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【概説】「ギリシャ文明」について



〈目次〉
1.ギリシャ文明とは
2.古代ギリシャと、ギリシャ文明の歴史
(1)ギリシャ文明の始まり
(2)都市国家・ポリスの成立
3.ペルシア戦争の勃発と、ギリシャ文明の最盛期


1.ギリシャ文明とは

古代ギリシャ人が生み出した文明

ギリシャは、地中海の東部に位置しており、東南ヨーロッパにあるバルカン半島の南端にある(下地図参照)。エーゲ海イオニア海に接していて、小さな島が多いことから観光地としても有名です。


ギリシャ最大の島であるクレタ島を中心に、紀元前3000年頃に栄えたとされるのが「エーゲ文明」である。

エーゲ海を挟んで「小アジア」と接していたことから、ギリシャ文明は、アジアの影響を受けながら発展した。

エーゲ文明が起こってから紀元前ローマに支配されるまでの期間を、「古代ギリシャ時代」と呼ぶのが一般的である。

ただ、区分けには諸説あり、エーゲ文明の後に生まれた「ポリス社会」が成立してから滅びるまでを古代ギリシャと考える説もある。


2.古代ギリシャと、ギリシャ文明の歴史
古代ギリシャでは、エーゲ文明ポリスなど、さまざまな文明が栄えた。ギリシャ文明が生まれてから、ローマの支配下に置かれるまでの流れを見ていきたい。

(1)ギリシャ文明の始まり
紀元前の古代ギリシャに起こったとされる、最も古い文明を「エーゲ文明」と呼ぶ。初期のエーゲ文明は、エーゲ海の南部に位置するクレタ島で発展したため、「クレタ文明」と呼ばれるのが特徴です。

クレタ文明は、バルカン半島から南下してきた「アカイア人」によって、紀元前1400年頃に滅ぼされたとされている。その後、文明の中心はクレタ島から、ペロポネソス半島のミケーネへと移った。

出土した粘土板から、クレタ文明と次に栄えた「ミケーネ文明」では、異なる線文字が使われていたことが明らかになった。クレタ島に「クノッソス宮殿」があるように、ペロポネソス半島は「ミケーネ遺跡」の存在で知られている。

ミケーネ遺跡「獅子門」(ギリシャ・ペロポネソス半島)。紀元前1350年頃に造られたという獅子門など、ミケーネ・ティリンス遺跡の発掘調査をしたのは、トロイア遺跡を発見したシュリーマン。王墓の副葬品・黄金のマスクや財宝と、ホメロスが書き残した通りだった。


(2)都市国家・ポリスの成立
エーゲ文明が滅亡した後、ギリシャ各地に「ポリス」と呼ばれる都市国家が発展した。現在も都市の名前が残っている「アテネ」や、「スパルタ教育」で知られる「スパルタ」などが、代表的なポリスです。

紀元前800年頃になると、「ギリシャ民族」と呼ばれる人たちが、まとまって同じ場所に住むようになった。彼らは小さなポリスを形成して、貿易や工業などを行った。

アテネなどの大規模なポリスでは、富裕層が誕生し、貴族たちが中心となって政治を行いました。スパルタでは、自ら小麦などの穀物を育てていたため、貿易を必要としなかったそうです。


3.ペルシア戦争の勃発と、ギリシャ文明の最盛期
古代ギリシャでの代表的な戦争といえば、ペルシア帝国とポリス連合との間で起こった「ペルシア戦争」である。

現在のイランを中心としたペルシア帝国は、専制政治を行っており、アジアで強大な勢力を誇っていた。

ペルシア帝国の植民地であったイオニアの反乱をきっかけに、ペルシア戦争が始まった。ギリシャのポリスが、イオニアへを援助したことから、ペルシア帝国は報復としてギリシャ遠征を行った。

50年にわたって4度の戦いを繰り広げたポリス連合は、ペルシア帝国に勝利した。専制政治を行うペルシア帝国に勝利したこともあり、ギリシャの民主的な政治は、この時期にピークをむかえたのである。

アテネの中心部アクロポリスに残るパルテノン神殿。アテネの守護神女神アテナを祀る神殿で、ペルシア戦争の勝利後、ペリクレスの命により整えられた。ドーリア式建築の列柱や彫刻などギリシア文化の宝庫ともいえる遺産。


4.ポリスの衰退により、ギリシャがローマの支配下に

ポリスはペルシア戦争での勝利で最盛期をむかえたが、アテネでは、次第に民主政治が衰退していった。アテネでの混乱やポリス同士での対立などもあり、ポリスは勢いを失っていった。

紀元前338年には「カイロネイアの戦い」が起こり、ポリス連合は、ギリシャ北部の「マケドニア王国」に敗れた。

なお、ギリシャ全土を支配したマケドニアの「アレクサンドロス大王」は、東方への遠征を行ったことでも有名である。


参照元: 「HugKumu」Webサイト

以上

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