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長屋のイエス―小津安二郎『出来ごころ』



はじめに


 小津安二郎のサイレント期を代表する傑作といわれる『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932)では、子供たちへの無償の愛―アガペー―ゆえに自己犠牲を払う父親の姿が描かれていた。子供たちのために献身する父親は、私的領域におけるイエスとでもいうべき存在であった。

 本稿ではまず、小津が映画監督を志すきっかけとなった映画『シヴィリゼーション』(1916)について考察する。そのうえで、『生れてはみたけれど』のような、子供に対して一方的で絶対的なアガペーを注ぐ存在は、『生れてはみたけれど』の翌年に作られた、『出来ごころ』ではどのように描かれているのか、見ていきたい。 

Ⅰ 公的領域におけるイエス―トーマス・H・インス『シヴィリゼーション』

 トーマス・H・インスの『シヴィリゼーション』は、第一次世界大戦下、参戦するか否かで揺れていたアメリカで作られた。最初期の反戦映画の一本とされる。戦争ではなく平和を、と訴える寓話的なストーリーとなっている。イエス・キリストが登場した最初の映画でもある。
 
 ヌルマという平和でのどかな町で、戦争を始めようという識者の声が高まった結果、国王(2分27秒ぐらいに登場)が宣戦布告する。町の男たちは、妻子や母と無理やり引き離され、兵隊に取られてゆく。残された女たちは、平和実現のための秘密結社を作る。

 フェルディナンド伯爵(1分10秒ぐらいで祈るポーズをしています)の婚約者(2分20秒で手を組んでいる女性)もまた、この結社に入り、フェルディナンド伯爵に平和の重要性を説く。伯爵は自分で設計した潜水艦に乗り込んで出征する。さっそく航行する船を撃沈せよとの命令が下るが、船は軍艦ではない民間の船であり、乗客の中には非戦闘員の女性や子供もいる。女性たちの秘密結社に参加していた伯爵は命令を無視し、潜水艦を自沈させる。

 伯爵は、婚約者の考え方に感化され、自らを犠牲にして、女性や子供への無償の愛を示している。婚約者に対するエロースの感情が、女性や子供に対するアガペーへと転じているのである。伯爵は、いわば公的領域におけるイエスとして描かれている。

 伯爵は救出されるが生死の境をさまよい、伯爵の魂は煉獄へ赴く。そこでイエス・キリストと会う。伯爵は息を吹き返すが、その肉体にはイエスの魂が宿っていた。伯爵の魂は死ぬが、その肉体は復活するのだ(1分58秒ぐらいに、復活した伯爵が登場します)。
 イエスの魂を持つ伯爵は、イエスが福音を伝道したように、平和を説いて回る。伯爵は「隣人を愛せよ。」というキリスト教の根本理念を説いて回っているといってもよい。
 イエス・キリストは、魂が煉獄送りになった伯爵に代わって、平和を説くという自己犠牲を払っている。伯爵もまた、イエスに代わって自己の肉体を処刑の危険にさらすという自己犠牲を払うのだ。
 伯爵は国王に逮捕され、処刑が決まる。しかし、伯爵と志を同じくする5000人の女性たちが王宮まで行進し、伯爵の赦免を要求する。が、時既に遅く、伯爵は独房で死んでいた。今度は、伯爵の肉体も死すのだ。伯爵の体から離れたイエスは、国王に激戦の戦場を見せる。国王は終戦を決断し、男たちは喜々として故郷に帰還する。

 こうしてみると、潜水艦を自沈させる伯爵も、伯爵の肉体を借りて平和を説いて回るイエスも、公的領域におけるイエスといえることがわかる。

Ⅱ 長屋のイエス―小津安二郎『出来ごころ』

1 『シヴィリゼーション』から『生れてはみたけれど』・『出来ごころ』へ

 小津は『シヴィリゼーション』を観て、映画におけるイエス・キリストを目の当たりにした。公的領域において、戦争をやめさせ、平和をもたらそうとするイエスの姿を目撃したのである。

