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一歩の大きさと踏み出した先の景色

「あなたの年でフランス語勉強してどうするの?」「英語とフランス語がしゃべれるって”特技”のあるお婆さんになりたいだけ?」とたまに言われる。とくに若者人口の多いこの国のDELF・DALFの受験者の中では私がダントツに年寄りだ。年取った頭では語学はなかなか上達しないし、仕事で使うまでのレベルにはまだまだ遠いし、第一英語ができれば十分な仕事の方が多いし、たとえフランス語ができるようになったとしても、この年だとフランス語を使う仕事どころか、仕事を探すのさえ難しい。それなのになぜ一歩を踏み出したのかと聞かれても、若い頃からの夢だったからバケットリストにいれた以外の理由がない。

「両親を亡くした60歳になる日本人女性が、フランス語で働いてみたいとう若い頃の夢を叶えたいと理由だけで、安定した仕事を捨てて飼い犬と一緒に一人でアフリカにやってくる」いくらなんでも踏み出す一歩が大きい気もする。かといって、踏み出した先には、特に何が特別なものがあるわけでもない。毎日のように、
1)「ああ、語学は若い時じゃないと本当にダメだ、もう無理だ、無理だ、、」という絶望感、2)「ちっとも上達しないけど(ほぼ)やりたい事だけやれてうれしい、職場の面倒な人間関係もないし」という解放感、3)「自分の選択は間違っていたのではないか、取り返しのつかない事をしてしまったのではないか」という後悔をともなう迷い、4)「(いつまでもフランス語だけやってるわけにもいかないし、先も長くないので)バケットリストに入っている他の夢に早く着手しないと」という焦り、そして、5)「これからの生活はどうするの?」という疑問と不安、なんかの感情を持て余しながら、以前と同じ日常を送っているだけで、まだ踏み出した先になにかを見つけたような気はしない。

偶然踏み出した先がアフリカだったから、大きな一歩だったような気もするし、踏み出した先になにかすごいことが見つかるような気もするが、そんなことはない。アフリカでも明石市でもまったく同じ事だと思う。(なぜ明石と書いたかというと、親友がいままで全人生を過ごした街から明石市に引越そうと考えていて、それはものすごく大きな一歩ですごく迷っているらしいから。)踏み出した先に凄いものがあるわけでもないのに、なぜ踏み出すかというと、踏み出したかったからというしかない。

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でも、この次の一歩を踏み出すには、今の一歩が必要だし、以前の場所にいたままでは見られない風景は、踏み出さない限りみられない。尾道に行くには明石を通らなきゃダメだし(土地勘ないのでよくわかりませんが、、、)、パリ行くにはまず成田(国際空港)に行かなきゃいけないけど、それには上野いって、で、スカイライナー乗るか、みたいな。次の次の一歩のためには次の一歩が必要で、、、そんな感じに踏み出しつづけたら気がついたらいつのまにか「面白いところに来ていた」となるんじゃないかなと、この年になっても思ってる。乞うご期待って、自分が期待してる。

トフ

ま、これも一歩踏み出したから会えたってことだよね。