見出し画像

場所の意志

経済人類学のカール・ポランニーが普遍社会においての市場交換による利潤を否定して以来、消極的に互酬と再分配(贈与と貢納)として事後的に(意図的に企図できない)共同体内トランザクションを規定して、対外的には交易港を設定して固定レート交易(儀礼としての)、あるいは祝祭時に余剰品が分与されるという形でイレギュラーに個別交換(に結果的に見られる)があらわれ、場合によっては対内貨幣と別に対外貨幣が設定され、また対内貨幣も「共同体の生存を象徴するもの」としても統一されず多元的にいくつも分散して存在し、そうした見取り図に従って過去の社会と歴史を再構成しようとしても、そもそも共同体にそうした無意識の作為を成させる動因も共同体の生存を象徴するものに何らかの表象における法則があるのかもわからない。また、社会がなぜ興隆して消え去るのかもわからない。そしてわたしたち近代人が社会を意図的に企図するとき、果たしてそれらを考慮に入れたりすることが可能なのかもわからない。社会という語彙には近代社会の諸制度や市場経済という含意があり普遍性がなく、共同体という語彙(コミュニティの場合)キリスト教の教区という含意がありこれまた普遍的でないとして、人の集合を束としてつかもうとしたのがファシズムであったとするならば、意図的に社会をつかもうとして失敗を重ねた近代社会の藁をもすがる一束がファシズムだったということになる。この集合的表象なり「生存を象徴するもの」はユングのような集合無意識の世界になってしまうのだろうか?動物の普遍的無意識が生物界のエコノミーを成立させているようにである。先に述べたように共同体も社会も近代的個人の集合も語彙として使えないなら、シニフィアンとしての「束」(ファシズム)になってしまうのだろうか。またシンボリズムを共有する集団の内部と外部はどのように峻別されるのか。前近代的社会はシンボリズムの象徴的統合で説明できるが、近代社会はそうではないというルーマンのポランニー理解が有る。機能主義的に分化した組織体が近代社会の構成要素であり、分業なり差異化はあっても象徴的統合はないと。吉本隆明はヘーゲルの歴史哲学をそのキリスト教の絶対化をシニフィエとするそれから切り離しシニフィアン(恣意的)として時空の相対化とみなした。それは世界史を「いながらにして」把握できる主観客観を相対化して実存をも含んだ論理学、経済学への「願望の理想化」としての歴史なのだが、そうした時空を統合して段階化(ブロック化)した普遍的概念など存在しないというのが吉本隆明に対する経済人類学者栗本慎一郎の批判であった。しかし経済人類学では互酬を中心とした原始経済プリミティブエコノミー(中心を持たず対外的には散発的な沈黙交易しか行わない)、再分配を互酬経済に付け加えた古代経済アルカイックエコノミー(中心からの再分配、つまり貢納とその分配が有り対外的には交易港という固定居留地を持つ)、そして市場交換経済と一応は分類化しており、ただそれが発展段階とみなされていないというだけである。安定した社会に対するイレギュラーなインパクトによる転変としてしか把握されてない。その場合生物進化自体がイレギュラーなインパクトによる混乱の積み重ね(つまり進化でなく不安定な複雑化)という含意を持つ。これはキリスト教に反発するニーチェのようであり、ヘーゲルを引用する吉本がキリスト教側のように見えるが、必然に対置される偶然が問題なのではなく偶然が必然に転化する界面が問題なのはいうまでもなく、物質のランダムなぶつかり合いが生物を生成する抜け路が問題なのだ。吉本隆明は人類史の原型としてアフリカ的原型を立て、そこからアジアと西欧が分岐したとした。そして超西欧とは超現在であり、最大の未来は最大の過去と同じ射程を持つものとした。つまり未来の無限遠点からの視線は発生の初期あるいは未生と発生の敷居を見通す。アフリカ的原型へ向かう非知は未来をマルクスレーニン主義の埒外に置く。無秩序は有限の視点からのみ偶然の無秩序であり、無限の視点からは無秩序の偶然が秩序の必然に果たす役割、境界線が見える。いわゆる、時空を相対化した上で何が共同性のシニフィアンなのか?風土記から記紀に至る過程での時空の醸成と系列化、あるいはあらたに創作されたもののけ、異形の神の形態か?世界のあちこちに無限大の発散が介入して崩壊してしまうのを人間の世界は物理的・精神的に言語で以て防いでいる。ランダムさはカオス、無秩序であり無限の代替ではないが一見そのようにみえる。ランダムさは秩序化の原理の条件にはなりうるが秩序そのものではない。カオスやランダムさは秩序化の原理の解発にはなりうるものの原理そのものではないということは、秩序化から排除されるエントロピーとしての永遠の外部がありうることになる。それらは次の秩序には参与せず廃棄されるためにのみ存在している。それでは場所(居場所ではない)の意志においてはどうか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?