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笑顔で終わりを迎えるために

ばあちゃんが亡くなってから1年以上が経った。
ばあちゃんの家には叔母が住んでいる。その家は、今年の10月に取り壊されることが決まった。

先日、家の大片付けに兄と弟と一緒に派遣された。兄弟3人そろっての共同作業は久しぶりでわくわくした。

おばあちゃんの家は、とても大きい。じいちゃんの趣味部屋は、照明がお洒落で居心地がいい。ばあちゃんが大切に手入れしていた庭も毎年きれいな花を咲かせる。小さい頃から、落ち着ける大好きな場所だった。

そんな落ち着ける大好きな場所から、思い出を捨てていく。
中には、小さい頃たくさん遊んだブロックやおもちゃがあった。懐かしく手を止めてしまう。じいちゃんとばあちゃんにプレゼントした絵や手作りの小物入れなんかもあった。

他にも、初めて見るじいちゃんとばあちゃんの若いときの写真。じいちゃんの服。ばあちゃんの服。ばあちゃんの趣味の花瓶と壺。お祝いでいただいたであろうシーツやタオル。大量の紙袋、、、待って、物多すぎ!笑

ばあちゃん、物捨てたことある?

終活というものを一切やっていなかったのだろう。ありとあらゆるスペースにぎっしり物がある。住んでいる人数に比べて、収納ボックスやタンスが充実している理由がよくわかった。

これはさすがに、ばあちゃんの遺影に向かって愚痴らせてもらった。ばあちゃんに物の捨て方を教えたかった。まあ今回の片付けで物を捨てられないという意外な一面を見られたからそれはそれでよかった。

丸2日間片付けをした。家はかなり軽くなった気がするのだが、まだ少し残ってしまった。私は、これで撤収する。この日が、ばあちゃんの家最後になる予定だ。本当にこれが最後なのか。未だに実感がわかない。ずっとあるのではないかと思ってしまう。

でも今度訪れたとき、家はない。

ばあちゃんの家までの道。安心と期待を抱いて通った先に、もうあの家はない。あるはずのばあちゃんの家がない景色は、未だかつて経験したことがない。きっとそのときに実感するのだろうな。大丈夫だろうか。

なあに、もうばあちゃんがいなくなる以上悲しむことはないだろう。

じいちゃんが亡くなって、ばあちゃんが亡くなって、あの家がなくなることになって初めて気が付いた。
楽しい日々、優しく見守ってくれた人と家、それらすべては有限だった。
限りあるものだったんだ。

ずっと在り続けることなんてない。必ず終わりがくる。

きっと今回の出来事は、終わりを悲しむためのものではない。

なんでもない日常や出来事、些細な幸せに対しての自分の関わり方、捉え方を考えるための出来事だったんだ。
これからは、終わりを意識してこうすればよかったって後悔しない選択と行動をしていこう。

ただ、本当に楽しい時間をありがとう!!
ばあちゃんとじいちゃんの孫でよかった。大好きだ。
家はなくても、墓参りには必ずいくよ。

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