阪神淡路大震災の記憶
1995年1月17日は阪神淡路大震災が起きた日です。
僕はその時は西宮市の少し山沿いに住んでいて、幸い、家族も含めて無事でしたが、あれから27年だということで、久しぶりに記憶を紐解いてみたいと思います。
地震が起きたとき
その朝は就寝中で、ドーンという衝撃を感じて目が覚めました。
住んでいた賃貸マンションは県道沿いにあって、日頃は車やトラックが行き来する音によってまあまあうるさい部屋でした。なので最初は、トラックでも飛び込んで来たのか!??と思いました。
でも、なんか大きく揺れているのです。隣の部屋のワードローブの扉が開いたまま移動しているし、天井の照明も大きく揺れている。部屋の中に置いてあった観葉植物(ドラセナ)が倒れて鉢の土が床にこぼれていて・・
それで初めて地震だと知りました。
揺れが収まった頃に、静けさがやってきました。妙に静か。窓の外はまだ暗い感じです。近くに住む親は大丈夫かと思ってすぐに電話をかけたらつながりました。
とても寒かったです。電話を持つ手が震えて、声も震えて・・
親は大丈夫のようだけど、家の中がぐちゃぐちゃになっているようで、何がなんだか分からない様子でした。
少し明るくなってきて家の外に出てみると、道路には車の姿はありません。何も走ってこない。近所の人たちもどうしているのか、人影が見えません。
やっと何処かの夫婦らしき人が現れて、僕と同じように辺りをうかがっていました。見渡した範囲では、家が壊れているような様子はありませんでした。
ラジオをつけたか、テレビをつけたか覚えていないけど、和歌山あたりで震度3とかなんとか言っている。「えー?そんなことないよ。ものすごく大きいはず」
どこが震源なのか分からない。まさか淡路島だとは思っていないから、どこか離れた場所でものすごく巨大な地震が起きているのだろうと思っていました。
地震の概要を知って驚く
すっかり朝になった頃に、ようやく地震の概要が知らされるようになりました。淡路島北部が震源だということ。びっくりです。
それでテレビを見ていたら、阪神高速が倒れている光景が映し出されました。「こんなことあるの!??」という驚き。さらには街の何ヶ所かで火の手が上がり白い煙、黒い煙が出ているのです。
親の住まいに行ってみようと思って坂を降りて行くときに、遠くで煙のようなものが見えました。消防車か救急車のサイレンが聞こえてきます。いつものような車の往来が全くないので、本当に静かな町に遠くのサイレンだけが聞こえてくるのです。
もしかして、太平洋戦争の空襲っていうのはこんな感じだったのかな?と想像したりもしました。
部屋の中の状態
親の住まいは、部屋に入ると何もかもがひっくり返っており、廊下や部屋の床は落ちたもので埋まっていました。手前の部屋の入り口の引き戸が動かなくて中に入れない状態。
奥の部屋で寝ていた両親は、タンスが飛んだ!と言っていました。実際、洋服ダンスが倒れかけたのが他の家具に当たってお互い支え合って止まっているような状態。「下敷きにならなくて良かったね」という感じでした。
この辺りから記憶があいまい・・・
様子を見に行った
平日だったのですが、たぶん会社には行けないだろうと思い、駐車場に車を取りに行って、阪急電車の夙川駅まで様子を見に行こうとしました。途中で電柱が傾いていたり、電線が切れている(?)ような所や、地面が歪んでいる所、などがありやや走りにくいと思いながら、駅に近づくと、人々がぞろぞろ移動している光景を目にしました。
電車はどうやら動いていなさそう・・・
だんだん車も混んできて、一旦2号線に出てから戻ろうと思ったら渋滞で動けなくなりました。
結局、家に戻ってくるまで2、3時間はかかったような気がします。車で行くものではありませんね。
お店の食料品が無くなる
コンビニなどの食料品を売っているお店に買い物に行ったような気がするのですが、棚にある主だった品物は全て売り切れ。調味料ぐらいしか残っていませんでした。
それからの生活
どういう経緯だったかもう覚えていませんが、親が僕の家に泊まることになり、ガスが出ないところから生活が始まりました。うちの場合は、電気は割合すぐに復旧し、水道はちゃんと出ていたのが幸いでした。
ガスボンベなどを使って調理していたように思います。
通勤
阪急電鉄の神戸線が、高架が落ちたりして不通になっていたので、最初は、大阪にある会社までオートバイで通勤しました。
43号線を走ると、上の阪神高速が落ちている場所では迂回路を通ったり、反対車線を逆方向に走ったりしていました。障害物を縫って走る感覚です。
一週間か二週間か忘れたけれど(大阪)梅田〜西宮北口間が復旧してからは、西宮北口までオートバイで行き、そこから電車で通勤するようになりました。
最終的に神戸線が復旧するまで半年かかりましが、その間ずっとそんな通勤をしていました。記憶では西宮北口駅の南側の、住宅展示場か、芸術文化センターの辺りが当時、広い未舗装の駐輪場になっていて、そこにオートバイを停めて電車に乗り継いでいました。
もし、オートバイが無かったらどうしたでしょうね。通えたかな???
大阪の会社は、地震当日も特に大きな混乱もなく業務が行われていました。神戸方面から通っている人たちだけが不自由な状態。
僕は昼休みに近くの市場に行って、その日の食料を調達します。そんな毎日でした。
風呂
長いことガスが出ていなかったので、風呂に入れず、父は寒いのに水をかぶったりしていました。なぜでしょう。不思議ですね。
宝塚の某温泉が営業するようになったと聞いて、車で出かけたのですが、料金がバカ高くて、しかもお湯がちゃんと出なくて、備品も限られていて、汗臭いぬるま湯に浸かって我慢するというような状況でした。「もうこの温泉には来ない!!」
それで、会社に尼崎から来ている先輩がいて、その人から「尼崎では普通の銭湯はやってるよ」と聞き、行ってみると普通に営業しているのです。とくに皆が入りに来ている様子もなく、そこそこ空いていて、たっぷりの熱いお湯に浸かることができました。
それからずっと、そこの銭湯に週に一回、出かけて行ってはリフレッシュしていました。
精神的なもの
なんとなくその頃は、周りの人はみんな元気でした。気持ちが張っているせいもあったんでしょう。とてもポジティブでした。
ただ自分自身、寝ていると夢はよく見ました。時には街がネガフィルムのように見える夢をみたり。
少し余震があるとドキッとしたり、揺れてないのに揺れたような気がしてドキッとしたり、サイレンを聞くとドキッとしたり、そういうことはしばしばありましたが、何ヶ月かすると自然に収まっていきました。
パソコン通信
1995年と言えばWindows95が発表された年です。
その前あたりからノートパソコン(Dynabook)を手に入れて、MS-DOS 6.2V と Windows 3.1 を使っていました。
当時はパソコン通信というものがあって、モデムを使ってダイヤルアップでアクセスポイントに接続し、ニフティ・サーブなどプロバイダ専用のネットワークを使って通信をしていました。僕はMS-DOSの黒い画面で接続処理をして、西宮の情報にアクセスしながら、地震関連情報を見たりしていました。
自分自身、その恩恵が何かあったかというと、それほどでも無かったのですが、そういった手段を用いてコミュニティを作り、情報交換をしている人たちは確かにいました。その辺りから、草の根の活動のような初期の非商業的なネット社会が始まったように思います。
最後に
概ね、自分が思い出せるエピソードとしてはこんなところでしょうか。
ずいぶん昔の話だけれど、覚えている部分はハッキリと覚えていて、忘れている部分はスコーンと無くなっているなと改めて思いました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?