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発信が怖い、できない理由を考えてみる。

7月末からスタートした第5期・京都ライター塾

講座では毎回、「ブログやTwitterなどで発信の練習をしましょう」と伝えているのだけど、なかなか行動に移せる人は少ない。

前回2回目の講座では、ブログは書けても「Twitterで発信するのは怖い」という意見が多数あったので、なぜ私はできているのか、改めて考えてみた。

Twitterで発信するとき私はどんな気持ちでいるのだろう、と。

発信が怖い理由

そもそも、なぜ発信が怖いかというと、恐れの理由は「人からどう思われるか分からないから怖い」なのかなと思う。

あんなこと書いて、馬鹿だな。
こんなこと思うなんて、大丈夫?

とかって思われたら、嫌だなぁ。もし炎上してしまって、大勢の人から攻撃されたら…怖い!みたいな。

「自分がどう評価されるか」ばかりに意識が向いてるから、萎縮してしまう。結果、発信できない。

どう評価されるか?ってことを意識してるってことは、評価されることを期待してるのかなと思います。

スゴイ人って思われたい。
文章上手だなって思われたい。
あの人、いいこと言うなぁと思われたい。

と無意識に思ってる。でも、できそうにないから、発信しない。

読まれることを信じる

では、なぜ私に怖さはないのかと言うと、たぶん何も期待していないから。自分にも期待していないし、読んでいる人にも期待していない。いいね!をもらえると確かにうれしいけど、ないなら「なかったな」で終わり。

じゃあ、なぜわざわざTwitterでつぶやくかっていうと、何となくつぶやいた言葉が、世界のどこかにいる誰かに届けばいいなという気持ちがあるから。

この広い世界のどこかに、一人くらいは共感してくれる人いるんじゃないかなぁって。いてくれたらうれしいなぁという気持ちで発信している。


まぁ最悪、誰一人として届かなくてもいいやって。だって私がそう思ったから、それをつぶやいただけ、みたいな感覚。

「いいね」が1つもつかないつぶやきなんて、ホント腐るほどある(今確認したら、私はこれまで2.5万ツイートしてるらしいから、自分が何をつぶやいたのかすら、定かではないくらいだし)

こういう感覚を、的確に表現してくれていたのが、「朝日新聞」名物・名文記者である近藤 康太郎さん。

この本の中で、こんな風に書かれていた。

文章は、信号のことだ。誰が読むのか分からない。手に取ってもらえるかさえ心もとない。しかし、だれかに伝わることを信じなければ、とても書いてなんぞいられない衝動。叫び。埋め込まれたシグナル。

空き瓶に手紙を詰めて、海に流す。流れつく先は、分からない。しかし読まれることを信じなければ、とても書けはしない。文章の本質は、そこにある。〜略〜 メッセージ・イン・ア・ボトル。

あぁ、これだなぁと思った。

私は、きっとだれかに届く!と頑なに信じているのかもしれない。だから書けるのかもしれない。

小さい頃かから本が好きだった。そこにある文章に何度も救われてきた。その度に「書いてくれてありがとう」「届けてくれてありがとう」と思った。だれかが届けてくれようとした言葉を、私自身たくさん受け取ってきた。拾い集めてきた。

だから、「必ず届く」という感覚があるのかもしれない。

矢印を外に向ける

Twitterでつぶやくとき、自分がどう評価されるかと不安な人って、矢印が自分に向いてる(内側に向いている)んじゃないかなと思う。

そうじゃなくて、矢印は外に向いているべき。

私の矢印は、書くことに興味がある人、京都が好きな人、子育てしてる人、フリーランスで働くことに興味がある人、オザケンが好きな人、最近はBTSが好きな人に向いている。

こういう人たちの方を向いているので、自分がどう思われるかなっていう不安がない。自分の方ばっかり見てると、見失うものがある。

例えるならば。

友だちに会うために待ち合わせの駅に着いたとする。そこは大きなステーションで大勢の人が歩いている。いろんな人が行き交っている。オシャレな人がたくさんいる。オシャレじゃない人もいる。その中にいて「私の着てる服大丈夫かな」「今日の髪型、失敗してないかな」とか心配になるのは、自分のことしか考えてないから(自分に矢印が向いている)。

