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天使のようなあなたへ―ビクトル・エリセ『瞳をとじて』

               


Ⅰ テオ・アンゲロプロスに倣いて

 親愛なるエリセ
 待ちに待ったあなたの新作、拝見しました。あなたがこんなにもテオ・アンゲロプロスを愛しておられたなんて!

 撮影中に俳優が失踪し、後にテレビ番組の企画で追跡するという筋書きは、アンゲロプロスの『こうのとり、たちずさんで』(1991)を想起させます。『こうのとり』では、政治家が突然、失踪し、後にテレビの企画で彼を追跡します。

 あなたの新作の映画内映画のタイトル“LA MIRADA DEL ADIOS”は、英語にすると、“FAREWELL GAZE”、つまり『別れの眼差し』です。アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』(英題:ULYSSES’GAZE 1995)は、映画監督(ハーヴェイ・カイテル)がギリシャとバルカン半島における最初の眼差し―first gaze―を探す旅に出るという話でした。
 今回の映画内映画で生き別れた娘を探して欲しいと頼むのは、レビという名のユダヤ人です。『ユリシーズの瞳』では、マナキス兄弟のフィルムを現像しようと試みるのが、イヴォ・レヴィ(エルランド・ヨセフソン)という名のユダヤ人でした。あなたは、最初の眼差しを最後の眼差しへ、映画監督が旅の末に出会うユダヤ人を、映画監督が映画の中のファーストシーンで登場させるユダヤ人へと転じてみせたのです。

 アンゲロプロスへの深い愛を感じるのは、筋書きや設定だけではありません。あなたが撮った画面からも、それが伝わってきます。 
 
 映画監督のミゲルは、フリオ・アレナスが失踪したときのことを想像し、それが映像として示されます。アレナスがネットのなくなったサッカーゴールで、背中を見せ、両手を挙げるショット。これは、アンゲロプロスの『永遠と一日』(1998)で、アレクサンドレ(ブルーノ・ガンツ)が、海を通る船に両手を挙げて合図するショットを踏まえています。ミゲルは忠実な伴侶である犬を連れていますが、アレクサンドレもまた、犬を連れていましたっけ。

(サッカーゴールの場面は、1分24秒くらいに、白いシーツの場面は、1分10秒くらいに出てきます。)

(両手を挙げて合図する場面は、1分8秒くらいに出てきます。)

 無数の白いシーツがはためく背後に、ミゲルとフリオが白いペンキを塗っている最中の建物が現れる。このショットは、アンゲロプロスの『エレニの旅』(2004)に登場する、テサロニキの、白布がはためく丘を思い出させます。『エレニ』に登場するニコスは、エレニと恋人アレクシスに無償の愛を注ぐ、イエスのごとき存在でした。彼は、ゴルゴタの丘ならぬ、白布の丘で、白布がはためく中、撃たれて亡くなるのです。

 (白布の丘でニコスが亡くなるのは、44秒くらいに出てきます。)

 あなたがアンゲロプロスへの愛を表明した映画だということは、主役の映画監督の名前がミゲルとされていることからも伺われます。ミゲルは、ミカエル、つまり大天使ミカエルと同じ名前です。アンゲロプロスは、天使のような、という意味です。盟友の名が天使のようであることに合わせて、天使に因んだ命名にしたのでしょう。

 私はあなたのアンゲロプロスへの愛に驚かされましたが、あなたの過去の作品を見れば、そのことは既に明らかだったような気もします。あなたの2作目の作品『エル・スール』(1983)では、オメロ・アントヌッティが父親を演じていますが、彼はアンゲロプロスの『アレクサンダー大王』(1980)で主演を務めています。あなたの呼びかけに応えるようにして、アンゲロプロスもまた、『蜂の旅人』(英題:THE BEEKEEPER 1986)を作っています。『ミツバチのささやき』(1973)では、一つ所にとどまり、室内でミツバチを飼育しようとする父親が描かれます。一方、『蜂の旅人』では、屋外でハチを飼育し、旅する初老の男性(マルチェロ・マストロヤンニ)が描かれるのです。  


Ⅱ カール・ドライヤーに倣いて

 今回、アンゲロプロスへの愛を示しながら描かれるのは、死と復活の物語です。編集技師のマックスは、「ドライヤー以降、映画に奇跡はない」といいます。カール・ドライヤーは『奇跡(御言葉)』(1954)で、一人の女性の死と復活を描きました。ドライヤーに言及していることから、本作は『奇跡』を下敷きにしていることがわかります。本作では誰が死に、復活するのか、見てみましょう。

