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「自分がやりたいことをやる派」と「なりたい自分になる派」のタイプの違い

みなさん、自己啓発本はお好きですか。江草は大好きです。

こないだ、けんすうさんの『物語思考』を読みました。


「やりたいこと」が見つからなくて悩む人のために「なりたい自分になる方法」をマニュアル形式でStep by Stepで指南してくれる、まあThe自己啓発本です。

雑にまとめると、「自分はどうしたいのか」と問うのではなく「自分がなりたい理想のキャラだったならどうするだろう」と問うことで、自然と良い行動変容につながるみたいな話です。物語の主人公キャラ風なものを想定して考えるから「物語思考」なんですね。

「やりたいこと派」の妻には受けが悪かった

さて、江草的にとても面白かったので妻にも貸してオススメしてみたのです。

そうしたら「うーん。私的には合わなかった。なりたいキャラを想定するのは自分を偽ってるみたいで」とあまり受けが良くなかったのです。ありゃま。

実はそんな妻が普段から推しているのは『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』の八木仁平氏の方です。

なるほど、けんすうさんの『物語思考』が露骨に「やりたいことが見つからない人のため」と銘打ってるわけですから、「やりたいことを見つける」の八木氏が推しの妻にとっては合わないのも当然と言えば当然なのかもしれません。

人は「やりたいこと派」と「なりたい自分派」になぜ分かれるのか

実際、けんすうさんの『物語思考』と八木仁平氏の『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』は相反する内容なのではないか、とズバリけんすうさんに尋ねた人がいたみたいで(すごい勇者ですな)、けんすうさんはそれに答える記事を書いていらっしゃいます。

けんすうさんはさすがさるもので「八木氏の本は読んでないので何とも言えない」と華麗に衝突をかわしつつ、その上で「やりたいことを見つける」ではなく「なりたい状態を目指す」を推すご自身のスタンスをうまく説明されていました。

ここで江草自身の感覚を言うと、けんすうさんの「なりたい自分を目指そう」という考え方もなるほどと思いつつ、同時に八木氏の「やりたいことをやろう」という考え方も分かるんですよね。

しかし、ここまで見てきたように、人によって「やりたいこと派」と「なりたい自分派」に分かれてしまうこともあるようです。

これはいったいなぜかと江草は考えました。

「やりたいこと派」と「なりたい自分派」の違いを考えてみた

江草の仮説は、このどちらの考え方がしっくりくるかどうか自体が人それぞれのタイプ特性としてあるのではないかというものです。

つまり、もともと「やりたいこと」という考え方が合うタイプの人と、「なりたい自分」という考え方が合うタイプの人がいるんではないかと。

この違いを一言で言うと、最終的に自分の決断の主導権を握ってるのが「肌感覚」か「頭脳」かという点に集約されます。「センス」か「イメージ」かとも言い換えられます。

これだけだとよく分からないと思いますので、とりあえず手っ取り早く把握できるように、両者の特性の違いについて一覧にしてみました。

$$
\begin{array}{c:c}
やりたいこと派&なりたい自分派\\ \hline
身体&頭脳\\
センス&イメージ\\
マインドフルネス&マインドレスネス\\
瞑想&空想\\
S(感覚)&N(直観)\\
F(感情)&T(思考)\\
主観&客観\\
内部&外部\\
現実&フィクション\\
会話&テキスト\\
\end{array}
$$

MECEを意識してないのでそれぞれが独立しているというわけではなく、かぶってるところも多いのですが、どういう分類かをイメージしやすくなるよう思いつくままできるだけ多く挙げてみました。

順に進みながら詳細を解説していきます。

身体vs頭脳

ダンスをやっていたこともある妻(やりたいこと派)は身体を動かすのが好きで身体感覚にすぐれています。一方で、江草(なりたい自分派も理解)はわりと理屈っぽい頭でっかちな気質です(これまでのnote歴を見ていただければ明らかですよね)。

で、この対比のように、身体感覚が優位な人ほど「やりたいこと派」に合いやすく、頭で考えるのが優位な人ほど「なりたい自分派」に合いやすくなるんじゃないかというのが、江草の仮説になるわけです。

