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ピルグリム・ブラザーズの旅―ロブ・ライナー『スタンド・バイ・ミー』



Ⅰ 映画の地層を探る旅へ

 公開から40年近く経つのに、いまだに人気がある映画。それが『スタンド・バイ・ミー』(1986)だ。キネマ旬報WEBでは、『スタンドバイミー』をこんなふうに解説している。「森の奥にあるという事故死体を見に出かけた4人の少年たちの小さな冒険旅行を通して、少年期の特異な友情、そして訣別の姿をノスタルジックに描く。」この映画の最大公約数的な解説といえよう。
 島田裕巳氏は、『映画は父を殺すためにある』(2012、筑摩書房)の中で、少年たちの死体探しの旅を「通過儀礼」の観点から分析しており、論旨が一貫したものとなっている。
 本稿では、事故死体を含めた、少年たちの名前や言動に着目する。そうすることで、少年たちの旅や友情の裏に隠されたもう一つの意味を明らかにしたい。それは、考古学者が埋もれていた遺跡を発掘するのと、どこか似てもいる。さあ、映画の地層を探る旅に、少年たちと共に旅立とう。

 

※本稿で言及する場面は、予告編の以下の箇所をご覧ください。
バーンが三人に死体探しを提案するところ
は、6~9秒
やってきた機関車に ひかれそうになるところは、16~19秒
クリスがピストルを持って来たところは、24~26秒
沼で全員が溺れかけ、ヒルにまとわりつかれるところは、34~38秒
立ち入り禁止区域で犬に追われ、何とか逃げ切るところは、47~52秒
死体発見の特権を年上の不良グループに奪われそうになると、ゴーディがピストルを出し、威嚇するのは、59秒あたり

Ⅱ ピルグリム・ブラザーズの旅

 1 死体探し

 映画はこうして始まる。1985年9月、作家となったゴードン・ラチャンス(愛称ゴーディ)が、少年時代の一番の親友で、弁護士になったクリストファー・チェンバーズが刺殺されたという新聞記事を目にする。そして、1959年、12歳の夏の2日間のできごとを回想する。

 ゴーディの友人バーンは、たまたま兄と友人の会話を盗み聞きする。兄たちは、盗んだ車で出かけた先で、レイ・ブラワーという名の少年の死体を見つけたが、車を盗んだことが発覚するため、警察には届けないという。バーンは、友人のゴーディ、クリストファー(リバー・フェニックス)、テディに死体を見たくないか、という(予告編の6~9秒)。4人は死体を見に行くことで合意し、少年たちの死体探しの旅が始まる。

 2 アメリカ建国の起源をたどる

 少年たちが探す死体の名前は、レイ・ブラワー(Ray Brower)である。これは、メイフラワー号(Mayflower)に因んだ命名だろう。私たちがメイフラワー号と聞いて思い浮かべるのは、次のような物語だ。

 17世紀初頭のイギリスでの宗教弾圧を逃れ、信仰の自由をもとめた宗教的な一団がイギリスのプリマスを出発し、メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸を目指した。1620年の冬、ニューイングランドに到着した彼らは、プリマス・ロックに初めの一歩を踏み降ろし、その地をプリマスと名付け、プリマス植民地を設立。
 上陸前に、入植民の間で取り交わされたメイフラワー・コンパクト(盟約=「契約により結合して政治団体をつくり、我らの共同の秩序と安全を保ち進める」)は後のアメリカ合衆国憲法の基礎となった。
 その冬の厳しい気候に耐えられずメンバーの半数が餓死したが、二年目の秋には豊かな収穫に恵まれ、その間援助を受けたインディアンを招いて感謝の機会を持ち、それが今日の収穫祭に直接つながる起源となっている。

(大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』、1998、講談社)
復元された、メイフラワー号
1620と刻まれた、プリマス・ロック