『奇跡』の復活する女性「インガー」

 1990年、ミゲルが『別れの眼差し』を撮影している最中に、親友で映画俳優だったフリオ・アレナスが失踪します。映画は主演俳優を失うことで、未完に終わります。フリオは、失踪から22年経った2012年に、高齢者施設にいることがわかりますが、過去の記憶を失い、自分が誰かもわかりません。肉体は生きていますが、精神的には死んでいるといってもよいのです。
 ミゲルは死者のごときフリオの復活を繰り返し試みます。フリオの記憶を蘇らせようと、海兵時代に一緒に撮った写真を見せ、もやい結びをして見せ、彼にも同じようにやることを求め、彼の手を触りますが、記憶は蘇りません。目の前にミゲルがいても、ミゲルにまつわる記憶がないため、見えていないも同然なのです。

 フリオの手を触る行為は、チャップリンの『街の灯』(1931)のパロディでしょう。花売り娘は、浮浪者の手に触れることで、浮浪者こそが自分に大金をプレゼントしてくれた張本人であることに気づきます。目が見えるようになったものの、真の恩人に気づかないという点で、盲目状態だった娘が、本当の意味で目が見えるようになったのです。

(手に触れる場面は、2分29秒くらいに登場します)。

 次にミゲルは、フリオの娘アナを呼び寄せ、彼女に「私はアナよ」とささやかせます。けれど、記憶は蘇りません。『ミツバチのささやき』(1973)のラストで、アナは精霊と話をするために同じ台詞をいいます。アナは脱走兵を精霊と勘違いしており、脱走兵は殺されているため、目には見えない精霊に呼びかけるものになっています。本作で、「私はアナよ」は、目の前にいる父に呼びかける台詞へと変換されているのです。

 最後にミゲルが挑戦するのが、映画の力を借りることです。ミゲルは編集技師のマックスに依頼し、フリオの失踪前に一部だけ撮影した『別れの眼差し』のフィルムを高齢者施設に持ってこさせます。そして、閉館した映画館で上映会をし、フリオやアナ、施設の介護福祉士やシスターを招待するのです。
 そこには、映画の冒頭でファーストシーンが示された、『別れの眼差し』のラストシーンが映し出されます。ファーストシーンでは、1947年、フランスのパリ郊外の「悲しみの王」と呼ばれる館で暮らすユダヤ人の富豪レビが、中国で生き別れた娘を探してほしいと依頼します。死ぬ前に、彼女の眼差しをもう一度見たい、というのです。依頼相手が、フランクという、元レジスタンスの闘士で、フリオが演じています。
 ラストシーンでは、フランクが娘を連れて館に戻ってきます。娘は最初は扇子で、母親に教え込まれたポーズをとるだけで、レビが自分の父親であることは覚えていません。それが、彼が歌の一節を口ずさむことで記憶が蘇り、共に歌い、涙します。スクリーンとスクリーンを眺めるフリオとが交互に映し出され、観客はフリオの記憶が蘇る瞬間、奇跡の瞬間に立ち会うことになるのです。編集技師のマックスは、「ドライヤー以降、映画に奇跡はない」といいますが、ミゲルが映画の持つ力を信じて行動することで、不可能と思われた奇跡が起ころうとするのです。

 復活を遂げようとするのは、フリオだけではありません。22年間、映画を撮ることなく、漁村で隠遁生活を送っていたミゲル、映画人としては死んだも同然であったミゲルもまた、かつてのように映画の持つ力を信じることで、復活するのです。それは未完の映画を上映している、ほんのいっときのことかもしれませんが。

 付け足しになりますが、あなたは実は映画内映画である『別れの眼差し』においても、ドライヤーに倣おうとしています。ドライヤーは、『ミカエル』(1924)で絵描きの苦悩を描いて見せました。ファーストシーンで、ユダヤ人のレビはベルベットのような衣装に身を包み、脇にチェスを置いていますが、『ミカエル』にも、ゾレが似たような服装で、脇にチェスを置いているショットがあります。あなたは、映画のテーマだけでなく、映画の画面作りもまた、ドライヤーに倣っていることを示しているのです。
 ミゲルという命名は、『ミカエル』に倣う者であるというマニフェストでもあります。あなたの盟友アンゲロプロスもまた、『ユリシーズの瞳』で、ドライヤーに賛辞を捧げています。映画監督を演じるハーヴェイ・カイテルは、友人の政治記者と乾杯して、「ドライヤーに」というのです。

