山を下りる覚悟はあるか? より高みを目指すために
どんな人でも、どんな組織でも、山の中にいるようなものだと良く思う。
山中にて思う
頂上にいれば見晴らしは良いかもしれない。中腹にいればさらに上を目指そうとするだろう。高い山、低い山、色々あるだろう。
山はいつも複雑だ。
遠くから見れば一つの雄大な姿も、近くによれば岩が転がり植物が絡まり獣が跋扈する。季節が変われば雪に覆われることもあるし、噴火して火炎にまみれることもある。どんな山も複雑な形を成す。
山は3次元だ。
2次元に書き起こされた組織の業績グラフとは裏腹に、積み重なる人の上に組織文化かぶさり財務が潤いをもたらし、プロダクトが生えそろい、隣の山と連なりながら、山は3次元の複雑な形を成す。
社会も組織も同じ山みたいなものだ。
簡単に数字にされて、二次元のグラフに起こされるけれど、そんなに簡単ではない。実際の社会はもっともっと複雑に三次元以上の形を成す。
高みに行ってしまった中国
中国の躍進すさまじい。キャッシュレスにシェアリングエコノミー、オンラインとオフラインを意識しない購買体験、データで管理される社会とスマホエコノミー。次々に開通する高速鉄道と、建築が始まるスマートシティ。
一方の日本は、悲しいかな、一昔前の文明に停滞中。町中からキャッシュ決済をなくすことすらできず、ライドシェアはできないし、スーパーで買った品が帰宅と同時に家に着くこともない。少子高齢化は加速し年金は不足するだろう。
昭和の終わり頃に、日本はある山の頂上にたどり着いた。高度経済成長というシェルパに導かれ、20世紀型の経済発展という山の頂にたどり着いた。そこからは尾根伝いに歩いてきているに過ぎない。政治も経済も高みを目指すものだから、山を下りるという選択肢はなく、ひたすら彷徨うしかない。
平成も20年を過ぎたころ、インターネットとモバイルコンピューティングというテクノロジーがハイパーコネクテッドな世界を急速にもたらした。そう、視界が急速に晴れたのだ。そうしたら、そこにはもっと高い山が聳え立っていた。それも、レベルの違うエベレストだ。
まだ地上にいた中国は真っ先にその山を目指した。より高みを目指すにはそうするのが合理的だからだ。一見急峻に見えた山肌も、テクノロジーを利用すれば攻略可能だった。
今、中国は我々より高みにいる。それを見て我々は、キャッシュレスで追いつこうとか、デジタル化を進めようとか、データ文明に転換しようとか模索する。
しかし、我々がいかに尾根伝いに高みに上がろうとしても、もしかすると我々が登ってきたこの山は、そもそもそこには通じていないのかもしれない。
組織には山を下りるという選択肢はない
社会も企業も同じだ。組織が画期的な新規事業を始めようとか、新しい時代のイノベーションを作ろうとか模索をする。それはあらゆるところで見られることだ。
しかし、組織がなぜ今その山の上にいるかというポイントを考えれば、現実的には組織には山を下りるという選択肢がないことが分かるだろう。山を下りるという事はここまで登ってくるのに必要だった人と組織と文化と仕組みと名声を捨て去ることだから。
組織がエベレストに上るために地上に降りることはない。唯一出来ることは尾根伝いにより高い山を探すことだが、大抵の場合、同じ山系には同じ程度の山しかないし、すでに誰かがもう登っている可能性が高い。
残念ながら、大企業の新事業施策は往々にして成功しない。大企業には山を下りるという選択肢がそもそもないからだ。別の高い山を登ろうという提案は、自己否定につながる。
日本の社会も同じなのだ。社会インフラが一度整ってしまったらそれを破壊するのは容易ではない。付け焼刃でキャッシュレスなどを進めても、それは尾根を抜けて対して変わらない隣の山に行くレベルで終わってしまう可能性が高い。
社会全体が自ら山を下りるという選択をすることはない。今まで組み立てた年金制度も社会インフラも破壊されてしまうだろう。そもそも基本的な人権や社会保障・安全保障ですら壊さなければいけなくなる。
それが分かればやり方はある
組織にとって山を下りるという選択肢はない。ないのだが、やり方はあると考える。それは明らかに、組織に対して文句を言い続ける事ではないはずだ。そして、組織が変われないという事を悲観してあきらめることでもない。
組織とはそういうものだと理解するのだ。そうすればやり方がある。
1.外圧を利用する
古くをさかのぼれば、黒船によって日本は地上に叩き落され、そこから別の山を登ったという経験がある。そこから日露戦争までに一つの山を登り征服したが、原爆と空襲でもう一度地上に叩き落されている。叩き落されるたびにより高い山を見つけ登ってきた。
そう、自分では地上に下りることはできないのだが、外圧によって叩き落されることは往々にして起こりうるのだ。叩き落されること自体は悲劇なのだが、そのあとはもう登るだけだ。
この外圧は戦争であり自然災害だったりする。小惑星の衝突が恐竜の時代を終わらせ哺乳類を進化させたように、組織は時に大きな外圧からの変化を必要とする。
2.斥候部隊は本体から切り離す
本気で新しいことをやろうとした場合、特に企業等では斥候部隊としての新事業部署を設立することがある。重要なのは、これらをスカンクワークス化することだ。(単純に新規事業と部署名がついていても、求められてるものが完全に新しい新規事業ではない場合もある)
なぜなら、この斥候部隊は山に滞在しようとする人たちとは別の原理で動く必要があるから。組織とは別行動をとって山を下りていく必要があるからだ。
もし、あなたがその役を買って出るならば、たとえ脱藩者扱いされても愛する組織の外に出ることが重要かもしれない。日本の憲法改正議論や沖縄問題並みに、中でいくら文句を言っていても何にも変わらないらだ。そうしてより高みに上った後に外圧として戻ってくるのがよいだろう。
3.地上にいる人たちに託す
自分で山を下りなくても、地上にいる仲間に別の山への登頂の夢を託すというやり方もある。企業においてはCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)戦略やベンチャーへの積極投資などがこれに当たるだろう。
エベレストを登るというのは誰にでもなしえることではない。だからこそ、資本という名の手綱の端をなるべく多くの登山者に渡し、それをもって上がっていってもらうのだ。うまく行った際にはその手綱をたどって逆に引き上げてもらう。
ただし、現状を見ていると、このCVC投資戦略が過度に業務シナジーや過去の成功体験の延長をもって判断されているのが残念だと思う。既存の山の考えでしか判断できていない。CVCにこそ必要なのはポートフォリオだ。一発必中はない。思い切って多くの人に資本という手綱を渡すポートフォリオ戦略こそが重要だ。
4.強烈な「想い」
強烈なリーダーシップは諸刃の剣ではあるが、山を下りてより高い山に登る際には絶対的に必要な物である。Goolge、Amazon、Mircrosoft、Alibaba、Tencentの様な企業が、思い切った手を打てるのは、創業者が残っており、創業者の強烈なリーダーシップがあることと同じだ。
創業者(創業家)は山を下りるという決断ができるのだ。なぜなら、自分で自分のケツを拭けるから。それが真の経営者という事だろう。今の日本の大企業に真の経営者がどれほどいるだろうか。
企業の中で新事業を担当していようと、起業家であろうと関係ない。この山を下りてより高い山を探す際には、他責のマインドを捨て、自分で自分の責任を取り、自らの強い「想い」に素直に動くことが必要であろう。
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