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10分間の奇跡―ビクトル・エリセ『ライフライン』




はじめに

 わずか10分の映画で、奇跡を描いている、といわれたら、みなさんはどう思われるだろうか? そんなの無理でしょ、と思う方が大半だろう。
 しかし、それを実現してしまったのが、ビクトル・エリセの『ライフライン』である。オムニバス映画『10ミニッツ・オールダー』(2002)に収められており、1940年6月30日生まれのエリセの自伝的要素が強い、白黒映画となっている。

※ニコニコ動画で観られます。

Ⅰ 赤ん坊のイエス・キリスト

 1940年6月末の昼下がり、スペインの山あいの村が舞台である。生まれたばかりで赤ん坊は、へその緒の切り方が甘かったのか、へそから出血し、生命の危機に瀕する。ベッドで眠る母と、ゆりかごで眠る子、それぞれのショットの後に、幼子イエスを抱いたマリア像が映しだされることで、二人を聖母子になぞらえていることがわかる。

赤ん坊の出血
聖母子像

 赤ん坊がイエスであるというほのめかしは、それだけではない。
 赤ん坊は、ファーストショット(タイトルの上にあげた写真)で右を向き、両手をあげているが、ルーベンスの有名な絵「キリスト昇架」と同じポーズである。
 映画の始まりで、少年が納屋のような場所で、ペンで手首に腕時計を描き、針は3時を指している。福音書によると、イエスが十字架で息絶えたのが午後3時である。3時を指す腕時計を耳に当てる少年は、イエスの臨終のときに耳をすましているのだ。

ルーベンス「キリスト昇架」
3時の腕時計に耳をすます少年

 母親が赤ん坊の危機に気づいて叫ぶ。お菓子作りをしていたお手伝いの女性がへその緒の処置をすることで、赤ん坊は、一命を取り留める。イエスが死んで2日後に復活したように。胎内にいたときは、子に栄養を与えるライフラインだったへその緒が完全に切断されることで、赤ん坊は復活するのだ。


Ⅱ 受難の予告

 タイトルのライフラインには、もう一つの意味がある。お菓子作りのとき、水差しを置くために敷かれた新聞には、「1940年6月28日国境検問所にナチスの旗揚がる」という記事が載っている。この新聞が、舞台となっている時代を教えてくれるのだが、同時にフランスとの国境がナチスの管轄になることで、ユダヤ人の移動も、ナチスに抵抗するレジスタンスの活動も困難になることがわかる。つまり、フランスへの自由な移動というライフラインが断たれたことが示されている。

 

 さらに、冒頭で赤ん坊のへそから染み出した血がベビー服に広がっていくのと呼応するように、結末で、ナチスが国境検問所を抑えたことを報じる新聞に、水差しからこぼれた水がしみのように広がっていくのを映し出す。類似した描写で、ライフラインを切断されたユダヤ人に、大量虐殺という受難が待ち受けていることを暗示している。白黒映画にしたことで、その類似性がくっきりと浮かび上がってくる。

Ⅲ 持てる者と持たざる者

 赤ん坊の家庭には、料理を担当する女性や、赤ん坊のための刺繍を担当する女性がいる。赤ん坊の母親に代わって家事労働を請け負う人間がおり、彼女たちを雇うだけの経済的な余裕がある。

 赤ん坊の父は眠りこけ、祖父はトランプ遊びに興じている一方で、外では草刈りをし、縄をなう男性がいる。

 こうしてみると、村の中にも、持てる者と持たざる者という経済格差があることがわかる。持たざる者は、持てる者に代わって自己犠牲を払うことを余儀なくされており、イエス役を演じざるを得ない存在である。いくばくかの報酬と引き換えにではあるが。
 持たざる者の犠牲の上に、持てる者の生活が成り立っていることを映画は教える。

 赤ん坊の家族が持てる者となった経緯は、居間の壁に飾られた写真がアップで映されることでわかる。家族は、かつてスペインの植民地だったキューバの首都ハバナで商売をし、成功したのだ。
 居間で眠りこける赤ん坊の父は、キューバ産らしき葉巻をくわえてもいる。キューバの人々の経済的な自由を奪い、搾取することで利益を得ていた赤ん坊の家族は、今度は築いた富を元手に、村の持たざる者の上に君臨しているのだ。



Ⅳ 10分間の奇跡

 1 イエス・キリストの死と復活

 赤ん坊は、へその緒というライフラインが完全に切断されることで、死の危機から脱し、復活する。赤ん坊はイエスと重なる存在として描かれているので、イエス・キリストの死と復活という、3日間の奇跡が10分間に圧縮して語られているといえよう。

 赤ん坊の復活と時を同じくして、フランスへの移動の自由が奪われ、フランスとのライフラインが断たれる。ユダヤ人やレジスタンスの活動家は、死の危機に瀕するのだ。

 2 もう一人のイエス・キリスト

 最新作『瞳をとじて』で、エリセは編集技師のマックスにこう語らせた。「ドライヤー以降、映画に奇跡はない」と。そして、カール・ドライヤー『奇跡』(1954)を書き換える試みを行ってみせた。

 『奇跡』を観た目で、本作を観てみよう。『奇跡』で復活をするインガーは、冒頭で型を抜いてお菓子作りをしている。彼女は出産で亡くなるが、復活する。本作では、お手伝いの女性が粉と水を用いてお菓子作りをしている。彼女は、生まれたばかりで死の危機に瀕した赤ん坊のへその緒の処置を行い、復活の手助けをする。


『奇跡』のインガー


『ライフライン』のお手伝いの女性



 インガーは、家族の罪を背負って死ぬという点で、イエスのごとき存在である。本作のお手伝いの女性もまた、悲鳴をあげた母親に代わって、赤ん坊の処置を行うという自己犠牲を払う。赤ん坊に無償の愛を注ぐ彼女もまた、イエス的存在なのだ。
 こうしてみると、エリセのドライヤーへのオマージュは、最新作に始まったことではないとわかる。

 『ライフライン』は、カール・ドライヤーの126分の映画『奇跡』を10分に圧縮してみせたという意味でも、「10分間の奇跡」なのだ。

おわりに

 とまあ、断定口調で、『ライフライン』について論じてきたものの、私も最初から、ここに書いたようなこと全てに気づけた訳ではない。
 20年以上前に、オムニバス映画『10ミニッツ・オールダー』を初めて観たとき、エリセの卓越した才能を感じた。けれど、それはライフラインというタイトルのダブルミーニングと、映画が時間の芸術であるということを、少年の腕時計や柱時計で知らせていたから、ということにとどまる。映画の全貌がつかめていた訳ではない。

 初めて観たときから、20年以上経って、ようやくエリセの意図を汲み取ることができる段階に達した、そんなふうに感じている。おいおい、時間がかかりすぎだよ、という突っ込みが入りそうだが、私じしんが超スローペースでしか成長できなかったのだから、仕方がない。
 
 エリセは大好きだけれど、他の方と異なる視点で分析するだけの力がなく、一生論じることはないのかもしれない、そう思っていた。それが、時間はかかったけれど、こうして文章にすることができて、うれしく思う。

 noteユーザーは若い方が多いと思うので、私のように20年かかってようやく映画を理解できた、などという経験はおありではないかもしれません。けれど、高校生のときに観た映画が社会人になって違う目で観られるようになった、などということはあるのではないでしょうか。そんな映画があれば、ぜひnoteでご紹介ください。読んでみたいです。


※『瞳をとじて』が『奇跡』の書き換えになっていることについては、以下のレビューで詳しく書いています。ご興味を持たれた方は、ぜひご覧ください。





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