センスvsイメージ

この「センス」vs「イメージ」という対比も同様ですね。

自分の感覚(センス)が最終的に決めるのか(やりたいこと派)、自分のイメージが最終的に決めるのか(なりたい自分派)、最終決定権を握るのがどちらなのかで分かれるというわけです。

感覚ベースの「やりたいこと」

アンガーマネージメントをかじったことがある人はご存知と思うのですが、あのメソッドって、まず自分が「怒り」を感じた時に、自分の身体にどういう反応が起きるのかを観察することから始まります。

心拍があがったり、顔がカーッとなったり、その意識で感じてみると、思ってる以上に感情とか頭より先に身体が反応してることが分かります。感情って身体に露骨に表れるんです。

実際、感情を表す慣用句って、身体の部分が入っていることが多いです。「手に汗握る」とか「腹落ちする」とか「胸が打たれる」とか。私たちは自分の感情が身体によく表れることに気付いているんですね。

で、「やりたいこと」というのも「自分がどう感じているのか」に注目してる考え方と言えます。「やりたい」って気持ちはつまるところ感情ですからね。

でも、自分がやりたいことをやってるのか、やりたくないことをやっているのか、頭だけで考えると意外と現状を正当化する理屈(言い訳)を編み出してしまって、見えにくくなってしまう。世間体とかを気にして、結局は常識的な範囲内に落ち込みやすくなる。

だから、他人軸に陥りやすい頭脳で考えるのではなく、自分の身体の反応を素直に感じましょうと。いわゆる"Don't think, feel!"というやつですね。

やりたいことをやっているのか、やりたくないことをやっているのか、身体が一番分かっているというわけです。そうした身体の反応をよく感じて(センスして)、自分が心底ワクワクする「やりたいこと」を見つけるのが個人にとってベストであると。

イメージベースの「なりたい自分」

一方の「なりたい自分派」はまた異なるアプローチを取ります。

自分にとってベストな状態になるよう現状を変えようという意志は「やりたいこと派」とも共通なのですが、そのプロセスの重要なアクターとして「脳内イメージ」を活用します。

「なりたい自分」という理想像(イメージ)を生み出して、それを道しるべに進んでいけば「やりたいことかどうか」をいちいち考えずとも自分にとってベストな行動につながるだろうという発想です。頭でイメージをすることを重要視するわけです。

となると、頭で考える以上、問題になるのが先ほど出てきたような「現状を正当化するような理屈(言い訳)」や「世間体を気にするマインド」なわけですが、そこは当然けんすうさん(なりたい自分派)も理解されています。

その証拠に『物語思考』の第一ステップは「頭の枷を外す」になっています。「なりたい自分になる」ために最初の最初にやるべきことがコレなんですね。アンガーマネージメントが最初に「身体反応をよく観察すること」であるのと対照的なのが、非常に面白いところです。

まず「言い訳」や「世間体」のような「頭の枷」を外すことから始めていく。こうした「なりたい自分派」の人たちが何を頼りにしているかというと、「人間の想像力の豊かさと強力さ」なんですね。

人は自身の想像力をちゃんと発揮できればもっともっと自由に遠くに行ける存在であるはずだと、そういう考え方です。せっかくの想像力が「枷」で閉じこめられてるから、日々汲々として自分の真価を発揮できないもったいない状態になってしまっているのだと。

そうした枷を解除し、想像力を解放し、人生を豊かにしようというのがけんすうさんが『物語思考』でやろうとしている試みなのだと言えます。

「肌感覚」を信じるのか「想像力」を信じるのか

なので、ここまでを簡単にまとめると、「やりたいこと派」は身体からにじみ出る「自分のやりたさ」を観察すること、すなわち肌感覚を信じていて、一方の「なりたい自分派」は頭で描き出す「自分がなりえるイメージ」の豊かさと強力さ、すなわち想像力を信じているということになります。

これはどちらが正しいというわけではもちろんなくって、ただ単にアプローチ方法の違いだと思うんですよね。どっちもよりよい人生を送りたいという意味で共通しているわけですから。