『別れの眼差し』のユダヤ人レビ
『ミカエル』のクロード・ゾレ

Ⅲ 二人のイエス

 本作は、ドライヤーの『奇跡(御言葉)』をあなたなりのやり方で書き換えることを目指しています。『奇跡』は、農場主の長男に嫁いだ女性インガーの死と復活を描いています。農場主の次男ヨハンネスは、イエスが復活したようにインガ―も復活すると信じ、インガーの幼い娘とともに、「死者を生かす御言葉をお与えください」と祈ります。イエス・キリストの力を信じることで、一人の女性が死から復活します。復活を遂げるのは、実はインガーだけではありません。ヨハンネスもまた、精神の病にかかっていたのが、完治し、復活するのです。
 人間が文字通り復活する『奇跡』を、あなたは、映画の力を信じることで、二人の男性が死んでいるかのような状態から復活する物語へと書き換えて見せたのです。インガーは農場の人々の罪を背負って死んでおり、イエスのごとき存在として描かれているといわれています(小松弘「日常的光景の彼方に 『奇跡(御言葉)』について」、「奇跡(御言葉)」所収、紀伊国屋書店、2010)。不信仰な兄や父に代わって、義姉の復活を祈るヨハンネス、無償で自己犠牲を払うヨハンネスもまた、イエス的な存在といえましょう。

 すると、今回のイエスは誰でしょうか? 私は、フリオであり、ミゲルでもあると思います。フリオは記憶を失うことで比喩的な意味で死に、ミゲルの尽力で復活しようとしています。ミゲルは、失踪したフリオらしい男がいると聞くと、自腹で高齢者施設に赴き、施設に滞在して、フリオの記憶を蘇らせようと奮闘します。番組がフリオ探しを始めたのですから、赴くのはテレビクルーでもよかったはずですし、実の娘アナに知らせるだけでもよかったはずです。ミゲルは、テレビクルーや実の娘に代わって自己犠牲を払う存在、フリオに一方的で絶対的な無償の愛を注ぐ、イエス的存在なのです。

 無数の白いシーツがはためく背後に、ミゲルとフリオが白いペンキを塗っている最中の建物が現れるショットは、アンゲロプロスの『エレニの旅』(2004)を想起させることは、すでに述べた通りです。『エレニ』において、白布の丘で亡くなるのは、イエス的存在であるニコスです。本作で、白いシーツの背後に二人の姿が見えることで、本作におけるイエスは、ミゲルとフリオであることが示唆されているのです。そして、実は、『奇跡』においても、イエス的存在であるヨハンネスが背中を見せて丘を登るとき、白布が翻っているのです。

『奇跡』 丘を登るヨハンネス

 フリオのいる高齢者施設が修道院のシスターたちによって運営されており、フリオが記憶を取り戻す場にシスターが立ち会うことは、意義深いです。高齢者施設で高齢者に無償の愛を注ぎ、イエスに倣うことを実践するシスターたちは、ミゲルの映画への信仰によって、死せるフリオが復活する、その現場を目撃するのにふさわしい人物なのです。

Ⅳ アンゲロプロスの復活

 あなたの今回の映画は、『奇跡』に倣って、二人の男性を復活させる試みであると同時に、筋書きや設定、画面をアンゲロプロスを彷彿とさせるものにすることで、2012年に亡くなった盟友テオ・アンゲロプロスを映画の中で復活させる試みでもあります。フリオが見つかり、ミゲルが復活を試みるのが2012年とされたのは、偶然ではないでしょう。アンゲロプロスが不慮の事故で亡くなったのが、2012年です。2012年に映画の力でフリオを復活させようとするのと同じように、2012年に亡くなったアンゲロプロスを映画の力で復活させようとしているのです。ミゲルのフリオへの愛が無償の愛であるのと同じように、亡くなったアンゲロプロスへのあなたの愛もまた、一方的で絶対的なものとなっています。

Ⅴ あなたからの手紙

 では、あなたは今を生きる私たちにどのようなメッセージを伝えようとしているのでしょうか。あなたは、クレジットタイトルでヤヌスの像を映し続けています。前と後ろ、正反対の方向を向いたヤヌス像。過去を知ることで、どのような未来をつくっていくべきかも決まって来るということでしょう。
 フリオのように過去を忘却するのではなく、ミゲルのように記憶すること、忘却してしまっているのであれば、辛抱強く記憶を呼び戻そうとすること、これこそが未来を創るために必要である、あなたはそう語りかけてくれているようです。「われわれはどのような時代を生きてきたのか、これからどこに向かうべきなのか。」これこそが、あなたが、そしてアンゲロプロスが映画を通して私たちに問いかけ続けてきたことであり、私たちが自分のものとして受け止めるべき問いである、そんなふうに思います。 

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