 『生れてはみたけれど』には、『シヴィリゼーション』の影響がうかがえる。公的領域におけるイエスが登場する『シヴィリゼーション』に対し、『生れてはみたけれど』は、子供たちへの無償の愛ゆえに、サラリーマンとして重役のご機嫌をとるという自己犠牲を払う父が登場していた。子供たちに無償の愛を注ぐ父は、私的領域におけるイエスといえる。
 では、『生れてはみたけれど』の翌年に公開された、『出来ごころ』はどうだろうか。『シヴィリゼーション』を観て映画を志した人間が作った映画である、という前提で、『出来ごころ』を見ていこう。

2 浪曲『紺屋高尾』が描くエロース

 映画は、東京の下町で、『紺屋高尾』という浪曲を、主人公喜八(坂本武)が、息子富夫(突貫小僧)と、同じ工場で働く次郎(大日方傳)と見ている場面から始まる。この浪曲のあらすじは、こうである。高尾という花魁にほれた染物屋の奉公人が、3年間金を貯めて会いに行く。高尾はその熱心さにほだされ、自分の年季が明けたら、妻にしてほしい、という。年季の明けた高尾は、言葉通り、奉公人のもとに嫁入りし、親方から染物屋を譲り受けた奉公人は、店を繁盛させる。不釣り合いなエロースが成就し、店も繁盛する、つまり奉公人が公私ともに充実するという、いささか現実離れした筋書きに面白さがある演目である。

3 財布の挿話が暗示すること

 この浪曲を聞いているときに、二度にわたって三人の客の間を財布が行き来する。自分の近くに財布が転がっていることに気づいた客は、他の客の目を気にしながら、財布を開け、中身を確かめる。しかし、空っぽなために、財布をほっぽりだし、また別の客が中を改め、ほっぽり出す。喜八は、財布の中身が空っぽでも、自分の財布よりは新しいことに気づき、出来ごころで自分の財布を他人の財布とすり替える。喜八は、他人の財布に、自分の財布の代わりを務めさせようとしている。財布の挿話は、喜八の出来ごころによって、物語が展開していくこと、さらに本来その役割を果たすべきものに代わって、自己犠牲を払う、そんな存在が登場することを暗示している。

浪曲を聞く、次郎と喜八 寝ているのが富夫

4 父「喜八」のエロースとアガペー

 いささか現実離れしたエロースを主題とする『紺屋高尾』で始まる映画は、現実にはなかなか実践されることのない、誰かの身代わりとなって自己犠牲を払うような愛を描いている。
 浪曲では、奉公人の一途なエロースに花魁が応えており、中心に据えられているのは、自らが価値があると思うものを愛するエロースである。一方、映画で中心に据えられるのは、十字架のイエスが示したような、一方的で絶対的な無償の愛―アガペー―である。

 イエス・キリストは全人類に代わって十字架にかかることで、全人類の罪を帳消しにした。自らの命を犠牲にすることで、全人類に対し、一方的で絶対的な無償な愛である、アガペーを実践したといえる。

 浪曲を聞き終えた喜八は、所在なさげに立ち尽くす、若い娘・春江(伏見信子)を見かけ、一目惚れする。喜八は春江に声をかけ、彼女が失業し、親兄弟もないことを知る。そこで喜八は、行きつけの一膳飯屋のおかみ「おとめ」(飯田蝶子)に春江のことを頼み、彼女は一膳飯屋で住み込みで働くことになる。

富夫を背負う喜八と、春江

 春江の美貌に惹かれた喜八は、彼女に対してエロースの感情を抱くが、最優先させるのは、彼女に対する自らの欲望を満足させることではない。住む場所も働く場所もなく途方に暮れている春江に代わって、住み込みで働く場所を見つけてやるのである。エロースの感情を抱きながら、その行動にはアガペーの色が濃いところに特徴がある。

