリックの復活徹夜祭で司祭が執り行う、光の祭儀―イエスの復活を象徴する―を思わせる。しかも、ろうそくの数は三本であり、三位一体をも想起させる。創立記念式典及び志水の誕生日を「4月14日」にしたのは、かつて、小アジアの教会でニサンの月(3~4月)14日に復活祭を祝っていたことに関連させてかもしれない。

Ⅵ イミタチオ志水

1 城丸香織

朝食を食べる、志水と城丸

 復活したイエスといえる志水が、映画の冒頭近くで城丸と食べる朝食は、最後の晩餐ならぬ、最初の朝食といえる。映画の後半で、朝から走ってばかりだと愚痴をこぼす城丸に、志水は「わかるわよ……私も去年やったから……」といっており、昨年は志水が舞台監督を務めていたことがわかる。 城丸は「私、来年は志水さんみたいになれるかな……」といっており、来年は城丸が部長を務める可能性が大であり、イミタチオ志水を目指している。未来の部長城丸は、現部長志水のいわば一番弟子である。
 志水は、十二弟子ならぬ一番弟子の城丸と自らのサンドイッチを分かち合っている。最後の晩餐では、イエスが弟子にパンを自分の体であるといって渡したが、最初の朝食では、朝食を持ってきていない城丸に代わって、志水がサンドイッチを分かち、自己犠牲を払っているのである。

 志水はのっけから、教室に貼ってあった聖句よろしく、命のパンを地で行っているのである。頬のふっくらした中島ひろ子が、命のパンといえる志水を演じているが、ふさわしい人選だったといえよう。志水役には、演技力もさることながら、自己犠牲を払うにふさわしいふっくらした外見も要求されていたと考えられるからである。 

2 杉山紀子

 イミタチオ志水であるのは、下級生の城丸だけではない。『桜の園』の上演を危機に陥れた杉山もまた、別の意味でそうである。杉山が志水に倣うまでを、順を追ってみていこう。 両親と共に校長室に呼び出された杉山が部室に顔を見せると、志水はまず「大丈夫?」と声をかける。部長で、学校の成績もよい志水が、杉山をとがめだてしてもおかしくはない。しかし、志水は自分が正義の代弁者のような顔をして、杉山を断罪したりはしない。逆に、杉山を思いやる言葉をかけるのだ。「思いやりの心」を持つことを勧める式辞など聞かずとも、思いやりの心をもって行動できる志水の姿が浮き彫りになる。
 
 他の部員たちが部室に戻ってくると、杉山がいることに気づく。杉山は「すみませんでした」と謝罪するものの、ほかの部員は厳しい目で杉山を見つめる。志水はアイスの差し入れがあったことを部員たちに伝え、場の雰囲気は一気に和み、志水と杉山はその場を離れる。志水は、杉山に攻撃の矛先が向きそうなところを、上手にかわしている。杉山に代わって自己犠牲を払っているのだ。 

 付言すると、部員たちにアイスの差し入れをした、中野敦子の姉もまた、妹に代わって自己犠牲を実践するイエス的存在である。身銭を切ってアイスを差し入れることで、妹へのアガペーを実践しているといえる。

 杉山は、実は志水に恋しているのだが、志水が倉田にエロースの感情を告白し、頬を寄せ合いながら記念写真を撮影しているのを見て、恋破れ、傷心する。 
 
 『桜の園』の劇中で、杉山は、志水演じるドゥニャーシャに一方的に惚れられる従僕ヤーシャの役なのだが、現実世界では志水に片思いをし、恋敗れるという正反対のできごとが起こるである。劇中ではヤーシャが葉巻を吸い、もしヤーシャに「裏切られでもしたら、あたし神経がどうかなってしまうことよ。」というドゥニャーシャにキスしてやるのだが、現実には杉山がタバコを吸っている間に、志水への恋が破れたことを知るのである。

