サラリーマンのイエス―小津安二郎『生れてはみたけれど』
はじめに
小津安二郎の『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932)は、小津のサイレント期を代表する傑作で、資本主義社会における、資本家と労働者、持てる者と持たざる者を対比し、持たざる者である労働者の悲哀を子供の目を通して描いている。
本稿は、映画を分析することで、以下の、二つのことを目指す。第一に、子供たちが繰り返し行っているゲームに着目し、そのゲームが持つ意味を明らかにする。第二に、サラリーマンとして重役のご機嫌取りをしている父が、どのような存在として描かれているのか、を明らかにする。
Ⅰ 子供たちの「死と復活」ゲーム
映画は、こうして始まる。桃太郎が桃から生まれて来た絵に、クレジットが重ねられる。「大人の見る繪本」というタイトルと合致するように。
二人兄弟の吉井良一(菅原秀雄)と啓二(突貫小僧)は、両親と共に麻布から郊外へと越して来る。近くには、父の会社の専務・岩崎(坂本武)が住んでいる。父(斎藤達雄)は課長だが、同僚からは、重役の近くに住むことで、昇進を有利にしようとしているのではないか、と噂されている。
二人兄弟のもとには、同じ小学校に通う子供たちがやって来るが、二人をいじめるので、二人は学校をサボってしまう。良一は野原で半紙に習字を書き、酒屋の小僧(小藤田正一)に半紙に「甲」という評価を書いてもらい、ズル休みしたことを糊塗しようとする。しかし、会社から帰って来た父と良一の担任教師が話をして、ズル休みが露見し、父から叱られる。
啓二は、酒屋の小僧に瓶入りの牛乳を振る舞う代わりに、自分たちをいじめる、体の大きいガキ大将の亀吉をやっつけてもらう。亀吉は泣きべそをかいて退散し、二人はめでたく近所の子供たちのガキ大将になる。
子供たちの間で流行っていて、子供たちの中で誰が一番偉いかを明らかにするゲームがある。一人が人差し指と中指を出すと、出された相手は横たわる。次に、一人が胸の前で十字を切り、手をかざすと、相手は起き上がる。ヒエラルキーが最上位の者が、下位の者たちに対し、「死ね」、「復活せよ」と命じる、「死と復活」ゲームとでもいうべきものである。
ここで、「十字を切る」という行為が登場することは、興味深い。「十字を切る」行為は、キリスト教と不可分な関係にある。十字を切り、手をかざすと、相手が復活するというゲームは、イエスが『ヨハネ福音書』において、死者を復活させるという奇跡を行ったこと、イエス自身が死から復活したことを想起させる。
つまり、子供たちは、共同体の中で一番偉い者が、キリスト教の神が人間に命じるように、他のメンバーに「死と復活」を命じることができる、そんな遊びに熱中しているのだ。
Ⅱ 二人兄弟の「死と復活」
1 岩崎家で活動写真を観て
二人兄弟は、同じ小学校に通う岩崎の息子・太郎に誘われて、岩崎家でやる16ミリフィルムの上映会に行く。フィルムの中の父は、会社でおどけた仕草をして、専務のご機嫌をとり、周囲を笑わせている。二人の子供が一番偉いと思っており、自分たちにも偉くなれ、といっていた父が、会社ではちっとも偉くないことがわかる。
二人は、父親を偉いと信じ、学校をサボったことが露見して、父から「学校へ行って偉くなろうとは思わないのか?」と叱られると、嫌々ながらも学校に行っていた。そんな父親が、同級生の父親に雇われ、月給をもらっていたことを知り、父親に対する信仰とでもいうべきものが崩壊する。 父から「お父さんが月給を貰わなかったら、お前たちは学校へ行く事もご飯を喰べる事も出来ないぞ」といわれて、長男は「明日からご飯喰べてやるのよそう。」と次男に提案し、ハンガー・ストライキを行う。
それまで信じていた価値観が崩壊し、食べることを拒否する兄弟は、一晩で比喩的な意味での「死」を経験するか゚、翌朝、父の勧めで母がおにぎりを握り、そのおにぎりを食べることで「復活」する。
二人の生きる子供たちの世界は、ケンカが強い者が一番偉いという、シンプルでわかりやすい論理で動いている。しかし、大人たちの世界は、子供たちの世界とは異なる論理に基づいている。そんな大人たちの世界を、二人は完全にではないけれど理解し、折り合いをつけていこうとする。これは、登校する途中、良一が太郎に、「ほんとは君の家のほうが偉いんだよ」といっていることからもわかる。
ただ、子供の世界は大人の世界のヒエラルキーがそのまま適用されるわけではない。二人は太郎に二本指で「死」を指示して横たわらせ、そのまま立ち去ろうとしたりする。
2 始まりと終わり
冒頭のクレジットの後、ぬかるみにはまっている車輪が映し出される。引っ越しの荷物を載せたトラックの車輪は、ぬかるみにはまって、なかなか動こうとしなかった。兄弟二人の、新たな学校生活が困難であることを示唆しているようである。
結末、専務の岩崎と父を載せた自家用車は、スムーズに発車する。二人兄弟は専務の息子、太郎と肩を組み、いじめっ子だった亀吉ともにこやかに会話する。二人の将来には、資本主義社会における、持てる者と持たざる者という矛盾が立ちはだかっているけれど、差しあたっての学校生活は円滑に送っていけそうだ、そう思わせる幕切れである。