ただ、身体反応をよく観察する「肌感覚」の方がしっくり来る人もいれば、自分の脳内で色々と想像をめぐらせる「イメージ」の方がしっくり来る人もいる。そういう個人のタイプの違いで、各自の好みのアプローチ方法が分かれてしまってるだけなんじゃないかと思うんです。

ここまで来るとみなさん「自分はどっちのタイプだろう」と気になってきてると思うんですが、以下、さらに様々な対比を見ていくことで、感じをつかんでいただければ幸いです。(もう分かったと言う人は全然飛ばし読みでも大丈夫です、この記事長いですし)

マインドフルネスvsマインドレスネス

「やりたいこと派」の身体反応を観察するのと親和性が高いのが「マインドフルネス」です。

ざっくり言うと、思考を控えて、「今ここ」に感覚を研ぎ澄ませることで「気づき」を得ましょうというプロセスです。

「マインドフルネス」も最初に「自分の呼吸」を意識することから始めるのがまさに象徴的で、身体反応の「センス」に注力する点ですっごく「やりたいこと派」っぽい行為なんですね。自分をよく観察して「自分がやりたいこと」に気付きましょうというのととてもよく似てる。

では、「なりたい自分派」だとどうなるか。ちょうど良い用語が一般にはないので勝手に江草が呼んでるのが「マインドレスネス」です。

まあ要は「上の空」ってやつです。色々と想像力を働かせて空想してる時って、周りから見たら「心ここにあらず」じゃないですか。空想(妄想?)していたら「ちょっと話聞いてるの!?」と怒られて現実に引き戻された経験は誰もがあると思います。

「マインドフルネス」と真逆に「今ここ」に全く注意を払わない。だから「マインドレスネス」です。

でも、「今ここ」から距離を置くからこそ、現状や「思考の枷」から離れて想像力を発揮することができる。真に理想の自分のイメージを描き出すことができる。これぞ「なりたい自分派」の真骨頂と言えます。

瞑想vs空想

この対比はほぼ上のものの言い換えに過ぎないのですが、「マインドフルネス」とか「マインドレスネス」と横文字で言うよりも、この「瞑想」vs「空想」と漢字の用語の方がイメージしやすい方もいるかなと思って挙げています。

自分が「瞑想」と「空想」のどちらが得意か(しっくりくるか)を考えることで、「やりたいこと派」なのか「なりたい自分派」なのかを判断する試金石になるのではないでしょうか。

S(感覚) vs N(直観), F(感情) vs T(思考)  @MBTI

で、こうしてタイプ分類をしてると「しかし勝手に素人が分類してるだけだよな」という疑問が湧いてくることかと思います。

いえ、ほんと全くその通りです。全然、学術的でも厳密でもない素人のただの思いつきでしかありません。ただ、それでも「こうして考えてみると整理しやすいよね」とメリットがあると思って提示しています。

それに、全く類似のタイプ分類が世の中にないわけでもないのです。

MBTIという自己理解メソッドご存知でしょうか。
公式でないけれどそのMBTIの分類を借用した言わば「ジェネリック版」である"16Personalities"のインターネットテストはSNSでも人気なので多くの方が経験されたことがあるかもしれません(非公式なのでMBTI協会は激おこですが)。

そんなMBTIの中で今回江草が言ってるのと似た対比があるんですね。

それが「S(感覚)」vs「N(直観)」と、「F(感情)」vs「T(思考)」の2つの対比です。「S(感覚)」vs「N(直観)」が何で知覚しているタイプか(Perceiving)、「「F(感情)」と「T(思考)」が何で判断しているタイプか(Judging)の分類にあたります。

で、すごい雑な把握なのは重々承知の上ですが、「S(感覚)」と「F(感情)」が「身体派」で「やりたいこと派」、「N(直観)」と「T(思考)」が「頭脳派」で「なりたい自分派」に、ちょうど合うように思うんです。

もちろん、MBTIでは「SF」や「NT」という組み合わせだけでなく、「ST」とか「NF」という組み合わせにもなりえるのですが、「やりたいこと派」「なりたい自分派」どっちつかずになる人が生じるのも、そのためじゃないかと思ってます。

