見出し画像

雑誌は返り咲くと思う。

僕が出るたびに欠かさずに買っている雑誌は「週刊少年ジャンプ」だけである。「ジャンプ」を買う理由はただひとつ、「全部読む」からである。

しかし、僕はよく「全部読まない(であろう)」雑誌も買う。

今日もそうだ。知り合いが書いているという、1つの記事を見るために書店に立ち寄った僕は、立ち読みで終わらせずに、後ろの方から綺麗なのをごそごそ掘り出して、レジに向かっていた。

ということで、
雑誌に対する僕の羨望のというか、美の感覚というか、思いの丈を綴る。

まず、機能的な話。
雑誌や新聞は物事を「俯瞰的」に知らせることが得意な媒体である。見ようと思っていなかった情報まで手に入るのが良さであり、ソレは現代人が失っているモノであろう。

僕が雑誌を買うとき、それは大抵「衝動買い」だ。

ひとつの記事、ジャケット、見出し、そういう雑誌全体からみて一部だけに惹かれ、買う。

たった1つでいいのである。1つに惹かれることができれば、あとは出会いが待っている。動かない、「印刷」という形で僕の手元に存在し続ける。だから、いつでも好きな時に、自分が知らない世界と、「俯瞰的」に対峙することができる。雑誌ともなれば専門性も自然と高くなるので、ある程度記事と自身の距離感がある。

広く浅く「趣味の領域」を知る、それに関して雑誌の右にでる者はいないのではないだろうか。


また、僕は雑誌の質量というか、物質的な大きさにうっとりする。
雑誌にこそ、紙である良さがあると僕は思っている。

例えば、家具屋さんで、ベッドの展示にさりげなく雑誌が置いてあるだろう。
想像できただろうか。

そう、描いた通り。
そういうことだ。雑誌の持つ存在感はすごい。光沢にうっとりする。

将来、雑誌を部屋のインテリアの一部として配置するのは、僕の中での決定事項である。


(圧倒的にうっとりした、あいみょん表紙の「CUT」。雑誌自体どころかあいみょんさえまともに知らないのに、買った。)


ただ、雑誌というものは非常にハイリスクローリターンだなと、つくづく思う。

言い換えれば、初心者に厳しい。

1つの記事のために買う、それは金遣いが荒い僕だからできることであって、大抵立ち読みか図書館かで済ませてしまうことが多いのではないだろうか。

1つの記事にやっと興味を持っても、その雑誌に「慣れる」までには随分と月日を要する。慣れる必要がないのであれば、また、単発で魅力的なものをドカンと用意しなければならない。雑誌において、連載と単発の塩梅が非常に難しいであろう。戦略を立てている方に素直に脱帽である。

そのような悩みに漬け込んだのが、昨今の定額読み放題サービスだろう。ニュースサイトと同じように、読みたい記事だけ読める。雑誌をまたいで色々な読みたい記事だけ読めるものだから、もう雑誌なんて買っていられないだろう。


なんか、またまとまりがない文になってしまった。

雑誌は、今まさに岐路に立たされていることだろう。決して廃れているわけではないだろうが、栄光は過去のものとなり、薄れている。

ただ、雑誌という媒体の良さは、やはりあるのだ。
僕の考えでいうと、「俯瞰」と「質量」。

しかし、面白いことに、このふたつは見事に時代と逆行している。
スマホという「近視」と「小型化」。

とても偉そうなことを言うが、雑誌は我慢の時期だろう。平成が煮詰まった頃に昭和に羨望の眼差しが向けられたように、雑誌もきっと返り咲く、気がする。


ただ、過去の栄光をそのまま取り戻すというわけには行かない気もする。昭和の車は決して平成の道を走らない。

なんというか、僕がいったインテリア的要素というか、でかいという「ダサさ」というかを武器にする、ブランド化的な方向にいくのではないかなとも、少し思ったり。


決して雑誌は廃れないでほしい。

もし携われるきっかけが僕に将来あれば、雑誌の復活に全力を注ぎたい。

本もっとたくさん読みたいな。買いたいな。