そうじゃなく、駅に着いたとき目を向けるべきは、自分の格好とか自分の髪型じゃなく「友だちはどこにいるかな?」だ。

自分じゃない。

っていうか、広い駅で、大勢の人が行き交う場所で、誰もが行くべき場所があって歩みを進めている中、誰もあなたを見ていない。もし見てる人がいるとしたら、友だちくらいだ。その人に向かって手を振ればいいだけ。自分のことばかり考えて、服を直したり、鏡を見てたりしたら、友だちすら見つけられない。

みたいな感覚。

矢印を外に向ける、ということ。

人は勝手に決めつける

で、オシャレな人がいる、オシャレじゃない人もいると書いたけど、オシャレの基準は人によって違う。当たり前だけど。私が完ぺきに「今日の服、可愛い、これがオシャレ!」と思って着た服を、小学生の娘は全然可愛くないと言ったりする。

それはコントロールできない。し、可愛くないと思うかどうかはその人の勝手だ。

以前、こんなことがあった。

家族ぐるみで付き合うほど仲のいい親友。大人になってから仲よくなったので学生時代の私を知らない。で、あるときこう言われた。「エズ(私のこと)って、運動神経いいんだね〜」。

私は話すスピードが遅くて、動作もゆっくりだから、ずっとのろくてとろくて、運動神経も悪いだろうなと思っていたそうだ。ひどい…(笑)

また別のとき、娘の保育園の先生に「お母さんも運動神経がいいんですよね?」と聞かれた。娘がクラスで一番かけっこが速くて、お母さんも絶対速いだろうと思ったとのことで、そんな質問をされた。

なにをもってして運動神経がいいと言うのか分からないけど、私の運動神経は、小・中学校とクラス代表のリレー選手に選ばれるくらいではあった。高校生のときは新体操部の部長もした。大人になってからはスノボをしたり、割とアクティブに動く。

でも、10年来の親友は「私のことを運動神経が悪い人」と思い、数年しか付き合いのない保育園の先生は「私のことを運動神経がいい人」と思っていた。

どちらも同じ私なのに、ぜんぜん人物像が違う。

そんなことがあって「あぁ、なんかもう人って、そうやって勝手に自分の好きなように思い込むんだなぁ」って思った。

10年付き合いのある親友ですら、こうなのだから。私のことを知らない人がどう思うかなんて、もはやコントロールできない。

つまりは。

どんな自分でいても、いいという人ともいるし、悪いと言う人もいる。何を書いても、文句を言う人はいるし、褒め称える人もいると言うことだ。

だって、私がいまや神!と崇めるBTSですら、夫にはその魅力が1ミリも分からないと言うのだから。

ならば。

もう「そのまま自分でいる」しかないなって思った。

海に投げこんだボトルを受け取ってもらえるかどうかは分からない。読んでもらえるかも分からない。読んで「いいな」って思ってもらえるかも分からない。

もうコントロールできない部分をコントロールしようなんて、そもそも無理なのだから。

でも、ただ届くことを信じてボトルを海へ投げ込んでみる。

投げ続けていると、いつかだれかが拾ってくれるかもしれない。もしかしたら、書いたことに共感してくれる人が中にはいて、興味を持ってもらえたり、応援してもらえたり。

するんじゃないかなぁって思う。

私は日々そんな気持ちで発信してる。

メルマガもそんな気持ちで書いている。

今で400人以上登録してくれているけど、毎回全部開封されているわけではない。多くて4割くらい。それでも届け続けていると、興味を持ってくれて、ライティング講座を受けてくれたり、京都ライター塾に来てくれたり、オンラインサロンに入ってくれたりする人がいる。

まずはメッセージを書いてボトルに詰めて海へ。

投げ込んでみることからかなと思う。




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