実際、江草はNFタイプなので(一応江草はMBTIをオンラインじゃなくリアルでやった経験があるのです)、だからこそ「やりたいこと派」「なりたい自分派」のどちらの言い分も一理あるなあと感じてしまうのかなと。

そんなわけで、こうしたMBTI的なタイプ分類をやってみると、自分が「やりたいこと」と「なりたい自分」のどちら向きかを考える上での目安になるかもしれません。(なおMBTIは再現性に疑念があるということで最近は「ビッグファイブ」が流行りですけれど)

主観vs客観

「やりたいこと派」は「自分がやりたいこと」を探すために自分で自分を見つめている感じですが、「なりたい自分派」は「なりたい自分」という理想像(キャラ)が今の自分を見つめているという感じです。だから、視点の違いから、前者が主観、後者が客観のイメージになります。

実際、けんすうさんの『物語思考』でも、「俺はいいけどYAZAWAはなんて言うかな」という矢沢永吉さんの名言を引いており、自分の主観ではなく、「理想の自分(キャラ)」からみた客観視を大事にしていることがうかがえます。

内部vs外部

この自分に対する主観、客観の対比は、内部と外部の対比でもあります。説明すると、自分の身体の内部のみで話をしているか、足場を外部に出せるかという違いです。

「やりたいこと」というのは、自分の身体の内部から満ちあふれてくるエネルギーであり、自分のコアとなる部分です。スピノザのコナトゥスみたいなものとも言えるかもしれません。「やりたいこと派」はそこにこそ、こだわる。身体の中から出てくるそのエネルギーを無駄なくきっちり捕まえようとする。

一方で「なりたい自分」は、同じように自分の中から生み出されるものではあるんですが、いったん自分の外に出してしまうんですね。そして、その外部にある「なりたい自分」が自身を外からガイドするわけです。もっと言うと、あくまで「イメージ」ですから、現実世界の外部にさえ出ていってしまっています。

現実vsフィクション

だから、言い換えると、「やりたいこと派」と「なりたい自分派」は、「現実志向」か「フィクション志向」かの違いとも言えます。

「やりたいこと派」は人生がうまくいってないのは「自分が実際にやりたいと感じてること」、すなわち「自分自身の現実」をきっちり正確にとらえられてないのが原因であると考えます。自分の感情、衝動、欲望などなど(あるいは自身の価値観や得意なことも含め)、しっかり「現実の自分」を把握することができていないから誤った方向に進んでしまっているのだと。

一方で、「なりたい自分派」は、自分自身のやりたいことなんてそう簡単に分かるわけがない、そうではなくフィクションでもいいので「自分自身のなりたいイメージ」を描くことでしか現実をそれに近づけることはできないと考えるわけです。人生の灯台となるべきそのイメージを描けてないからこそ、人は暗闇の中でたじろいで、どこにも進めないのだと。

こう聞くと、フィクションはフィクションに過ぎないのではと思われるかもしれませんが、実際、まず頭でイメージできた方向にしか人は進めないというのも一理ありますし(大阪に行こうと思わなければ大阪に着くことはないでしょう)、有名な自己啓発本の『思考は現実化する』を始め、理想のイメージに導いてもらうというのは古くから人気の考え方ではあります。


もちろん、「やりたいこと派」の考える「現実志向」も、世間によくありがちな「これが現実だから仕方ない」的な諦めに満ちた後ろ向きな考え方ではありません。とことん現実を追求することで「自己のエネルギーを解放し道を開く」という前向きな考え方です。

世間は「これが現実だ」などと簡単に言うけれど、おおかたの人たちは全然「現実の自分」を見れていない。もっと真剣に「現実」を深堀りしていくべきだというわけですね。

だから、世の中の「これが現実だ」は「やりたいこと派」からしても、全然現実を見れてないし思考停止に過ぎないと判断されることになります。

確かにアプローチ方法は異なるけれども、不満な現状から脱却しようという意図は両派ともに同じであることがよく分かるかと思います。

会話vsテキスト

また、「やりたいこと派」と「なりたい自分派」の違いは、会話が好きか、テキスト(文章)が好きかにも現れるんじゃないかと思っています。(それっぽく衒学的なことを言うとパロールとエクリチュールの対比とも言えるかもしれません)

