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『永遠と一日』に応答する―『PERFECT DAYS』


はじめに

 1月にヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』を観たとき、なぜヴェンダースはこういうタイトルにしたのかしら、と思った。そしてふと、ギリシャのテオ・アンゲロプロスの『永遠と一日』(1998)に対する25年越しの応答ではないかと思うようになった。

 テオ・アンゲロプロスは、ギリシャ現代史を扱う、叙事詩的な作風で知られており、『旅芸人の記録』(1975)が代表作である。2012年に不慮の事故で亡くなっている。

 

テオ・アンゲロプロス

 今日は、ヴィム・ヴェンダースの 『PERFECT DAYS』とテオ・アンゲロプロス『永遠と一日』の応答関係について考えていきたい。両者の関係を考えるにあたって、まずは35年前のヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』に遡ってみよう。

Ⅰ ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』

 ヴィム・ヴェンダースは、『ベルリン・天使の詩』(1987)で、ブルーノ・ガンツに主役の天使ダミエルを演じさせた。作品は、カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞している。

 ダミエルは、下界の人間を眺めているうちに、サーカスで空中ブランコに乗っているマリオンに恋をする。彼は、永遠の命を持ち、人間には姿が見えない天使であることをやめ、地上に降り立ち、マリオンに会いにゆき、相思相愛となる。

 天使は、心身の危機にある人間に寄り添い、無言で励ましている。イエス・キリストは、十字架にかかることで、全人類の罪を帳消しにし、無償の愛―アガペー―を示したとされる。天使はイエス同様、アガペーの実践を義務づけられている。ダミエルは人間になることで、アガペーの実践から、マリオンへのエロースの実践へと転じるのである。

Ⅱ テオ・アンゲロプロス『永遠と一日』

 
 1 ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』に倣いて

 テオ・アンゲロプロスは、『ベルリン・天使の詩』から十年ほど経って、ブルーノ・ガンツを主役に起用し、『永遠と一日』(英題:Eternity and a Day)を撮っている。『永遠と一日』は、『ベルリン・天使の詩』同様、カンヌ国際映画祭のコンペに出品され、パルム・ドールを受賞している。
 
 ブルーノ・ガンツを起用したのは、もちろん『ベルリン・天使の詩』における彼の演技がすばらしかったからもあるが、ヴェンダースに対する敬意の表れでもある。


 『永遠と一日』は、冬のある日、癌で余命がわずかであると悟った詩人が、入院前の最後の一日を過ごすさまを描いている。『ベルリン・天使の詩』では、詩を書く天使は天上から地上へと降りて来て、イエスのごとき永遠の命ではなく、有限の命を得る。一方、『永遠と一日』では、プロの詩人は地上から天上へと向かうところであり、最後の一日の経験から、一日は永遠に連なるものであること、つまりは永遠の命を信じるようになる。

 『永遠と一日』では、具体的な聖句が登場したりということはない。しかし、キリスト教の文脈でつくられた『ベルリン・天使の詩』を踏まえ、天使を演じた俳優をキャスティングしていることを考えると、『永遠と一日』もまた、キリスト教の磁場にあるといえる。

 2 永遠の命を信じて

 『永遠と一日』で、テサロニキに住む詩人アレクサンドレは、亡き妻が30年前に書いた手紙を読み、妻の自分に対するエロースとしての愛に気がつく。これは、使徒パウロの『テサロニケの信徒への手紙』を踏まえている。使徒パウロはテサロニケの信徒へアガペーを込めた手紙を出したが、これを妻がテサロニキに住む夫へエロースを込めた手紙を記したことへと転じているのである。

 亡き妻のエロースに応えるようにして、アレクサンドレはたまたま出会ったアルバニア難民の少年に無償の愛―アガペー―を注ぐ。警察に追われているのをかくまってやったり、誘拐され、金持ちの夫婦に売られそうになっている現場に駆けつけ、少年を手持ちの金を全て払って、買い戻したりする。奴隷状態にあるものを買い戻すのが、「贖う」ということだが、アレクサンドレはまさに贖っている。
 
 イエスは、罪の奴隷となっている人間を贖うために十字架にかかって死んだとされる。少年を贖うアレクサンドレは、イエスのごとき存在として描かれている。

難民の少年

 アレクサンドレは、妻からのエロースの手紙に30年経ってようやく応答し、亡き妻は、彼の心の中で復活を果たした。アレクサンドレは妻と共に過ごした夏の一日を追体験する。

 亡き人との対話は、私的領域にとどまらない。ギリシャの国民的詩人ソロモスが登場し、彼の生前の様子が再現されることで、アレクサンドレがライフワークとして取り組んできた詩人ソロモスもまた復活するのだ。

 私的領域では、手紙によって亡き妻が蘇り、公的領域では、詩を通して亡き詩人が蘇った。さらに、自ら目の前の難民の少年にアガペーを示し、イエス的存在と化すことを通して、アレクサンドレは死は終わりではないこと、命は有限ではないことに気づく。肉体は滅びても、自分の詩を後世の人が読むことで、その魂は生き続けるし、自分の手紙を例えば娘が読むことで、やはり魂は復活する、そのことに気づくのだ。ちょうど十字架のイエスが復活し、永遠の命を得たように。

 自分の過ごした最後の一日は、永遠に連なる一日であることに気づいたアレクサンドレは入院を取りやめ、恐れずに死を迎えようとする。

Ⅲ ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』


 1 タイトルの意味

 『PERFECT DAYS』というタイトルは、ルー・リードの曲『Perfect Day』から来ている。この曲は自分自身を扱いかねている「私」がヘロインのおかげで完璧な一日が過ごせたことを、ヘロインを擬人化する形で歌っている。歌詞のラストで4回繰り返される「You’re going to reap just what you sow」(自分の蒔いた種を刈り入れることになる)は、新約聖書の使徒パウロの『ガラテヤの信徒への手紙』6章7節に由来しており、ヘロイン中毒の「私」の滅びを予告しているといえる。 
 一方、公私ともに無償の愛を実践する平山は、どうか。歌詞と重ね合わせて考えるなら、おそらくイエス同様、永遠の命を得ることになるのであろう。

 2 テオ・アンゲロプロス『永遠と一日』に応答する

 ヴェンダースは、無償の愛を示すイエスのごとき平山の日々を描き、タイトルを『PERFECT DAYS』とすることで、25年越しにアンゲロプロスの『永遠と一日』に応答してみせたのではないか。最後の一日に、無償の愛を示すことで永遠の命を信ずるようになったアレクサンドレから、日々、無償の愛を示すことで永遠の命を得るであろう平山へと、転じて見せたのである。アレクサンドレは文学を読み、かつ書く男だが、平山は文学を読む男として設定されていたことも忘れてはならないだろう。

おわりに

 今回の二人の応答関係には、二人そろってカンヌ国際映画祭での受賞を狙っているがゆえの応答という、ちょっと世俗的な部分もあると思うのだが、深堀りすると見えてくるものがあってよかった、ということにしたい。

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※『PERFECT DAYS』そのものの分析は、下の記事をご覧ください。平山がイエス的な存在であることをくわしく分析しています。

さらに、『PERFECTDAYS』がビクトル・エリセへの応答であることももうひとつの記事でまとめています。


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