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結婚しても、出産しても、専業主婦でもワーママでも、私は私のままだった

20代後半、周りは結婚ラッシュだった。
結婚した友人の「両親へのスピーチ」を聞きながら、彼女達が一気に「大人」になった気がした。

随分と会っていない昔の友人に子供が産まれる、あるいはもう二人居るらしいなどと、人づてに耳にすれば、その友人がちょっと意地悪なことを言ってきたりしてきたある日なんかをそっと思い出して、でもその友人は今や母親であり、そんなことなんか覚えてもいないか、覚えていてもしっかりと「過去」の出来事なんだろうなと思ったりもした。

私が、そんな学生時代のあれこれに思いを馳せて、その日の悲しさや理不尽さを鮮やか過ぎる程心に映し出してしまうのも、私が学生時代から続いたままの人生を生きているからで、結婚したり、子育てしている友人のように「次のフェーズ」に進んでいれば、同じ「過去」も距離感が全く違うんだろうと。



けれど、その後自分も実際に結婚と出産を経て、気付く。「自分の基本的な気持ちや感じ方」は、結婚、出産、育児という人生の大きな変化にも、簡単には舵を渡さないということ。

勿論、出産、育児を通して、私自身が「強く」なっているという変化は感じる。究極の庇護の対象である「赤ちゃん」を昼夜を問わず、生かし続ける、守り抜かなければいけないという責任感と緊張感は、やっぱり母を無条件に強くさせると思う。


けれど、「私」は変わっていない。
感覚としては、小学5,6年生の頃に基本人格、基本的な感情形成の仕方が構築されていて、そのまま今に至るような。

経験や知識で、日々人は変わっていく。
はずなのに、確かに自分の中には変わらず在り続ける「私の感じ方」がある。


昔傷ついたことも、悲しかったことも、やっぱり思い出すと同じように悲しい。少しずつ、本当に少しずつ、その影響力は確かに薄まってはいるけれど。

名字が変わり、親になり、遠くもう曖昧になって、私以外誰にも思い出されないかも知れないある日の出来事たちを私の心だけが感情で覚えていることは、切ないけれど、「確かに曖昧になっている」という事実に助けられることもある。


独身の頃の、生まれ変わりたい、全部白紙にしてやり直したい日たちは、めちゃくちゃ美味しいケーキを食べた日や、ロマンチックなデートをした日、仕事で褒められた日なんかにちょこちょこ挟まれつつ、その時々の感情は私の心にちゃんと収まっていて、私の人生になっている。

息も絶え絶えに苦しみ、もがきながら出産した当初、こんなに大変なことを乗り越えたのだから、これから多少のことでは動揺しないだろうと思ったけれど、普通に昔の嫌な出来事を思い出して嫌な気持ちになることは今でもある。

どうしてこんなことを書こうかと思ったかというと、
もし同じように負の感情の玉手箱を沢山持ってしまっている方が居れば、それはあなただけではないし、こんな例も居ますと知ってもらいたかったから、

というのは後付けの理由で、私が私であり続けることで、相変わらず文章表現したくなったからなのです。

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