テキストという自らが生み出した他者

文章をよく書く人にはおなじみの感覚だと思うのですけれど、自分が書いた文章って、確かに「自分が生み出したもの」にもかかわらず、書き出された文章を見るともう「自分ではないもの」「自分の外部のもの」としてしか見れなくなるんですよね。ついさっきまで「自分の一部」だったはずの髪の毛や爪がカットするととたんに「自分ではないもの」になるのにも似た感覚です。

メモやリマインダーも典型例でしょう。自分の頭の中で考えたことや覚えておかなきゃと思ったことを、テキストとして自分の外部に出すことで管理し、そして管理される。

そうした、もともと自分の一部であり、間違いなく自分から生まれたものでありながら、それがたちまち自分ではないもの(自分の外の存在)になり、そしてそれにより自分をガイドすることを、私たちは日々、自然にやっているわけです。

これって、まさしく「なりたい自分派」に親和性が高い感覚ではないでしょうか。

「なりたい自分のイメージ」は確かに「自分が生み出したもの」ではあるけれど、いざできあがると「自分でないもの」として自分を外から導くものになる。まさに「テキスト」らしい振る舞いです。

会話の場における豊富なセンスデータ

一方「会話」はどうでしょう。

「テキスト」が自分の外に出ている代物なので、あえて「会話」との間をとって、「動画」から考えてみましょうか。

これも、スマホが普及し自分を撮影した動画を見る機会が多い現代だからこそ皆さん共有できる感覚だと思うのですが、動画に映ってる自分がしゃべってる姿を見て「他人だな」とか「自分ではない」とは思わないと思うんですよ。

もちろん、声の響きが普段自分がしゃべってる時と違うので、それで「自分じゃない気がする」という風に感じることはあるかと思います。

でも、映ってる人物を見て「これは自分じゃない他人だ」とまではいかないでしょう。少なくとも、同じく自分の外に出た記録でありながらも、「動画」は「テキスト」ほどには「自分でないもの」という感覚は強くはならないと思います。それはやはり「動画」の方が「テキスト」よりも情報量が多く、自身がより具体的な現実存在として記録されてるからと思われます。

動画でさえ他人ごとには思えないのですから、現実の会話ではなおさらです。

自分自身が現在進行形でおしゃべりしている時、自分の発した言葉が他人のもののように聞こえることは普通はありません。基本的には、その場の自分の言動全てが丸々自分のものという感覚で、おしゃべりしているはずです。むしろ、あまりに自然なことなので、こうして改めて尋ねられないとそんな変なことを考えることさえないでしょう。

会話というのは、ただ音声の表している文字情報をやりとりしているわけではなくって、相手の声色、声量、テンポはもちろん、表情やしぐさ、部屋の温度湿度、風、周りのノイズ、香り、飲んでいるコーヒーの苦味、イスの柔らかさなどなど、膨大な五感の情報(センスデータ)とともにあります。

つまり、会話というのは「今ここ」の感覚の集大成なんですよね。そこには圧倒的な生々しさを持つ自分がいる。

だから、「会話」というのは、自分自身の徹底的な把握(センス)を追求するのを好む「やりたいこと派」にまさに親和性が高いのではなかろうかと思われるのです。

「会話派」の八木氏、「テキスト派」のけんすうさん(憶測)

実際、「やりたいこと派」の代表選手である八木仁平氏は積極的に対面でのコーチングをされているようです。

もちろん、ブログもされてますし、書籍も出されてるので、テキストを拒んでいるわけはないのですが、動画や対面での相談に力を入れてる姿を見るとどうも「会話派」であろうという印象があります。

会話を通して、相談者の微妙な声色や表情やテンションの変化を読み取ることで、「それはほんとうにやりたいことですか」と相談者の「真のやりたいこと」に迫っていく。そういった趣があります。