杉山

 そんなとき、城丸が志水と倉田を探しにやってくる。杉山は、撮影の余韻に浸っている二人を邪魔させまいと、中庭に行こうとする城丸を押しとどめ、舞台で使うような声で「志水さん、倉田さん……時間よ」という。ささいなことではあるが、杉山は二人を下級生の目にさらし、噂の的になるようなことはしない。自分を思いやって行動してくれた志水に倣って、二人に対するアガペー―倉田はいわば恋敵なので、大げさにいえば敵をも愛する愛―を実践してみせるのだ。

 二人が撮影にいそしんでいる間、杉山はタバコを吸っている。タバコはもともとは志水が部室で見つけたものであり、志水はそのうち一本をくわえてみたが、ライターの火がつかなかったために、箱に戻している。志水がタバコを持っていることに気づいた杉山が「こんなの志水さんが持ってたら、ほんとに『桜の園』中止になっちゃいますよ」といって自分のポケットに入れたのである。つまり、杉山の吸ったタバコは50%ぐらいの確率で、志水がくわえたものなのである。杉山は気づかずに志水と間接キスをし、志水のメンタリティを自分のものとしたともとれるのである。

Ⅶ 今、『櫻の園』を観るということ

 中原俊は、なぜイエス的存在を描いたのだろうか。彼は鹿児島のラ・サール高校から東大の宗教学科に進んでいる。キリスト教的なものがバックボーンにあったために、エロースを描きつつも、それがアガペーの実践につながる、そんな作品を作り上げたのではないか。 

 中原には、『櫻の園』と同じセットで撮影した、三谷幸喜脚本の『12人の優しい日本人』(1991)という作品がある。いうまでもなく、『12人の怒れる男』のパロディである。陪審員たちが意見を集約する際、自分の意見の根拠を示せない中年女性に代わって、理路整然と根拠を示し、周囲を説得する男性(豊川悦司)が登場する。彼は、弁護士であるというが、最後に役者だったことがわかる。他人に代わって自己犠牲を払う存在が登場しており、イエスのテーマが繰り返されていることがわかる。

『12人の優しい日本人』の豊川悦司

 こうしてみてくると、『櫻の園』の価値は、女性同士のエロースを先駆けて描いたということにとどまらない。志水はイエス的な存在として描かれており、彼女の姿を国家の理想像と受け取ることも可能である。倉田にエロースの感情を抱きながら、アガペーを実践する志水は、チェーホフの戯曲が生まれたロシアが、武力でウクライナを従属させようとしていることに対する強烈なアンチテーゼとみることもできるのだ。


◯補足
(1)チェーホフの『桜の園』では、桜の園が売りに出されるが、本来、贖い主たるべきラネフスカヤ夫人には買い戻す能力がない。ラネフスカヤ夫人に代わって買い戻してくれる人が現れないかと期待するも、そんな奇跡は起きずに終わる話と読むことができる。ラネフスカヤ夫人に代わって自己犠牲を払う存在、つまりイエスの復活が祈念されるが、そんなものは現れないのである。
 イエスは十字架により全人類の罪を贖ったとされるが、贖うとは、奴隷状態から買い戻すという意味である。登場人物たちが、イエスの復活を基準とした暦に基づいて発言することも、贖い主の復活が祈念されていると考えれば、腑に落ちる。ラネフスカヤに代わる桜の園の贖い主が現れない原作に対し、原作を踏まえた映画は、贖い主が現れるのである。
 チェーホフの『桜の園』については、以下の記事でくわしく書いています。

(2)島田裕巳氏及び四方田犬彦氏がともに「通過儀礼」という観点で映画を分析したのは、中原俊が両人と同じく、宗教学科の柳川啓一ゼミに所属し、通過儀礼について深く学んでいたからであろう。

(3)四方田犬彦氏は、杉山がタバコを吸うシーンについて、こう述べている。

彼女は同じ少女として中島に親密な感情を抱きつつも、それに挫折するといかにも男の素振りを真似て煙草を燻らしてみせることで、性的に両価的な感情を人知れず演劇的に演じきってみせようとするのだ。

「シネファイル『櫻の園』」(「すばる」、1990年11月)

(4)映画の台詞は、『90年鑑代表シナリオ集』(1991、映人社)による。 


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