暇だからできること

一応、現在職を失った身分ではあるのだが、なぜか仕事をしていた時より一日中あくせく働いている。

今日はちょっと寝坊してしまったが8時前には起きて、洗濯物を干し、ご飯を食べて洗い物をし、昨日祖母に頼まれていた物置部屋の一角の整理に取り掛かる。何年開けずに放置されているのか最早誰にもわからない箱が、四畳半に山と積まれていた。これでも、祖母が病気になる前はダンボールのグランドキャニオンだったのが少しずつマシにはなってきてはいるのだ。まだ手付かずの開かずのクローゼットが恐ろしい。

今日発掘されたものの一つが、祖母が、伯母や母がまだ小さい頃に買ったという古い毛糸たち・・・それも糸輪の状態のもの。昔はこの糸輪を1人が両腕に通してピンとはり、もう1人がひたすら巻き取って玉巻にしたらしい。「おー、小さい頃、よぉお袋の手伝いでやらされたわ」と祖父が近寄ってきたので、「じゃあ一個作ってみたい」とお願いをした。
「やめなさいよね、そんな時間かかること…」と傍で祖母がぼやいていたが、始めてみたらなんだかんだでじっと観察して楽しげだった。
「うちの母もなんでもやってたのよねぇ、和裁から洋裁から…」とか「わしは末っ子だったからのぉ、よぉ色んな手伝いに駆り出されたわ」「私も母によく頼まれたわ。今思えば大したことないんだけど、めんどくさいのよねえ」「そうそう」
二人はそう呑気に会話していたが、次第に球体になる毛糸がしょっちゅう手から転がり落ちて、私はまあまあ必死だった。
やがて一つの可愛らしい球体が出来上がった。
小さい頃好きだった、絵本の『若草物語』で猫が毛糸玉を蹴飛ばして遊んでいる口絵があったのだが、まさにその鞠のような形。
昔手芸屋さんに母と一緒に行って、「どうして絵本と同じ形の毛糸玉は売ってないのかしら。転がして遊べないじゃない」と思ったのを思い出したが、そうかこういうことだったのかと納得した。子供の頃は、素朴なことでも疑問を持っていたんだなとしみじみする。

その後も用途不明の物体や着物の共布、製造日96年7月のグリセリン(未開封)、母の若い頃のお気に入りだったというワンピース(御多分にもれずボディコンシャスで肩周りがボリューミィ)などなど。
使わないものは容赦無くゴミ袋へほうり、使えそうなさらしや布やストールの発掘のたびに洗濯機を回し、合間にシンクと風呂場の掃除をして、片付けがひと段落したら埃っぽくなってしまった部屋に掃除機をかけ(我が家は祖父が細かい性格なので、四角いところは四角くはかなければならない)、そんなことをしていたらあっという間に一日が終わろうとしている。

つい先週までは、手持ち無沙汰な時はツイッターを開くのが日常だったのだが(データ使用量の内訳をみても突出している)、今日は一度も開かなかった。ラインがこようが返信するのをさっきまで忘れていたし、インスタに至っては開きもしない。
「ああ、SNSやるって、やれるって、暇なんだなぁ。暇だったんだなぁ」と思った。『暇である』状態の是非について話をしている訳ではない。


暇である、時間がある、というのはつまり自由である、ということだ。何をしてもいい。そこから生まれる豊かさがある。美術館に行くとか、本を読むとか、それこそ勉強・研究をするとか。SNSだっていいだろう。

そういう私も、「暇じゃなかったな今日は」と思ってはいたが、なんだかんだ望んでやっていたことなので、つまり自由な時間を自分の思うように使っていたんだな、と気づく。別に、嫌々やっていた訳ではなかったから。
結局、『自由』なんて存在しないのかもしれない。あるのは自分の選択だけだ。ただ、より生産的な方向に行動がシフトしていると、満足感と達成感を感じられるもの、らしい。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!