兵庫県伊丹市「ベーカリーカフェ シナノ」
◆「僕には物語は無いんです」
今回この記事を書くにあたり、まず、「パン屋さんを始めたきっかけ」を聞いた時、オーナーの中嶋ケンさんから返ってきたのがこの言葉だった。
私はこの一言が、とても心に残っている。
というのも、私にとってシナノは、「物語」そのもののようなお店だったのだ。実は私はこのお店が好きで、個人的に今まで何度も通っており、久木田さんに直談判して「シナノを書くなら私しかいないと思う」と売り込んだのだった。
私の知るベーカリーカフェ シナノは、甘いシナモンの香りが店内をつつみ、いつもお客さんたちが各々に談笑したり、静かに書き物をしたりしている。
その様子は、どこかモーパッサンの短編小説を思わせるような温かさと、さりげない幸せがつまっていた。
けれども、中嶋さんは静かに一言「物語は無い」と言ったのだ。
そして、インタビューを通して、その真意と、物語が無いからこそ実現した「しょぼい起業」の可能性を、私は知ることとなった。
前置きが長くなってしまったが、これはその、ストーリーの無い男の物語。
◆お店の特徴
阪急稲野駅から徒歩3分。レトロで懐かしい街並みを抜けたところにそのお店はある。
中嶋さん曰く『ヨーロッパのその辺の風景』にあるような雰囲気ということだ。ヨーロッパの具体的にどこの場所なのか?は、どこでもいい。
例えばこのミネストローネなどは、この時期一番のヨーロッパポイント高めのメニューなのだそうだ。良く煮込まれた野菜本来の甘味とスパイスで、体の芯からあたたまる。
また、夏に来た時に私がよく注文していたのがスードルチェという、わらび餅をドリンクにしたという画期的なスイーツで、これがまた新感覚で美味しい。
我が家の娘は家に帰っても尚「今日食べたやつ美味しかったなあ……」と、うわごとのように呟き続けていた、幅広い世代に人気の一品。
年中通してファンが多いのはこちらの黒米の薬膳テイストカレー。これを目当てで店に通う常連さんも大勢いる。カレーは兵庫県川西市にある「ケプリ」のカレーを使ってアレンジしている。
シナノの看板商品は、なんと言ってもシナモンロールであろう。
シナモンロールと一言に言っても、パンが柔らかすぎたり、酷いものはシナモンの香りさえしないようなものが市場にあふれかえっているのが現状だ。
そんななか、シナノのシナモンロールはドイツ系の生地をベースにした本格派である。シナモンロールだけで現在5種類(プレーン、キャラメルナッツ、コーヒー、チョコレート、アップル〈曜日限定〉)販売されている。
ハード系のパンは一般的には高価なものが多いが、シナノは高級路線ではない。あくまで値段は日常的に買える庶民派だ。
それでいて、原材料はこだわりの国産小麦を使っているという品質の高さが人気の秘密のひとつであろう。
中嶋さんは、一体どうやって高級な国産小麦を農家から直接仕入れるルートを得たのだろう?
◆早起きしないパン屋さん、起業までの道のり
中嶋さんは、パン屋を始める前は京都のイベント会社でサラリーマンを7年やっていた。そんなサラリーマン生活の傍ら、ある時食べた和歌山の蜜柑の味に感銘を受けたのだという。
袋に記された生産者にさっそく連絡を取り、紹介先で仕入れたみかんのネット通販をしてみたところ、それがなんと大成功!……だったのだが、やはり季節的な縛りのある果物だけで恒常的に商売を続けるのは難しいことだった。そして、それに気づいた時、中嶋さんはもう会社を辞めてしまっていたのだった。一時は、半年先の生活さえ危ぶまれる状況だったという。
ただ、みかんやドライフルーツの販売を通し、4年かけて全国の農家とのネットワークを築いた中嶋さん。果物や野菜、小麦など安くていい食材が手に入るようになったのを活かして、ネットではなく実店舗の商売をしたいと思い、検討を始めたのが低コストでのパン屋起業だったのだ。これは当時知り合った久木田さんが経営していたカレー店ケプリを間近に見ていたことが大きく影響した。
また、中嶋さんは朝起きるのが苦手で、働く時間は自分で決めたかったので、あえて「朝早くないパン屋」という、無理をしないスタイルを構築し2019年5月に開業した。
中嶋さんの開店までの道のりの詳細は現在発売中の『しょぼい起業でいきていく・持続発展編』に掲載されているのでぜひご覧ください
◆「店は町の表情であり、機能である」
起業して気付いたことはありますか、ときいてみたら「案外売れるんだなって、思いました」と答えてくれた。とても頼もしく、素直な感想だなと思った。
「それから、狙っていたわけではないのだけど、店を中心にコミュニティが出来始めました」という話をしてくれた。
シナノには毎日様々なお客様が訪れる。
シナノが好きで最近店の近くに引っ越してきた男性。ファストフード店の疲れた店長さん。毎週金曜日現れる朗らかな女性。ある時は、家出してきた女の子が居場所を求めて現れたこともあった。アシスタントのあかりさんは、初めはお客さんとしてお店を訪れ、今はキッチンでオーナーを手伝っている。
この、お客さんたちと中嶋さんが作る空気というのは、一朝一夕で出来上がるものではない。
「店は町の表情であり、機能であると思うから、狙っているわけではないけれどそういう人との繋がりができたのはとても良かった」そう中嶋さんは言った。
◆めざせジャムおじさん
現在の取り組みと今後の展望を聞いてみた。
現在は、中嶋さんのようにゆるやかに起業した人達が、シナノのパンを使って5店舗が商売を営んでいる。
例えば大阪の中崎町で國屋シナノバングラデシュサンドウィッチを経営するヤスさんは、もともとはシナノの寡黙なお客さんだった。それが、お店に通ううちに自転車での宅配を手伝うようになり、その後パンに魅了され自らも店を持つまでに至った。
中嶋さん自身の今後の目標は、一言でいえば「ジャムおじさん」なのだそうだ。つまり、シナノをパン工場のようにする。お店をやめる、という意味ではなく、シナノで作ったパンを使って、起業したい人のサポートができれば、ということである。
◆物語が無いひとの「起業物語」
最後に、冒頭の話に戻る。
中嶋さんは、自分には、物語が無いと言った。そしてそれは、話を聞いてみると、決して自虐やマイナスの意味でないということがわかった。
「いまの世の中って、ストーリーや解釈に溢れてますよね。それが嫌で。」
私はこの言葉を聞いて、なるほどと納得したのだった。つまり、しょぼい起業とは、ドラマがなくても、いきなり始められるのである。中嶋さんは続けてこう言う。
「年をとるにつれて、経歴がなくては出来ないことが、どんどん増えていくんです。でも、自分に何もなくても今あるもので始められる、それがしょぼい起業の最大の利点なのではないかな」
中嶋さんの物語は、何も無い、わけではない。唐突に、始まったのだ。そしてそのストーリーは、これからも続く。ずっと。
取材・編集:子持ちししゃも
◆前回の記事はこちら
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