見出し画像

ダイバーシティのこと:「英語の脱植民地化」と「男性の文脈」「女性の文脈」を重ねて考えてみる

これは働く女性からよく聞く話…

私はそこそこ大きな企業で働いている。ここは、上司も同僚もいい人でセクハラもない働きやすい職場。今回の提案は、同僚の女性だけでなく女性の先輩にも受けがいい。自信をもって提案しよう。

あれ?上司にはピンとこなかったよう。私の提案の仕方が悪かったんだろうか。男性に伝えるためには工夫がいるんだな。女性の先輩が言っていたように、数字で補強する資料をもっと用意しておけば良かったな、反省…。

半年後

あれ? 彼の提案、私が以前に出したものと似ているよね。先輩が私も同じ提案していたとフォローしてくれたけど、でもなんか納得いかない。学生時代はこんなことなかったのに。今まで、自分の能力不足かと思って自己研鑽に励んできたけど、これって一体何なんだろう?


「男性の文脈」と「女性の文脈」


私は、イギリスの大学院でソーシャルジャスティス(以降、社会正義)を学ぶようになって、「英語の植民地化」という概念を知りました。女子学生のリーダーシップ、野心に興味を持って研究していることから、最近「女性らしさ」や「性別役割規範」が社会や企業与えている影響について、お話しさせていただく機会が何度かありました。

その中で、社会や組織は「男性の文脈」で回っていること、「女性の文脈」は、マイノリティであり周縁であるということを説明しています。例えば、仕事をする上で女性は「男性の文脈」に合わせなくてはいけないということ、男性以上に「扉を開ける努力」をしなくてはいけない、ということなどです。このことについて、先行研究や私がインタビューで拾った声をそのまま伝えると、男性から反射的な反応(感情的な拒絶反応、反感)が返ってくることが何度かあったので、少しでも合理的に理解して、感情的にも受け入れてもらうために、「英語の植民地化」の例を出して説明するようにしています。(*女性であっても「男性の文脈」を内在化している場合は反射的な反応につながりやすい)


「英語の植民地化」とは


「英語の植民地化」というフレーズは聞きなれないかもしれませんが、世界のダイバーシティと社会正義の流れを理解するためにも知っておくと良いものの見方の一例だと私は考えています。例えば、PCのキーボードの並びは英語をタイプするのに有利な並びです。コンピューター言語も英語がベースですし、ビジネスでも学問でも英語で世界が回っています。英語を使いこなし、英語で伝えられなければその人はその分野に存在していないことにすらなりかねないくらいです。グローバル化に伴って世界の多様な言語が使われるようになったわけではなく、英語一強、英語の支配で世界が回っているかのようになっています。これが「英語の植民地化」です。

悔しいけれど、どんなに日本語の運用能力が高くても、世界で存在感を示したければ、英語を自在に使えなくてはならないのがこの21世紀。でも、英語が母語の人は英語を使いこなすための努力する必要はありませし、彼らの多くは、日本語母語の人がこんなに「不利」(不公平)な状況にいるとは気づきもしません。これは、男性が女性が不利な状況にあることに気づきにくいのと同じ原理です。このマイノリティの不利に気づかない側の人は「特権的な立場」にいるとも言えます。

では、英語に苦労している人に対して、「英語を話す親のところに生まれなかったんだから不利になってもしょうがない、それに英語ネイティブじゃなくても英語上手い人たくさんいるでしょ」とか、「英語が下手だからグローバルで活躍できないなんて甘えた思い込み。英語苦手でも活躍してる有名人だっているわけだし」というのが世界の潮流かと言えば、そうではなく、ダイバーシティと社会正義の観点から「英語の脱植民地化」という考え方で英語が考えられています。これを先程の「男性の文脈」に置き換えてみると次のようになります。

日本企業の管理職に女性が少ないことについて、「女性は子どもを産む性なんだから不利になってもしょうがない、それに女性でも子どもを産んで働き続ける人いるだってたくさんいるでしょ」とか、「男並みの長時間勤務が嫌だから管理職になりたくない(なれない)なんて甘えた思い込み。実際、長時間勤務して管理職になってる女性もいるんだし」というようなことを言っている人がいるとしたら、ダイバーシティと社会正義の観点から「脱男らしさ規範(男らしさの再構築)」を行う必要があるということでもあります。これについては前回記事の北欧の実例が役立ちそうです。


「英語の脱植民地化」の実践記事の紹介


今日は、英語を外国語として教える立場からの「英語の脱植民地化」についてアンバー・ブネルさんによる記事、「英語教室を脱植民地化する4つの方法」(EFL Magazine) がとても良かったので日本語にして紹介したいと思います。