 宗教的な一団の名が「ピルグリム・ファーザーズ」で、「巡礼の始祖」という意味である。彼らはプリマス・ロックに初めの一歩を踏み出すが、少年たちが住むオレゴン州の田舎町の名はキャッスルロックである。

 つまり、ピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号で航海することで、プリマス・ロックに初めの一歩を踏み出したを果たしたことを、キャッスルロックに住む4人の少年が、徒歩でレイ・ブラワー少年の死体を探すことへとパロディ化しているのである。4人の少年は、ピルグリム・ファーザーズに、イエスを信じる者たちの共同体に喩えられており、ピルグリム・ブラザーズとでもいうべき存在である。ニューイングランド発見とレイ・ブラワーの死体発見は重ねられている。レイ・ブラワー探しの旅は、とりもなおさず、メイフラワー号探しの旅、つまりアメリカ建国の起源をたどる旅ともなっている。
 
  しかも、少年たちは、レイ・ブラワー少年の死体を探しに行くかどうかを多数決で決めている。旅の最中、線路沿いを歩くか、近道を行くか、を決めるときも同様である。メイフラワー・コンパクトは、多数決の原理に従って共同体を運営することを決めたとされるが、ピルグリム・ブラザーズたる少年たちはこれをなぞっており、レイ・ブラワー・コンパクトを結んでいるといえるのだ。

 3 アメリカの精神的基盤をたどる

 ピルグリム・ブラザーズたる少年たちがアメリカ建国の起源をたどる巡礼の旅で見出そうとするのは、レイ・ブラワーという少年の死体である。巡礼とは聖なるものに近づこうとする行為であり、旅の目的が死体発見だとすると、死体こそが聖なるものであるといえる。
 かつてのピルグリム・ファーザーズは清教徒であり、当然のことながら、イエスが人類の罪の身代わりとして、十字架にかかって死んだと信じた。アメリカ建国の起源をたどる巡礼の旅、その最終目的が、聖なる死体であるとはどういうことか。「アメリカの精神的基盤にあるのは、ピルグリム・ファーザーズが信じたイエスの十字架上の死、つまりキリスト教であり、キリスト教を精神的な基盤としてアメリカが建国された。」映画は私たちにそう教える。

 4 十字架の道行きをなぞる

 ピルグリム・ブラザーズたる少年たちの死体探しの旅は、イエスの十字架の道行きのパロディともいえる。レイ・ブラワーの死体を探すのは、本来なら警察の役割である。イエスは全人類に代わって、十字架上の死という自己犠牲を払ったとされる。少年たちは警察に代わって、ブラワーの死体を歩いて探しに行くという、自己犠牲を払っているのだ。

 イエスが自己犠牲を払ったのは、全人類に対する一方的で絶対的な愛ゆえである。では、少年たちは亡きレイ・ブラワーへの一方的で絶対的な愛ゆえに、警察に代わって自己犠牲を払っているのだろうか。答えは否である。少年たちは、死体を発見することで、新聞やテレビで取り上げられ、英雄になることを目指している。自己犠牲を払うのは、レイ・ブラワーへの無償の愛ゆえではなく、自己愛ゆえである。

 少年たち、中でもゴーディは、旅の最中に繰り返し危険な目に合い、「死」を体験する。立ち入り禁止区域では犬に追われ、何とか逃げ切る(予告編の47~52秒)。線路では、四つん這いで進むテディの後ろを歩いていたために、やってきた機関車にひかれそうになる(予告編の16~19秒)。沼では全員が溺れかけ、ヒルにまとわりつかれる(予告編の34~38秒)が、ゴーディは睾丸から出血し、気絶してしまう。ゴーディが血を流し、仮死状態に陥ることは、イエスの十字架上の死のパロディとなっている。

ゴーディ、気を失う

 ピルグリム・ブラザーズたち、中でもゴーディは擬似的な形で死を体験するが、これも十字架の道行きをなぞっていると考えれば、不思議ではない。

 ゴーディがイエスのごとき役割を演じ始めるのは、誰が夕食の買い出しに行くかを決めるゲームで負け、夕食の買い出しに行ってからである。他の3人に代わって自己犠牲を払うことで、イエス的存在であることを余儀なくさせられたかのようである。