 喜八は寡夫で、男手ひとつで小学生の息子を育てている。映画が製作された当時、家庭で子育てを担っていたのは圧倒的に母親だったろう。『生れてはみたけれど』でもそうであるように。そんな時代に、喜八は母親に代わって子供を育てるという自己犠牲を払っているのだ。喜八が浪曲の最中に寝てしまった富夫を背負って寄席から出てくることも、喜八が十字架を背負うイエスのごとき存在であることを象徴的に示している。

5 息子「富夫」のアガペー


 しかし、自己犠牲を払っているのは、喜八だけではない。息子の富夫もまた、同様である。富夫は目覚まし時計に代わって、喜八の足を棒でたたいて起こす。富夫は、隣に住む、喜八と同じ工場で働く次郎(大日方傳)に対しても、同じことをする。
 さらに富夫は、やっと起きてきた喜八に服を着せてやったりもする。親が子をケアするという関係性は逆転しており、父の世話を焼くはずの母に代わって自己犠牲を払っているとも取れる。

喜八に服を着せる富夫

6 一膳めし屋の「おとめ」のアガペー

 無償の愛を実践するのは、喜八と富夫という実の親子同士だけではない。一膳飯屋のおかみである「おとめ」は、起き抜けの喜八と富夫に朝食を提供している。彼女は有償で喜八の妻の代わりや富夫の母の代わりを務めているといえるが、おそらく無償で、富夫の母に代わって富夫の小学校の制服を繕ってやってもいる。

富夫の制服を繕う、おとめ

 おとめは、春江を次郎と結婚させたいから、仲を取りもって欲しいと、酒の入った一升瓶と寿司を持って、喜八に頼みにやってくる。春江は初対面のときから、次郎に好意を抱いているが、次郎がそっけない態度をとるために、二人の仲は全く進んでいない。おかみはおそらく、春江の気持ちを汲んで、いわば春江の母に代わって、出会って間もない春江の縁談をまとめようとしている。
 富夫のために無償で裁縫をしたり、自腹を切って春江の縁談をまとめようとするおとめもまた、無償の愛を実践する存在である。おとめと喜八の接点は一膳めし屋なので、彼女はいわば公私を混同し、他人のために自己犠牲を払っている。

7 富夫の代理死と復活

 喜八は、春江に恋心を抱き、おとめは自分と春江の縁談を持ってきたと勘違いしていた。しかし、実際は春江と次郎との縁談であり、喜八は、酒と寿司を対価として、おとめに代わって、自己犠牲を払うことを求められる。
 次郎は、喜八のかつての戦友であり、現在は同じ工場で働く同僚でもある。次郎は常に喜八を助ける味方だった。しかし、春江が現れることで、彼は喜八と対立する恋敵となった。喜八は、おとめの依頼によって、次郎と春江の仲を取り持ち、イエスが十字架にかかることで実践したような、敵への愛を実践せざるを得なくなる。春江に対する恋は失恋に終わり、次郎に春江の思いを伝えるも、すげなくされた喜八は、自棄を起こし、工場をサボり、深酒する。

 喜八が働きに行かず、酒ばかり飲んでいることを、富夫はクラスメートからからかわれる。富夫は、自暴自棄に陥っている父の代わりに同級生から嘲笑されるという自己犠牲を払う。強制的にイエス役を演じさせられるのである。
 喜八は、出来ごころで春江に声をかけたのと同じく、やはり出来ごころで富夫に五十銭を渡す。めったにもらえない大金のお小遣いをもらうことで、富夫は好きなだけ駄菓子を買って食べ、あげくの果て、腸カタルになり、死にかける。しかし、次郎の勧めで医者に診てもらい、入院して、喜八やおとめに看病されることで復活する。

