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コテンパンにやられても

ああ、もうダメだ。
そう思って、結構あっさり投げ出しちゃうものと、
コテンパンにやられて消沈しても、
数時間後にはまたのっそり起き上がって食らいつくものがあって。

普段は、この2つの違い、というか、境目のようなものを意識しないけど、
「もうダメだ」と思ってしばらく放置してみると、はっきりわかって面白い。

見切りをつけたものは、形や状況が変わっても、結局投げ出しちゃうし、
どれだけ打ちのめされても、諦めきれないものは、やっぱり諦めきれない。

書いて整理すること。予定、タスク、身の回りのあれこれを中心に。
最初は、そうやって、目に見えるものの整理から始めていった、わたしの「ノートや手帳とのお付き合い」は、だんだんと自分自身を知るツールとなり、そこから、さらにふかんして高低差を変えながら眺めるドローンのようにもなってきた。

自分自身が整えきれていない時、迷いの森にいた時は、毎日短い日記をつけていた。それも、なるべく感情を入れない日記を。一番頭も心もとっちらかり、声にならない思いが出口を探してパンパンに膨らんでいた時に、それを書き残すことはせずに、ただ、淡々と、短い行動日記をつけることで、「ちゃんと生活をしている、動けている」という記録の積み重ねに集中するようにした。

そうしているうちに、だんだんと、渦巻きになっていたドロドロやゾワゾワな感情に引っ張られることなく、紙の上の小さな、「ちゃんとできてる」に目がいくようになり、そこから、「できる」が増えていく喜びをたどるように、ひとつひとつ、低めの階段からのぼることができてきた。

その中で、覚えたことは、「できる無理はするけど、できない無理はしない」ということ。母の口癖でもある。「どうにかできるなら一生懸命やりなさい。でも、精一杯やってダメならそれはもう仕方ない。できない無理はしてもしょうがない」と。

この、できる・できないの見極めが、なかなかむずかしい。
でも、結局のところ、数時間経っても、数週間経っても、「どうにかしたい」と思って解決策を探してアクションを起こしているかどうか、というところなのかもしれない。それでも、ダメな場合もあるけれど、思わぬタイミングで、ふっと解決することもある。

1週間どうやっても開かなかった、山椒味噌の瓶詰めがゆるんだ今晩。
開かずの瓶が開いた夜、わたしはうれしくて、心底「諦めないでよかった!!」と思った。

食べ物に関しては、諦めが本当に悪い。至福の味を噛み締めています、今。



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