「英語教室を脱植民地化する4つの方法」

現代社会において、英語が話せると職業上、学業上、有利であることは誰もが認めることでしょう。 しかし、英語教育という制度には、植民地主義や人種差別政策に深く根ざした暗い歴史があります。 大英帝国が英語を使って多くのインド人を抑圧した例や、アメリカ政府がネイティブアメリカンの子どもたちを英語しか使ってはいけないボーディングスクールに強制的に入れた例など、長い間、英語は世界中の他者を支配するための道具として押し付けられた言語でした。

アメリカでの「イングリッシュ・オンリー」運動(公的文書には英語だけを使うべきだ運動。ちなみに米国は公用語を定めていない国)や、多くの国で英語能力試験が社会経済的な格差を生んでいることからもわかるように、英語帝国主義はかつてのような強制はなくなったかもしれませんが、今でも世界で機能しています。では、英語教師として、英語をグローバル言語として確立した帝国主義的な力を認識し、そこから脱却するためにはどうすればよいのでしょうか。

1. 発音警察にならない、発音を細かく注意しない

私は以前、スピーキングテストの達成目標として「ネイティブスピーカーのような発音」という項目を設けていたことがあります。 これを「明瞭さ/理解しやすさ」に変更しました、これには、いくつかの理由があります。

まず、標準的な「ネイティブスピーカー」の発音というのは存在しません。イギリス英語とアメリカ英語では、同じ単語でも全く違う言い方をします(参考:tomato 米国ではトメィトゥ、英国ではトマト)。 また、アメリカのような一つの国でも、地域によって表現やアクセントが異なります。 私は、ミネソタ州発音で、アメリカ人から数え切れないほどからかわれたことがあります。 シンガポール、ジャマイカ、フィリピンなど、英語を公用語としている国はたくさんありますが、それぞれ全く違う発音をしています。 ガーナのような国も、独自のアレンジを加えて英語を変えています。

さらに重要なのは、そもそもなぜネイティブスピーカーのような発音を目指す必要があるのかということです。 言語学習者が第二言語のネイティブスピーカーと全く同じ発音をすることは、まずありえないでしょう。私は12年間日本語を勉強し、4年間ここに住み、職場でも家でも日本語を話していますが、日本人は私がネイティブスピーカーでないことを見抜きます。 アクセント(訛り)があるのは仕方がないことなのでしょうか。 私は、ネイティブスピーカーになることが最終目標ではないと思うようになりました。 その代わり、友人との深い会話であれ、病院で受診であれ、明確で効果的なコミュニケーションができるようになることに重点を置いています。 生徒にも同じ基準を課すことにしました。

2. 文化や言語の多様性を強調する

生徒たちにアメリカの祝日、たとえば感謝祭を紹介するときは、私が紹介する写真やストーリーは、あくまでも私の家族(アメリカ中西部の白人家庭)の祝日の過ごし方を代表するものであることを強調するようにしています。すべてのアメリカ人が感謝祭に七面鳥を食べるわけではありませんし、すべてのアメリカ人が感謝祭を祝うわけでもありません!私は、感謝祭という一つの祭りの中にあるさまざまな習慣の全体像を描くために、友人に自分の家族の伝統の写真と説明を送ってもらい、私のクラスで共有することがよくあります。そうすれば、日系アメリカ人の友人の感謝祭の寿司や、サルバドール人の友人のクリスマスのププサを見ることができるのです。

文化の多様性を強調することは、言語の多様性にもつながります。生徒が 「それ、英語ではどう言うの?」と「“私なら”こう言います 」と言ってから答えます。教育者として、私たちは自分たちの人種、階級、性別がどのように言語に影響を与えているかを意識し、「正しい英語」として決めつけることは避けなければなりません。

私はまた、英語は非ネイティブスピーカーがネイティブスピーカーとコミュニケーションするためのツールではないことを生徒に理解できるよう努めています。以前、日本の中学生と韓国の同僚の生徒とで、動画交換のプロジェクトを行ったことがあります。このプロジェクトを通じて、生徒たちは英語母語のアメリカ人やオーストラリア人だけでなく、事実上どの国の人とも英語を使ってコミュニケーションできることに気づきました。私たちは皆、英語が世界の共通語であるという意識をより強く持って、このプロジェクトを終えました。

3. 言語の教師がネイティブスピーカーである必要はない

英語のネイティブスピーカーだからといって、必ずしも良い英語教師になるとは限りません。日本語を話す人に「r」や「l」といった日本語にはない音を教えるときは、言語学の知識を生かして、舌をどこにどう動かせばその音が出るかを説明します。しかし、「r」や「l」の発音は、ネイティブスピーカーの私にとっては、これまでもずっと当たり前のことでした。でも、私の同僚である日本人は、これらの音の出し方を自分で練習して学んできました。そのため、日本人の学習者にアドバイスや指導をすることができるのです。同じように、日本語の定型動詞の活用も、私自身が苦労して身につけたものですから、日本人よりもうまく説明することができます。第二言語学習者の指導において、ノンネイティブの教師はネイティブスピーカーにはない豊富な知識を持っています。

