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日本とキリスト教の歴史~『クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国』を読んで

「クアトロ・ラガッツィ」はイタリア語で「4人の少年」を意味する。日本からローマ教皇への使節団として困難な旅路につき、壮絶な一生を遂げた日本人の少年らをリスペクトして名付けられた書名であると感じられる。しかしながら、日本におけるキリスト教の歴史は彼らの前後に多くの物語を持っており、その一つずつを読み解いていったのが、美術史家である著者であった。本書は小説とも論文とも言い難い、しかしただ歴史を学ぶ参考書としては、あまりにも人の感性に訴えかけるものがあると私は感じた。

日本におけるキリスト教の歴史は、多くの人が知るように、イエズス会宣教師であるフランシスコ・ザビエルによってもたらされた。彼はたしかに日本における布教活動の第一人者だったが、彼に続いてやってきた多くの宣教師もまた苦難の中、日本で信者を増やすための努力をしていたのである。彼らはヴァリニャーノであり、フロイスであり、カブラルであり、またオルガンティーノであった。しかしその裏には国や宗派による対立が多くあり、限られた歴史書によって当時の出来事を詳細に調べることは非常に困難な作業である。その多くは先入観や偏見、事実の歪曲によって正確性を欠いていることがあるからである。

美術史家である本作著者は、キリスト教のどの宗派にも属さず、また歴史家としての立ち位置も意図する必要がないため、読者はその内容を信頼して読むことができるのである。著者自身、

t「その文章を書いた人がどういう立場で書いたかを前提にして、常に批判的に読み込み、書いてあることを鵜呑みにしない」

若桑みどり. 『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』. 綜合社, 2003年, p. 274.

と、本書で述べている。これはどの文献を参考するにしても重要なことであり、私たちはこのことを常に心がけなければならない。彼女のこの意識を考慮すると、複数人による資料を比較しながら客観的に読み解かれた本書は、私たちの想像力によって補わせながらも、たしかに当時の日本人、そして西洋人の思惑を振り返るための最適なものとなっていると私は確信している。

歴史が動くとき、そこには必ず個人の思惑があり、どの歴史上の出来事をとっても、誰が、なぜ、どんなことを考えていたのか、という背景が存在するのである。本書では、日本での多くの著名人がキリスト教とどのような関わり方をしてきたかについて詳細に述べている。

信長も秀吉も、人々をただ哀れんでキリスト教を保護したのではない。他国の侵略を見据えて、自分のために有益であると考えての行動である。そして迫害もまた、為政者が自分の政治に都合の良いように行われたものである。そして、かつて秀吉にキリスト教の強さをみせつけてしまったコエリョの失態(p.400)のように、ある個人の思惑の背景にもまた、理由があった。本書は一つの物語ではなく、個人の物語がどのように積み重なり、そして交わったのかをまとめたものである。

日本にどのようにキリスト教がもたらされたのか、それは本書に詳しく書かれているとおり、多くの宣教師によって布教がなされ、またそれを保護するキリシタン大名の尽力によって日本では信者の数が増えていった。しかし、全ての歴史的事象には理由があり、ザビエルが日本に鹿児島に来たのにもまた、ある人物との出会いがあった。マラッカでザビエルに罪の告白をした、アンジローである。劉(2009)は、「彼がアンジローの中に見たものは、教養と礼儀と好奇心にあふれた人間だった。」と書いている(劉, 2009, p.102)。イエズス会が日本での布教活動を始めることは既定のことであったかもしれないが、まだ日本人が海外とのつながりをほとんど持っていなかったこの時期において、アンジローの存在はザビエルの来日に大きな影響を与えたことであろう。

このように日本人の教養を褒め称える表現は本書にも多く出てきており、当時の他のアジア諸国と比べ、日本がいかに文明の発達した国であったか西洋人が感嘆している様子を述べている。ヴァリニャーノは「日本人の天稟の才能と理解力がいかに大いなるものであるかが分かる」と、日本語の複雑さを根拠にこう述べている(p.91)。またこれに対し著者は、このような異文化への自然な尊敬もまた、高度な教養を表していると彼を褒めた。異文化を理解すること、そしてリスペクトすることは、現代でも人々に必要な教養の一つである。

本書ではこのような日本に対する西洋側の視点も複数個持っており、ヴァリニャーノと元ポルトガル軍人のカブラルの布教方針の違いが描かれている。彼らの考え方の違いに代表されるように、スペインとポルトガル、そしてイタリアが本来国民性を異にしており、それが日本における宣教師にも大きく影響を与えているというのは非常に興味深い視点である。
そのような中、日本での布教はいかにして成功していったのか。次章から、この日本人の精神がキリスト教の考えとどのように交わり、そしてどのようにして受け入れられていったのか、本書の記述を参考にしながら述べていく。