 息子の富夫が死の危機に瀕し、復活することで、父の喜八はこれまでの自分の行いを悔い改める。父の犯した、深酒と無断欠勤という罪の身代わりとなっていじめられていた富夫は、出来ごころで富夫に大金を与えるという父の罪の代償として死にかけた。富夫は死にかけるという自己犠牲を払うことで、父の犯した罪を父に代わって償ったといってもよい。父が犯した罪の身代わりとなっている富夫は、登場人物を代表して、福音書におけるイエスの十字架上の死と復活の物語を演じているのである。 

8 次郎のエロースとアガペー

 喜八は、宵越しの金は持たないという生き方をしてきたために、富夫の入院にかかった費用を支払うことができない。そんな喜八に代わって、春江は喜八から受けた恩を返すために、自分がお金をこしらえるという。しかし、次郎はそれを聞いて、女性が簡単に金を工面するためには売春しかないことを見抜き、春江を止める。そして、床屋の主人に金を借りに行き、その借金を返すために、北海道に行き、蟹工船に乗ろうとする。次郎が春江を遠ざけていたのは、喜八の恋心を知っていたためであり、実は次郎も春江のことを好きであった。次郎は、恋する春江と昔馴染みの喜八に代わって自己犠牲を払おうとする。次郎は、春江に対するエロースに起因する形で、結果として喜八に対する、一方的で絶対的な無償の愛である、アガペーを実践しようとする。

春江を説得する次郎

 喜八は、蟹工船に乗ろうとしている次郎を止め、次郎に代わって蟹工船に乗りこむ。しかし、息子の書いた習字を自慢しているうちに、息子のことが懐かしくなり、いても立ってもいられなくなり、出来ごころで船からダイブし、泳いで我が家に引き返す。

おわりに

 このように見てくると、『出来ごころ』は、喜八の出来ごころから物語が展開していく。喜八は自分の財布を他人の財布とすり替え、他人の財布に、自分の財布の代わりを務めさせようとする。しかし、自らは富夫の母に代わって、一人で子育てをするという自己犠牲を払う存在である。もちろん、喜八は完璧な父ではない。次郎のことを好きな春江との結婚を期待したあげく、深酒したり、無断欠勤したりするのだから。

 そんな喜八を取り巻く人々は、喜八の息子はもちろんのこと、次郎、おとめと、みな誰かに代わって無償の愛を示そうとする人間ばかりである。次郎に頼まれ、富夫の入院代を代わりに出した床屋の主人もまた、そういう金であれば、惜しくはない、と無理に返済を求めてはいない。
 下町の長屋に暮らす人々はみな、誰かに代わって自己犠牲を払うことで、無償の愛を示そうとする、そんなイエス・キリストのごとき存在なのだ。『出来ごころ』は、一見すると、日本の下町の「人情」を描いているように見える。が、その内実を探ってみると、描いているのは、他人の身代わりとなって、一方的で絶対的な愛を示す、アガペーである。

 アメリカの『シヴィリゼーション』は、ヌルマという架空の国を舞台に公的領域におけるイエスを描いていた。この映画を観て映画監督を志した小津は、『出来ごころ』において、日本の下町の長屋を舞台に、私的領域におけるイエスを描いて見せたといえよう。


 長い長いレビューを最後までお読みくださり、ありがとうございました。   

 『出来ごころ』の喜八は、山田洋次『男はつらいよ』シリーズのヒーロー、車寅次郎の原点といわれているそうです。下町で暮らし、女性に惚れっぽいけれど、その女性が幸せになるために、本人に代わって自己犠牲を払う。そんな寅さんの原点がこの『出来ごころ』の喜八だということは首肯できます。私見では、寅次郎もまた、女性に対するエロースで始まりながら、アガペーを実践する人物として描かれており、バリエーションとしてのイエスであると思います。
 『男はつらいよ』シリーズで、小津映画の常連、笠智衆が御前様の役で登場し続けたことからも、山田が小津安二郎を守り神のように感じていたことがわかります。
 山田洋次の『男はつらいよ』シリーズについては、また改めて書きたいと思います。

 


 



 

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