読書_660330

信田さよ子さん講演に行ってきた

#信田さよ子 先生の著書に出逢ったのは、もう16年も前のこと。なぜ手に取ったのか、すっかり忘れてしまったが、とても救われたことだけはよく覚えている。以来、ずっと何かと支えにしている方だ。
そんな信田先生の講演を聴く機会があったので、行ってきた。信田先生の講演を聴くのは、確か4年ぶりで、これで3回めだと思う。
長年、著書を読んできたので、信田先生のおっしゃることはいちいちうなずけることばかりなのに、行ってみると毎回、新たな発見や気づきが得られる。実際に会いに行くことの重みとは、こういうことなのだろう。
わたしは数年前より傾聴や #カウンセリング 、心理について、勉強してきた。そのためか、気づく視点がこれまでと異なっていたことも興味深かった。親との関係に悩む #クライエント に対して、「連絡とらなければいいんじゃないですか」とは言いません。クライエントとしては、「親のことを悪く言った」と思うものだから、というクライエントに対する姿勢にも、なるほどと感じたし。最後の質問タイムでも、質問者に寄り添いながら聴く姿勢に、ハッとした。もちろんジャッジメントするようなことはなく、ただ分からないことには質問し、分からないなら分からないと言い、できる範囲で情報を提供していた。そういった態度に、なんて信頼することができるのだろうか、と感動すら覚えた。

昨今はやりの #毒親 #毒母 という言葉はあまり好きではないようなことも話された。その人自身は、真面目に逞しく生きてきただけにすぎないから、と。
#アダルトチルドレン は親へのマイナス感情があるため、最初のアダルトチルドレンブームのときには数多く批判もされたという。ところが、毒親や毒母は、明らかに悪い親(母)がいる、という親の加害性にスポットを当てている。この「加害者がいるからわたしは被害者である」という論理であれば、世間一般的にも受け容れやすいということなのかもしれない。一方で、ただでさえ母親に対する圧力の強いこの国で、毒母にならないように、という圧力に繋がらないだろうか。もう充分頑張っている母親たちを、さらに追い詰めることになりはしないだろうか。
毒親や毒母と呼ばれる人たちだって、決して、悪気があってしたわけではないだろう。ケアに潜む支配性(#パターナリズム)を論理的に理解していようといなかろうと、「あなたのために」あれこれ世話をしてきた人たちを責めるのが正しいのだろうか? 責めたところで、何か解決するのか? 誰が幸せになるのか?
「自分もそうしてきたのではないか」と話す質問者に、過去にやってきたことと、これからやることは別の問題にしましょうと、信田さんは話していた。これまでよくやってきたなぁと思って、これからできることをしましょう、と。誰だって、加害者にもなれば、被害者にもなる。自らを毒親かもしれないと責任を感じている人にとって、これほど勇気づけられる言葉はないのではなかろうか。

少し前に、#NHK の #あさイチ に、#内田春菊 さんが出演されていた。最近はすっかり読む機会がなくなってしまったが、大好きな作家さんの一人だ。そこで春菊さんは、正しいと思うことは一人ひとり違うこともあるが、傷ついた人には謝ればいいと思う、というようなことをおっしゃっていた。
どちらが正しいかどうか、を争うこととは別に。傷ついた人に対してまず「傷つけてごめんなさい」と謝ることは、確かに両立するのだよね。それに、ただ「ごめんなさい」と言うだけでいいことなのに、言えない人のなんて多いことか。

アダルトチルドレン関連本を読む中で、何度も繰り返し「わたしもカウンセリングに行ったほうがいいのだろうか」と考えることがあった。そうしなかったのには、経済的な理由もあるが、誰かに話を聴いてもらわなくても答えは自分が知っていると感じていたことも大きいと思う。その一方で、とにかくアダルトチルドレンや依存症、共依存に関する本を読んできた。たくさん読んできたおかげで、その構図も分かるようになってきた。それでもまだときどき、「やはりカウンセリングが必要だろうか」と考えることはある。
信田先生は、被害者の回復とは加害者を糾弾し憎むことではないと話した。当事者に「自分のことを話してください」と言うと、できない。それが「どんな親なのか話してください」と言うと、いくらでも出てくる。どういう親だったか、ドローンのように高い(鳥の目の)の視点をもつことで、親より高いところに行くことができる。具体的には本を読むことがいい、と話され、わたしはとても勇気づけられて帰ってきた。

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