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NYでのコロナウイルスによる影響日記6

3/22(日)

とっくに外出禁止令が出ていると思っていたら、本日20時からとのことだった。

16時頃に外に出てみると、昨日までとは明らかに様子が違っていた。人の数が減っている。

公園にいる人々もだいぶ少なくなった。平日はこんなもんかもしれないが、日曜であることを考えると激減といっていいだろう。

スーパーでは紙製品に限らず商品全般の仕入れが遅れる旨の貼り紙があり、全体的に品薄気味。スパゲティはかなり売れていて(マカロニやショートパスタは大量にあった)、スナック菓子もだいぶ減っていた。中でも品薄なのが食パンで、人気の無さそうな(まずそうな)メーカーのものだけが残っている。

しかし総じて「買うものが何もない」という状況とはいえず、物的な不安はあまりない。

コロナで顕在化した自己責任論の欠陥と、公共心の重要性

帰宅して、こういう記事を読んだ。この人の書く他の記事は賛同しかねることも多くてけっこう身構えて読んだのだが、今回は腑に落ちた。

日本の医療・福祉業界の課題や成熟社会の虚構性にまで話が広がっているけど、コロナに絞って要約すると、こんな感じ。

コロナウイルスの厄介なのは、ミクロ(個人レベル)では風邪程度で致死率も低く大した問題じゃないが、マクロ(集団レベル)で見た場合、感染者たちの受け皿となる医療現場は隔離措置やら感染予防措置やら何やらかんやら、とにかく作業量が膨大でリソースが追いつかず感染が止められないことである。
この状況はマンガ「ゴブリンスレイヤー」に通じるものがある。ゴブリンは単体だと弱いが、群れになると強く村を滅ぼすこともある。そんな世界で主人公が淡々とゴブリンを狩る、という設定のお話だ。
同じようにコロナも、一人ひとりが草の根的に努力して打ち勝っていくしかない。

コロナは感染するので、ゴブリンよりもゾンビのほうが適切かもしれない。まあどっちでもいいけど。

で、長引く自粛に疲れた人々の中には「人の多い場所に出かけて自分が感染しても、それは自己責任だからいいっしょ。どうせ風邪程度なんだもん」って考える人も多いのではと思う。

確かにミクロで考えればそれでいいし、自分に限って自己責任を貫くのは悪くない。けれど、マクロで考えたら話はぜんぜん違ってくる。

自分が感染したら、今度は自分が感染させる側になる。けれど彼らの論理は「感染するような場所に出かけてくるほうが悪い。感染しても、そいつの自己責任っしょ」となる。

これは明確に間違った考え方だ。人には固有の事情がある。自己責任という言葉の範疇でまとめられるほど、人の行動のバックグラウンドはシンプルではない。仮に、同じように自己責任だと思っている人だとしても、感染させてよいわけではない。

なのにこういう考えが跋扈しているのは、まさに政府が経済政策を中心として自己責任の風土を醸成し続けてきた賜物だと思う。今この瞬間も政府は「自粛を」と呼びかけながら禁止も補償もせず、すべてを各々の自己責任に委ねようとしている。

そんな悲惨な状況の中で「草の根の民の努力」によってコロナウイルスに打ち勝つ未来を実現するためには、自己責任で押し通される個人の都合を超越する何かが必要だと思う。

それが、公共心というものじゃないだろうか。

公共心によって人は「おれ自身は移っても大丈夫だけど、広めちゃいけないもんな」という考えに至ることができる。

コロナウイルスは、自己責任論の欠陥を露わにした。公共心を取り戻さないことには、草の根の努力は広がらない。

このパンデミックから得られる教訓にひとつとして、自己責任論の限界と終焉が人々の心に刻まれることを願ってやまない。

ちなみに念のため断っておくと、自粛が生活に壊滅的な打撃を与えるために活動せざるを得ない人までひっくるめて公共心が無いと言いたいわけではない。そのへんは人によって異なる天秤があると思う。


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