 機関車に危うくひかれそうになったゴーディは、最終的に、機関車にひかれたブラワー少年の死体を目にする。ブラワー少年の死体が聖なるものといえることは、先ほど述べた通りであるが、ブラワーはあたかもゴーディに代わって死んだかのようであり、ブラワーとイエスの重なりをより強く印象づける。

Ⅲ キリストのような君へ

 1 無償の愛

 4人はイエスをパロディ化した存在であることがわかったが、タイトルの『スタンド・バイ・ミー』とは誰が誰に語りかけている言葉なのだろうか。作家になったゴーディが、クリストファー・チェンバーズの死をきっかけに過去を回想していることを踏まえると、タイトルはゴードンのクリストファーに対する呼びかけといえる。クリスが自分に示してくれた「友情」に感謝し、亡き後も自分のそばにいて励まして欲しいと願っている、とひとまずはいえよう。

 では、クリスはどんな少年として描かれているだろうか。ゴーディの両親は、ゴーディの兄が亡くなった喪失感に打ちひしがれ、ゴーディに愛情を示そうとしない。ゴーディは、物を書くのが好きだが、その才能を認め、励ますこともしない。
 自己肯定感を持てないでいるゴーディに対して、クリスは、君には文才があるから自信を持て、と励ます。ゴーディに愛を示し、励まそうとしない両親に代わって、クリスは自己犠牲を払うのだ。クリスの愛は、イエスのごとき、一方的で絶対的な無償の愛といえる。

 クリスは学校でミルク代を盗むが、その金を教師に返している。しかし、教師はそしらぬ顔でその金を着服し、スカートを買う。クリスは、盗人扱いされたまま、停学処分を食らう。クリスは金をネコババした教師に代わって、強制的に自己犠牲を払わせられてもいるのだ。私的領域で自発的にイエスのごとく振る舞うクリスは、公的領域では強制的にイエス役を演じさせられているといってもよい。

 そもそもクリストファー(Christopher)は、3世紀の殉教者の名に由来しており、キリストを運ぶ者という意味である。名前にもイエス的な存在であることが刻印されているのだ。そして、クリスが長じて就いた職業も、その死に方もイエスを思わせる。

 2 その死

 彼は、恵まれない家庭に育ちながら、努力して大学に進み、弁護士になる。弁護士は、容疑者に代わって自己犠牲を払う仕事である。罪を犯したかもしれない人間に愛を示す仕事といってもよい。もちろん、無償ではないが。
 クリスは、レストランで客同士が言い合いになり、一人の客がナイフを抜いたのを見て止めに入り、喉に刺さって即死する。本来刺されるべき人間に代わって死ぬという、究極の自己犠牲、イエスそのものといってよい死を迎えるのである。

 3 福音書の記者ゴードン

 映画の冒頭で、作家になったゴードン・ラチャンスは、クリスの死を知り、彼とともに過ごした日々を回想する。結末で、ゴードンはパソコンの前に座り、クリスの自分に対する無償の愛について書いた小説を終わりにする。

 ゴーディが、イエスのごときクリスの言動を記し伝えようとすることは、福音書の記者がイエスの言動を記録し後世に伝えようとしたことと重なってくる。ゴードン・ラチャンス(Gordon Lachance)という名は、「神がチャンスを与えてくれた者」という意味と取れるが、ゴードンは名前通り、イエスのようなクリスの思い出を書くチャンスを与えられたのだ。