他方、「なりたい自分派」のけんすうさんは、リアルイベントには後ろ向きという価値観を披露されています。

もちろん、けんすうさんもフェイストゥフェイスのやりとりを否定しているわけではないのですが、こうしたリアル会話に対する控えめさは八木氏とは対照的と言えるのではないでしょうか。

実際、毎日更新でnoteも書かれてますし、けっこうな「テキスト派」ではないかとお見受けします。


まあ、このお二方に対する評価は正直言ってめっちゃ江草の独断と偏見でしかない話です(お二方には多大な無礼、ほんとごめんなさい)。

ただ、もっと身近なところに目をやって、妻(やりたいこと派)が好むメディアが動画で、江草(なりたい自分派にも理解)が好むメディアがテキストであることを考えても、そんな無茶な対比でもないんじゃないかなーと思っています。

なのでこういう「会話」か「テキスト」かという観点で見てみると、「やりたいこと派」か「なりたい自分派」かのヒントになるかもしれません。

まとめ

ということで、ざくざくっと「やりたいこと派」と「なりたい自分派」の違いを説明してみましたが、いかがだったでしょうか。

繰り返しますが、以上の分類は完全に江草の思いつきの仮説でしかないので、全然厳密なものでもないですし、異論や矛盾も多数あろうかと思います。

ただ、「やりたいこと派」と「なりたい自分派」がなんとなく分かれてる理由も、こう整理すると少し説明がつくんじゃないかなーと思ったのです。

そして、これまた繰り返し強調しますが、大事なことはどちらが正解という話ではないということです。

「自分がやりたいことをやろうとする」のも「なりたい自分になろうとする」のもどちらも自分の人生を良くしたいという共通のもくろみを持つ自己啓発らしい試みであり、アプローチが異なるだけで最終目的地は一緒と言えます。結局は自分に合ったアプローチを選んだらいいんじゃないかと。

また、人が完全にどちらかのタイプに分類できるというわけでもありません。江草自身、どちらの考え方も理解できるという立場です。普通に「やりたいこと派」「なりたい自分派」どっちつかずの方は多くいらっしゃると思います。

なにせ、人間の個性は千差万別ですから(これまでの話のちゃぶ台をひっくり返すようですが)こんな簡単な基準で人を分類するのが無茶というものなのです。当然、誰もがどっちの要素も持っています。

ただ、だからこそ、ひょっとすると、自分でも知らず知らずのうちにこの「やりたいことをやる」と「なりたい自分になる」が衝突して悩んでらっしゃる方もいるんじゃないかなーと思ったんですね。

確かにどちらが正解というわけではないのですけれど、さすがに両方を同時にやろうとするのは東京から福岡に行くのに新幹線と飛行機の両方に乗って行こうとするようなもので、混乱のもとになります。

だから、「やりたいことをやる」と「なりたい自分になる」はこう違うのかもなーと、こんな風に一度交通整理しておけば、自分の中で両方のアプローチが衝突しにくくなっていいんじゃないかなと。

実のところ、江草自身も「やりたいことをやる」と「なりたい自分になる」の両方ともにしっくり来てる者の一人なので、衝突しかねない矛盾を抱えてしまっているわけです。

ただ、頭の内部にダブルスタンダードをダブルスタンダードと認識したまま飼える人の方がメタ思考がしやすいと思っていまして、これができるのが自分自身素敵な(好みの)性格だなあと感じています(矛盾を矛盾のまま置いておけるネガティブケイパビリティというやつかもしれません)。

だからこそ、現にこうして「やりたいことをやる」と「なりたい自分になる」の対比を(気づいたら1万字も書いてまで)俯瞰的にメタに眺めることができているんだとも思います。

こうしたメタ思考で分析するのは江草にとって、とっても「やりたいこと」なので楽しいですし、こういうメタ思考を欠かさないキャラに「なりたいなあ」と常々思っているので、着実に合ってる道を進んでいる実感があってうれしく感じています。

自己啓発本はこういうメタ思考が大変はかどるので江草は大好きなのです。


というわけで、大変長くなりましたがみなさんも良き自己啓発ライフを♪

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