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あの日のベトナム~世界遺産ミーソン遺跡と果たせなかった約束

ベトナムには、遺跡がある。
東南アジア各国の名だたる世界遺産の陰で霞んでしまっているが、ベトナムにもミーソン遺跡(Thánh địa Mỹ Sơn)という世界文化遺産があるのだ。

ヒンドゥー教の神々が祀られていた

ミーソン遺跡は2世紀末頃~15世紀頃まで栄えたとされる、チャム族のチャンパ王国時代に建てられた。現在のホイアン~ダナン周辺を流れるトゥボン川流域を中心にチャム族の都市が築かれ、政治・経済・宗教の中心として栄えたと考えられている。その中でもミーソン遺跡は特に宗教の中心とされ、ヒンドゥー教の神々を祀る宗教彫刻や祭壇などが立ち並ぶ、ベトナム中部から南部へとまたがるチャンパ王国遺跡群の中で、唯一の世界文化遺産なのである。

なんとか形を保っている
破壊を免れた壁

ミーソン遺跡は、フランス統治下の1885年にフランス人探検家により発見された。1969年頃にはベトナム戦争で米軍の爆弾などが落とされ、残念なことにこの貴重な遺跡は甚大な被害を受けたが、のちにその文化的価値が認められ1999年にはユネスコ世界文化遺産に登録された。遺跡を巡ると砲弾を浴びた遺跡や、爆弾により地面に空いた大きな穴などが当時のまま残されている。

頭部は持ち去られたようだ
爆弾投下の後が生々しい

この貴重な文化遺産、各国の支援や援助を受け、修復・保護・観光推進事業が続けられているそうだが、調査する考古学者が少なく、まだまだ未解明なことが多い遺跡でもある。例えば、うねうねと続く美しいチャンパ文字はかつての公用語だったと考えられてはいるものの、それが一体どんな意味を持っているのかは解明されていない。未解明の文字で記された碑文は何を残そうとしていたのか。ロマンあふれる遺跡である。

遺跡を飲み込んでいく山々

そんな遺跡を巡る半日ツアーに参加した。
参加者は20~30人くらいだったと記憶している。ほとんどが欧米の観光客で、それぞれが2~3人のグループで参加しており、単独参加は自分だけだった。その中にヨーロッパから来たという母子がいた。母親は精神科医だという。5歳くらいだろうか、小さな息子さんとのふたり旅だと言っていた。何がきっかけで話すようになったのかは覚えていないが、遺跡の広大さにはしゃぐ少年を目で追いながらお母さんといろいろなことを話した。彼女は1か月ほどの旅行中にカメラを紛失したらしく、旅の間に撮影した愛息の写真を失ったと残念そうに言っていた。不憫に思い、遺跡を巡る間持参したカメラで彼女と男の子の写真を撮ってあげることにした。彼女はとても喜んでくれたし、母子とふざけながら撮影をするのは楽しかった。
そこから遺跡を巡り、船でホイアンへ戻る間じゅう二人に同行した。帰りのボートは非常に寒く、デッキで救命胴衣をきたままブルブルと震えていた。男の子が寒さのあまり真っ青になっており、母親が抱きしめるも一向に温まらない。首に巻いていたストールは外して男の子をぐるぐる巻きにしてあげると、すると少し暖かくなったのか顔色が戻り機嫌もよくなった。

ぐるぐる巻きの少年

本来は日没のホイアンを船から眺めるという風流なツアーだったのだが、とてものんびりできる気温ではなく、到着後は各自そそくさとボートを降りて解散した。
別れ際に彼女が名刺をくれた。そのアドレスに写真を送ってほしいというのだ。旅の途中であり、家に戻ってからも帰国までは過密スケジュールだったため、彼女に状況を説明して帰国後に写真を送るよと約束して別れた。

大事に保管していた彼女の名刺を失くしてしまった。
帰国後に確認した覚えはあるのだ。だが帰国後は報告会やら歓迎パーティなどであわただしく過ごしていた。そのうち約束が先延ばしになり、気づいたときには帰国から3か月が経っていた。いざ約束を果たそうと名刺を探したが、どこを探しても見つからない。
ガイドブック、手帳、パンフレットの隙間はもちろん、仕事の資料の間まで探した。探したが、見つからないのである。焦った。
その後も折に触れて何度となく名刺を探したが、ついに名刺は見つからなかった。
今日現在も、彼女との約束は果たせぬままだ。

今でもその時の写真を見るたびに、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
彼女は日本語を話さないのでこれを書いたところで彼女に届くとは思えないが、いつか彼女に写真を届けることができればいいなと思う。

少年はすっかり大きくなっただろう

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