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誰かの役に立つという考え方のニュアンス

いまは「誰かの役に立ちたい」と言う人が多いと思います。
僕が若い頃は、そう言うのはカッコ悪い、照れ臭い、という風に捉えていました。他人の前で「誰かの役に立ちたい」と言うのはちょっと勇気が必要だったかも?
うっかりそういうことを言うと「偽善」や「売名」だと言われかねない雰囲気がありました。

もちろん、本心でそう思うなら、それはとても素晴らしい考え方だと思います。

お役立ちブログ

ブログなどで「役に立つ内容」を書こうと思う人も多いと思いますが、なぜそう思うのでしょうか?

  1. 自分の性格として人の役に立たないと気持ちが悪い

  2. 役に立つことが社会人のあるべき姿だと考えている

  3. 自分だけで楽しまないで他人にも楽しんでもらえれば!

  4. 褒められたい

  5. 役に立ったことでリターンをもらいたい

ブログで、一生懸命「お役立ち」記事を書いている方がおられるのですが、楽しそうな方もいれば、本当はそんなこと書きたいと思っていないのでは?と感じる方もいます。

「ぶっちゃけお役立ちブログなんて書きたきゃねーよ」
「これはお金儲けの手段に過ぎないよ」

ということであれば、あんまり長続きはしないような気がしますね。

私心なかりしか

故 稲盛和夫氏の言葉で「動機善なりや、私心なかりしか」というものがあります。「動機は善意に基づいているか?私利私欲のためではないか?」という意味ですね。

男女の関係で言うと「下心はありませんか?」みたいなものです。

私利私欲というのは、最終的には社会に受け入れられないため、最大限に活動しても限界があるということなのです。

役に立ちたいは本心か?

前述の稲盛さんなどは・・人によって見方は異なると思いますが・・人の役に立ちたいというか、本心ではおそらく「人の面倒を見たい」「人の世話をしたい」と思われていたと察します。

会社の目的は事業の成功ではなく、あるいはもしかしたら顧客の利益のためでもなく、従業員の幸せであると考えておられたと察します。
従業員を養いたい。傾きかけた会社の従業員を救いたい。というのが彼の願いで、M&Aの目的はそれだったと思います。
老齢で日航の救済に入られた時も、そのような気持ちがあったのだろうと察します。

ビジネスの手法としての「役に立つ」

ブログで一生懸命、お役立ち記事を書いておられる方の、多くの動機はビジネスであろうと考えたりはしますね。
それは別に悪いことではないと思います。
生きる手段としてそれを選ばれたのだと思うから。

何もしなくても役に立つ

ただ、本来人間というのは一人ひとりに役割があり、自然にしていれば自動的に誰かの役に立つように出来ているという考え方もできます。
あえて無理をして役に立つネタを思いつき、好きでもないのにその方向へ突き進むようなことをしなくても、誰かの役に立てると思うのですね。

つまり、役に立つことを考え出す必要はなくて、自分の嗜好や性格や存在の、どの部分が役に立つのかを考え表現する方が良いのでは?ということなのです。
その方が、自分の在り方と社会の中での在り方を、一致させやすいと思うのですね。自分は自然にしていて、しかも社会の役に立てるなんて、最高だと思いませんか?

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