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生活の中で少しずつ覚えた日本語(タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その1)

林田マリトニさん プロフィール:
フィリピン ビサヤ諸島生まれ。
フィリピン大学農学部に在学中に、日本から駐在員としてフィリピンに滞在していた
現在の夫と知り合う。大学卒業後に結婚し、来日。
フィリピン人コミュニティでの活動や、司法や行政機関で、
翻訳・通訳者としてキャリアを積む。現在は翻訳・通訳者として活動しながら
兵庫県内の国際中等教育学校の教師としても活躍している。

英語の表記がほとんどなかった40年前の日本

F:どうやって日本語を勉強したのですか?

私の場合は、日本語を勉強したくてしたわけではありません。
(来日したのは)40年ほど前ですから、英語を話せる日本人はほとんどいませんでした 。

夫が仕事でフィリピンに来ていて、そのときに知り合ったんです。夫は英語が流暢に話せました。

夫は「ちょっと日本語を勉強したほうがいいよ」といつも私に言っていましたが、私は日本語がわからなくても大丈夫だと思っていました。

ところが、日本に来たらびっくりしました。

今はどこでも英語表記の看板がありますが、当時はありませんでした。
バスの行き先も、今はローマ字で書いてありますが、昔はなかったのでバスの番号を覚えて利用していました。

フィリピンでの暮らし

夫と会ったときはフィリピン大学の農学部に通っていました。
マニラなど様々な都市にキャンパスがありますが、農学部のキャンパスはラグナ州ロスバニョスにありました。

大学生のころ:ラグナの木彫り工場にて

実家がサトウキビを育てていたので、サトウキビの研究をしていました。
漁業関連の学科も同じキャンパスにあり、そこで主人と知り合ったんです。
私が大学3年生、19歳の時でした。

大学生のころ:ラグナの木彫り工場の皆さんと(前列右から二人目)
ラグナ州はマニラ首都圏の周辺州で、現在は自動車工業が盛ん

今は教育制度が変わっていますが、当時のフィリピンには中学校と高校の区別がなく、中等教育は4年間でした。
だから一般的に大学入学時の年齢は16歳だったんです。

夫と知り合うまで日本に興味はまったくありませんでした。
夫は英語が話せたので、日本語でコミュニケーションをとることもありませんでした。

もし夫と出会わなければ、まったく違った人生になっていたと思います。
日本に来ることもなかったでしょう。

大学を卒業してすぐに結婚しました。
当時、夫はフィリピンを起点に、マレーシアやシンガポールなど東南アジアを飛びまわっていましたので、結婚後1年半ほどはフィリピンで生活しました。

日本に帰国すると決まったときに、夫に「日本語を勉強したほうがいいよ」と言われたんです。
そのときは「あ、そう」と思っただけでした。
今から思えば日本での生活を甘く見ていたんでしょうね。

F:日本に来たのはいつですか。

22、23歳のころです。1983年の夏です。

夫はエビを輸入している水産会社で働いていました。
奄美大島にエビ養殖の研究所があったので、私が最初に来たのは奄美大島でした。

来日後、最初に住んだ奄美大島にて

ですので、最初に覚えた日本語は奄美大島の方言です。
そのころ、日本語の教科書は小さなポケットブックのようなものしか持っておらず、それを使って勉強しました。

奄美大島の滞在は数か月だけで、10月には大阪の枚方へ来ました。
枚方で息子が生まれました。

40年前の枚方は今よりも田舎でした。
近所にフィリピン人はおらず、その他の外国人も少なかったです。
妊娠したときには、家から病院までバスでかなり遠くまで通わなければなりませんでしたが、その病院の近くにフィリピン人が住んでいたんです。

その人が、日本に来てから初めて知り合ったフィリピン人でした。
その人は、子どもはいませんが日本人と結婚していました。

枚方市に住んでいたころ:まだ幼かった子どもたちと

5年ほど枚方に住んだあと、夫の仕事の都合で神戸に引っ越してきました。神戸に来てびっくりしました。
フィリピン人だらけでした。
カトリック神戸中央教会にもフィリピン人がすごく多かったです。
それからフィリピン人の知り合いが増えました。

家族写真:神戸の自宅にて

言葉がわからない、誰も頼れない。
それなら、自分で何とかするしかない!

日本語に関しては、覚えるしかなかったという感じです。
主人が朝仕事に出かけ、帰ってくるのは夜でしたから、日本語がわからなければ生活できません。
先ほど言った小さなポケットブックで勉強を始めました。

息子が保育園に行くようになり、毎日の子どもの様子など、書いて提出する機会がたくさんありました。
私は日本語が書けなかったので、ひらがな、カタカナを勉強するようになりました。

勉強したかったわけではなく、生活の中で必要だから勉強したんです。
最初はひらがな、カタカナを使った変な日本語で書いていましたが、保育園も一応理解してくれていました。

息子が幼稚園に入ると、プリントに苦戦しました。
予定表や、「これは何?」というようなものがあって、「読めない!」という感じでした。

それがきっかけで漢字の勉強へ進みました。
子どもが小学校に上がるまでに、子どもよりも私の方が日本語を読めるように頑張りました。
主人は仕事から帰ると疲れて書類を読んでくれないので、あてになりませんでした。
後で読む、と言ってそのまま寝てしまうこともありました。

もちろん、友だちや近所に住む同級生のお母さんたちが教えてくれることもありました。しかし、いつも誰かに迷惑をかけたり、お願いしたりしないと何もできないような生活は嫌でした。

例えばスーパーへソースを買いに行っても、ソースの種類が多すぎて、「わからない!」という感じでした。
生活の中で少しずつ日本語を覚えていきました。
必要だから覚えただけです。

「買い物、子育て……日本語は生活のなかで必要だったから覚えただけ。
誰かにお願いしないと何もできない生活は嫌だった」

漢字は子ども用ドリルで勉強

先ほど話した小さいブックレットはアルファベットで書いてあって、漢字がありませんでしたから、本屋にある子ども用のドリルを買いました。

ゼロからの勉強でした。ひらがな、カタカナから始めました。
日本語学校には通いませんでした。
そのため私の日本語は少しおかしいです。

(日本語からタガログ語や英語へ)訳すのはよいのですが、日本語には苦手意識があります。
だからタガログ語から日本語への訳出が苦手です。


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