 さらに、ゴードンがクリスと過ごした日々を回想することで、クリスはイエスのごとく復活を遂げてもいるのだ。

 4 讃美歌としての主題歌

 ラストに流れる主題歌「スタンド・バイ・ミー」は、ベン・E・キングが作ったものだ。キングによると、サム・クックとJ.W.アレキサンダーが作った黒人霊歌「 Stand by Me Father」にインスパイアされて作ったという(英語版のWikipedia)。黒人霊歌で父とされるのは、当然のことながら、キリスト教の神である。元の歌は、どんな困難なときであっても、神にそばにいて欲しいと願うものになっている。
 それをキングは、「ダーリン」をつけることで、神のように大切な人にどんなときでもそばにいて欲しい、という意味に変換してみせている。
 ゴーディがクリスを救世主とする福音書を書き終えた後に、主題歌が流れることは、主題歌が神のごときクリスをたたえる讃美歌であることを意味する。

Ⅳ 誰がために愛は注ぐ

 こうして映画の地層を掘り下げると、イエス・キリストの物語が、アメリカ建国神話とともに現れる。イエス・キリストを表象しているのは、死体探しをする4人の少年たちであり、死を経験するゴーディでもあり、親友クリスでもある。では、ピルグリム・ブラザーズは、イエスのごとき無償の愛を、共同体の外の人々にも注いでいるのだろうか。

 答えは否である。旅立つとき、クリスはこっそり自宅からピストルを持って来ている。そして、死体発見の特権を年上の不良グループに奪われそうになると、ピストルを出し、威嚇する(予告編の59秒あたりをご覧ください)。共同体内部の者同士は、愛し合い、固い絆で結ばれるが、外部の敵に対しては、そうではない。イエスのごとき敵をも愛する愛を実践することなく、憎しみを向け、死を宣告するのだ。

 共同体外部に対し、ピストルを向けるという態度は、クリスがピストルを持って来た(予告編の24~26秒)とき、「ローン・レンジャーになれるぞ」といっていることからも明らかである。『ローン・レンジャー』は、主人公が無法者に対し、ピストルで応戦するさまを描く、西部劇を題材としたラジオドラマであり、コミック、テレビドラマ、映画にもなった。彼らは、西部劇のヒーローと自分たちを重ね合わせている。

テレビシリーズ(1949〜58)のローン・レンジャー

 共同体外部に対し、ピストルを向ける態度は、合衆国内部の人間には、「ピルグリム・ファーザーズという神話」を用いて、愛し合うことを理想として求めつつ、外部の敵に対しては好戦的な、アメリカの姿そのもののように思われる。
 この映画が描く、我々と彼らの二元論を克服できていないこと、それこそが後の湾岸戦争を、イラク戦争を引き起こしたのではないか、そんなふうにも思えてくる。

 イエスの自己犠牲を、無償の愛を、これでもかというほど執拗に描きながら、それが共同体外部の者には適用されない。私はこの映画の欠陥と限界をそこに見る。

 共同体の内部と外部で切り分けるのではなく、イエスのように全ての人々に隣人として接すること。これこそが、今私たちに求められていることではないか、そう思うのである。

※映画は、戦争がPTSDを引き起こしているという問題に言及してもいる。テディ・ドチャンプ(Teddy Duchamp)の父は、ノルマンディー上陸作戦に参加しており、テディから英雄として尊敬されているが、息子の耳をコン
ロで焼くなど、精神的に異常をきたしている。映画製作時に、ベトナム戦争による、PTSDが問題になっていたことが背景にあろう。
 因みに、テディは、セオドア(Theodore)の愛称であり、原義は「神の贈り物」である。テディ・ドチャンプは「神の贈り物のチャンピオン」という意味であり、父を尊敬し、軍隊に入ることを望んでいる彼にふさわしい名前といえる。


 大西直樹氏の『ピルグリム・ファーザーズという神話』は、メイフラワー号に乗っていた102人が、最初の植民者でもなく、清教徒も少なかったにも関わらず、彼らのニューイングランドへの植民が建国神話となる逆説について語っており、一読に値する。

 分析するにあたり、原作のスティーブン・キング『スタンド・バイ・ミー』(山田順子訳、1987、新潮社)も参考にした。


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