しかしながら、ほとんどの英会話スクールや教育プログラムでは、いまだにネイティブスピーカーを優先的に採用しています。求人広告で「ネイティブスピーカー限定」、あるいはアメリカ、カナダなど特定の地域のネイティブスピーカーを募集しているのもよく見かけます。私はJETプログラムに参加したことがあり、アメリカのパスポートを持っていたおかげで、(当時は教員免許がなくても)高収入の英語教師の仕事に就くことができました。この経験には感謝していますし、日本の公立学校では良い教師になるために努力しました。しかし、ネイティブスピーカーには、ネイティブスピーカーであることを何よりも優先する言語や雇用などの慣行に反発する義務があると思うようになりました

4. 新しいリソースを探す

英語教室の脱植民地化は、終わりのないプロセスです。本やオンライン資料、周りの先生や生徒の意見などを通して、常に自分自身に挑戦し続けることが、教師としての責任です。私にとって最も助けになった本のひとつは、スハンチー・モタの『人種、帝国、英語教育』Suhanthie Motha’s Race, Empire, and English Language Teaching,で、英語の言語的帝国主義とそれが今日でも学校でどのように現れているかを深く掘り下げています。また、すべての生徒のアイデンティティをカリキュラムや授業に取り入れることに焦点を当てた、文化教育学の哲学や理論を探求をすることもお勧めします。

最後に、同僚や同僚、生徒から意見を聞くことです。教師が熱心に取り組んでいるカリキュラムや教育方法に対して、生徒が反発するのは難しいことです。 そこで、非公式な投票や匿名の感想文など、生徒が自分の考えを共有するための手段をたくさん用意しておきます。海外で英語を教える場合、自分の文化的な優先順位に反していると感じる教育方法や学問的目標に対して、反射的に拒否することは避けましょう。 判断を下す前に、現地の同僚や生徒がその状況についてどのように感じているかを真に理解するよう努めましょう。そして、自分の考えを変えることに寛容であること。私は今、日本で教え始めた当初は酷評していた日本の教育方法を受け入れていますが、それは地域の教育制度や生徒のニーズについてより深く知ることができたからです。

言語教育はこうあるべきという人種差別的、帝国主義的な考えを教室に植え付けない、安全な学びの場にするよう努力すれば、教師、生徒、コミュニティ全体が恩恵を受けるのです。英語は、世界中の驚くほど多様な人々によって使用される言語となりました。ぜひこの現実をよりよく反映した教室を作っていきましょう。

BY AMBER BUNNELL JANUARY & FEBRUARY 2022, OPINION09/02/2022

4 WAYS TO DECOLONIZE YOUR ENGLISH CLASSES


ネイティブ英語教師を「決定権持つ男性」に置き換える


英語教室の脱植民地化に関するこの記事の最後のまとめは、「男性の文脈」「女性の文脈」にも、他の不公平にも、当てはめて考えやすいと思います。たとえば、ネイティブ英語教師を「決定権持つ男性」に言い換えてみると以下のようになります。

最後に、女性の同僚部下からの意見を聞くことです。男性上司が熱心に取り組んでいる仕事の進め方対して、女性の部下が反発するのは難しいことです。 そこで、非公式な投票や匿名の聞き取り、社外カウンセラーなど、女性の部下が自分の考えを共有するための手段をたくさん用意しておきます。女性と議論する場合、今までの男性中心の慣習的な優先順位に反していると感じる進め方や目標に対して、反射的に拒否することは避けましょう。 判断を下す前に、女性の同僚や部下がその状況についてどのように感じているかを真に理解するよう努めましょう。そして、自分の考えを変えることに寛容であること。

女性社員、女性らしさはこうあるべきという女性差別的、男性中心的な考えを職場に植え付けない、安全な働く場にするよう努力すれば、男性、女性、そして企業全体が恩恵を受けるのです。


当事者として「考える」


いかがでしょうか? ダイバーシティと社会正義、不公平に関わる問題があった時に、「どんな文脈によって特権的な立場ができているのか」を考えてみることの大切さが分かります。そして、特権的な立場だと指摘されても、①反射的な反応をせず、②不利な立場の状況を真に理解するように特権を持っている当事者として努め、そして、③脱特権化に向けてできることを考え実践する。こういった積み重ねが、より良い世の中に変える力になりそうです。

政治、経済、技術、あらゆる分野で変化が多く、先行きが見えないような時代ではありますが、20世紀のように先進国だけが世界を支配していた頃と比べると、人間の考え方や倫理観は進化していて、こういう人間の善良さに希望を感じます。誰かが答えを教えてくれるようなマニュアル的なものは思考停止を招くだけ。こういったものからは距離をとり、身近な事柄に気づき、当事者として謙虚に向き合い「考える」ことが大事なのだろうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?