Ⅲ サラリーマンのイエス
1 息子たちへのアガペー
子供たちの世界では、ボスがほかのメンバーに十字を切って「死と復活」を命じることができる。ボスは、イエス・キリストの役割を演じている。
だが、イエス・キリストの役回りを演じているのは、子供たちのボスだけではない。二人が暴れるだけ暴れてから寝た後、父は妻との会話で、「俺だって何も好き好んで専務のご機嫌はとりたくないんだ 馬鹿々々しい」「でもそのお蔭で生活だって前よりずっと楽になってきているんだ」という。そして、夫妻は兄弟の寝顔を愛おしそうに眺める。
父は私的領域における子供たちとの暮らしを楽にするために、公的領域で自己犠牲を払っていることがわかる。子供たちへの一方的で絶対的な無償の愛ゆえに、会社で重役のご機嫌を取り、子供たちに代わって、その養育費を稼ぐという自己犠牲を払っている父は、全人類への一方的で絶対的な無償の愛ーアガペーーゆえに、全人類に代わって十字架にかかったイエスと重なってくるのである。父は、子供へのアガペーゆえに会社で自己犠牲を払う、サラリーマンのイエスとでもいうべき存在として描かれている。
2 赤ワインとパン
父がイエスと重ねられていることは、その小道具からもわかる。父が、反抗する長男にお仕置きした後、「酒でも飲まなけやァやりきれないよ」というとき、手にしているのは赤ワインの瓶である。福音書の記述によると、イエスは最後の晩餐で、弟子たちにぶどう酒を自分の血だと思って飲むように、という。父はイエスの血であるぶどう酒を口にし、イエスと一体化することで、息子たちへのアガペーゆえに専務のご機嫌取りをしているのに、それを息子たちに理解してもらえないという苦悩に耐えようとしているかのようである。
父がやりきれなくなったとき、赤ワインを飲んでいるのに対し、子供たちがおやつに食しているのはパンである。おやつにパンを食すという場面は、二度繰り返されている。最後の晩餐で、イエスはパンを自分の体だと思って食べるように、といっている。パンは父がイエスのごとき自己犠牲を払ったことの象徴でもあり、二人は文字通り、イエスのごとき父の体を口にしているのだ。二度のうち一度は、いじめっ子の亀吉にその大きなパンの塊を奪われてしまうのだが。
3 映画の中のイエスたち
父は二人の息子に代わって自己犠牲を払う存在だが、映画の中で、兄弟に代わって自己犠牲を払う存在は、他にもある。
まずは、飼い犬の「エス」である。兄弟は、いじめっ子の亀吉が精をつけるために雀の卵を食べているのを見て、彼に負けないために雀の卵を取ってくる。しかし、長男は食べる勇気がわかず、試しに飼い犬のエスに食べさせる。エスは長男の代わりに雀の卵を食べることで、毛か゚抜けてしまう。長男に代わって自己犠牲を払っているエスは、長男によってイエス役を演じさせられているといえよう。「エス」という名は、sacrificeの頭文字ではないか、と考えたい誘惑にも駆られる。
もう一人が、酒屋の小僧である。彼は、小学校をサボった長男の習字に「甲」という評価をつける。しかし、無学であるために、誤って「申」と書いてしまう。小僧は、小学校の教師に代わって、自己犠牲を払っている。さらに、兄弟に代わって、ガキ大将の亀吉をやっつけ、泣かせる。こちらは啓二から牛乳という報酬をもらっていはいるが。
こうしてみると、本作が、イエス的な存在を描くことにかなり自覚的であることがわかる。
おわりに
『生れてはみたけれど』における、子供たちの「死と復活」ごっこと、父の描かれ方を分析すると、いずれもそのベースにはキリスト教があることがわかる。
映画はキリスト教文化圏で誕生したものであり、ヒーロー像の原型には、イエス・キリストがある。小学校時代から映画の魅力に取りつかれ、アメリカ映画に熱中した小津安二郎は、映画がどのような土壌で生まれたか、ヒーロー像の原型が何か、について、無自覚だったとは思えない。
次回は、小津が映画監督になるきっかけとなった映画『シヴィリゼーション』(1916)に言及する。そのうえで、『生れてはみたけれど』に見られる、子供へのアガペーゆえに自己犠牲を払う、私的領域におけるイエスとでもいうべき存在が、その後の小津映画ではどのように描かれているのか、を見ていきたい。
※専務の家の息子の名が、「岩崎太郎」であることは、三菱財閥の源流である日本郵船を創設した「岩崎弥太郎」を思わせる。
※字幕の引用は、読みやすくするために、現代仮名遣いに直してある。
長い映画レビューを最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ジャスミン眞理子さんが以下の記事で、子供たちのゲームに言及されていたことが、映画全体を考える際の大きなヒントになりました。映画を見直すきっかけを与えて下さったジャスミンさんに、心から感謝しております。
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