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NYでのコロナウイルスによる影響日記10

3/28(土)

●やりたいことと、限られた時間
日本でサラリーマンをやっていた頃、日々の生活の中でいつも「時間が足りない」「時間があれば、これをやるのに」と思うことがたくさんあった。

私のメモには「やりたいことリスト」が残されており、このニューヨークでそれらすべてをやりきろう、という思いを抱いていた気がする。

けれど実際に持て余すほどの時間が落ちてくると、それを受け止める自分の器は思ってた以上に小さなもので、こぼれた時間はそのまま足元に落ち、二度と還らない。

今日は一日、雨の予報。

部屋でスマホをいじっていると、たまたま「やりたいことリスト」が発掘された。

リストの項目はいっぱいあって、確かにこの渡米後7ヶ月、それらを少しずつ消化してはいた。

けれど、初めて手をつけてから継続的にやっていることはあまり無い。時間はこんなにあるのにね。

私にとって、やりたかったことの多くは「時間があってもやらないこと」だったらしい。一度やったら満足した、と言いかえてもいいかもしれない。

●「選択と集中」の意味
ということで、時間があってもやらないことを自分の中の選択肢から切り離していく。

いったん切り離すと二度とその世界を見ることができなくなるんじゃないかという不安が出てくるけど、現実にはちょっとかじっただけで見えてくるほど浅い世界はどこにもなかった。これは当たり前のようでいて、けれど実際やってみたからこそ深く実感が持てた。

「選択と集中」っていう言葉をよく耳にするけど、今まで意味を見誤っていたかもしれない。選択して集中するとその分野しか見えなくなって、他分野とのクロスオーバーがなくなり偏った頑固人間になるのではと思っていた。

けれど、多分それは間違っていた気がする。ある分野を選択したあと、それを集中して掘り下げる過程で他分野の知見を取り入れていくことが求められるから。たとえばヒップホップを追求しようとしたらどうしたってファンクやソウル、ジャズなんかも掘っていかないと前に進めなくなる。

仮に選択をせずにいろんな方面にバーっと手を広げたとしても、それらをクロスオーバーさせられるレベルまで深めるのはかなり大変なことだ。「ヒップホップを追求しよう」とかの起点ナシで、いきなり手当たりしだいの音楽を聞いて理解していこうというのは、ちょっと何が何だかわからなくなるだろう。少なくとも自分には無理。

そうこうして選択という行為が進捗すると、ちょっとだけ自分が研ぎ澄まされた気分になる。

私の場合は選択肢を絞っていくために、やっただけで満足するとわかっていてもとりあえずやってみる必要があったらしい。

結果「やりたいこと」が「やりたいけど時間があってもやらないこと」だと暴かれてしまったので、実態に沿ってメモのタイトルを変えた。

このメモの項目は、多分このロックダウン期間の中でほぼ消化できるだろう。そうなると選択は完了しているので、あとは集中するだけということになる。

帰国する頃には「ニューヨーク行くと自分が洗練されるよ!」なんて間抜けな台詞をマジで言うような人になっているかもしれない。

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