そもそも宗教の存在意義とは、生きる理由を与えるものと私は考える。なぜこの世界が存在し、その中に自分は生まれ、どのように生き、そして死後はどこへ行くのか。人間の存在の時間的前後にまで考えを深めたものが、宗教のテーマであるように感じられる。そしてそういった面で、仏教とキリスト教はその全てにおいて異なる考え方を持っており、多くの日本人が仏教徒であった日本においてキリスト教を普及させることがいかに困難であったか感じさせられる。

しかし、当時日本に一神教としての「神」のような存在がいなかったことは、もしかすると宣教師にとって幸いだったのかもしれない。彼らにとってまずしなければならなかったことは、日本人に「神」という概念を定着させることであったが、狹間(2005)によると、「ヴァリニャーノたちは『神』の摂理を体現するものとして天文学や数学を援用しながら日本人の説得をはかった」(狹間, 2005, p.57)。現代においては、宇宙は宗教ではなく科学によって説明されるべき事柄であるが、上述したように本来宗教の存在意義はそのような世界の成り立ちを説明することにもあり、宇宙や天体について知識の浅かった日本人は、少なくない数が教会の説教でその考えを受けいれて洗礼を受けたと考えられる。

本書では、しばしば宣教師や日本人修道士と仏僧との宗教論争についての話が記述されている。日本人、特に僧侶は理論的に物事を考えることが好きであり、その賢さ故にキリスト教の考えを受け入れることができたというのは興味深い。しかし、天台宗の日乗とフロイスの論争で事実上フロイスが勝利し、そのことが信長に認められたというのは大きな史実であるだろう。貧困者が教会によって救われたという物理的理由を除いて、このように日本人はその理性によってキリスト教を受け入れたということが分かる。宣教師らが書いたように、日本人には教養があり、学問のレベルが高かったのである。

また、本書で著者が強調して書いているのが、家光によるキリスト教迫害時における、大量の殉教者である。日本では全世界のキリスト教の歴史の中でもまれに見る大量の殉教者を輩出したが、それは本来、武士にとって自害が名誉であるという考えがあったからである。キリスト教徒となった彼らにはそれが神に対する死となったのだが、キリスト自身が殉教したという事実に加え、彼らの武士道がそこに大きな意味を持ったことが間違いないだろう。このような武士の改宗は戦国時代当時、戦下においても重要なことであった。死後の救いを信じているため、自分の信念のためには死をも恐れない彼らは、勇敢な戦士となったのである。そして戦争に勝てばそれをデウスのおかげと考えたのも、宣教師らにとって望ましいことであった。

このように、人はあるものを信じるとき、いかようにもそれを正当化するような心理的な働きを持っている。これは日本における布教活動に限らず、どのような場面においても、この心理を駆使することは必要不可欠である。そしてそれが成功した例が、この武士の改宗であったのだ。

以上のような、日本人の宗教的価値観の西洋への変遷を考慮すると、日本がキリスト教徒を受け入れた理由は主に三点あると考えられる。まず一つは、貧困者が教会によって救われ、その身をキリスト教へ捧げたことである。当時日本で間引きという文化があったことに衝撃を受け孤児院を設立したという話も本書にあるが、このような慈善活動は確実に貧困者の信者を増やしていたであろう。宣教師らが、日本を征服するためではなく、実際に心から人々の救済だけを目的として日本に来ていたことは真実か分からないが、少なくともそのうちの数人が非常に気高い心を持って日本での布教活動をしていたことは、本書から読み取ることができる。
次に高度な教養を得た僧侶の改宗である。この経緯は上に述べたものである。そして最後に、個人の思想とは別に考えられた、戦国大名による領単位での改宗である。キリシタンとなった武士の戦争での強さもさることながら、当時は貿易のためにポルトガルやスペインとの関係を築くことが大名にとっての目標の一つとなっており、その手段としての改宗である。このように日本は、少しずつ世界への扉が開かれようとしていた時代だったのである。そこからの鎖国についてはこれまで歴史の授業で学んできたことであるが、ここまでの宣教師や遣欧使節のことを考えると、非常に残念な歴史である。
しかし、このような布教活動の記録は現在においても非常に参考になるものであり、東西の文化をともに理解しようとしたヴァリニャーノや少年使節らは、今私たちが学ぶべき精神の礎であると考える。彼らは素晴らしいキリスト教信者であり、西洋に日本の名とその文化を広く知らしてくれた。彼らと、そして膨大な量の資料を基にこの物語を書き出してくれた著者に心から敬意を表したい。

参考文献

・若桑みどり. (2003). クアトロ・ラガッツィ天正少年使節と世界帝国. 綜合社.
・劉小珊. (2009). 日本の早期開教におけるポルトガル商人の役割. 神戸女学院大学論集, 55(2), 97-106.
・狹間芳樹. (2005). 日本及び中国におけるイエズス会の布教方策: ヴァリニャーノの 「適応主義」 をめぐって. アジア・キリスト教・多元性, 3, 55-70.

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