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『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』読んだよ

カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』読みました。

アダム・スミスは言わずと知れた「神の見えざる手」の概念の提唱者です。自由市場に任せておけば自然と「神の見えざる手」が良いように経済を最適化してくれる。だから各自が利己的に振る舞うことが経済にとって良いのであるとする考え方ですね。

流石に今では普通はそこまで素朴な考え方ではなくなってますが、それでも今なお強い影響力を持ってる経済思想です。

こうしたアダム・スミスの経済観からすると、労働をしてその対価としての報酬を適正な市場価格で受け取り、その金銭をもって適正な市場価格で生産者から食事を買ってくることで、私たちは夕食にありつけているのだ、と、こういうイメージになります。すなわち、経済活動によって夕食が生産され受け取ることができているのだと。

この経済観に待ったをかけるのが本書『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』です。

 アダム・スミスは夕食のテーブルで、肉屋やパン屋の善意のことは考えなかった。取引は彼らの利益になるのだから、善意の入り込む余地はない。自分が食事にありつけるのは、人々の利己心のおかげだ。
 いや、本当にそうだろうか。
 ちなみにそのステーキ、誰が焼いたんですか?

カトリーン・マルサル. アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話 (pp.21-22). 河出書房新社. Kindle 版.

皮肉と挑発が効いた、なかなかの名ゼリフ。

生涯独身だったアダム・スミスにはずっと献身的に彼を支えた母親の存在があり、その母親が息子のための家事をずっとこなしていたという史実に基づいた指摘です。

夕食は母親が用意することで初めて彼の食卓に並んでいたにもかかわらず、「各プレーヤーが利己的に振る舞う市場経済で食事が生産・供給されている」とする経済観にはそれは反映されていないわけです。

 アダム・スミスは生涯独身だった。人生のほとんどの期間を母親と一緒に暮らした。
 母親が家のことをやり、いとこがお金のやりくりをした。アダム・スミスがスコットランド関税委員に任命されると、母親も一緒にエディンバラへ移り住んだ。母親は死ぬまで息子の世話をしつづけた。
 そこにアダム・スミスが語らなかった食事の一面がある。
 肉屋やパン屋や酒屋が仕事をするためには、その妻や母親や姉妹が来る日も来る日も子どもの面倒を見たり、家を掃除したり、食事をつくったり、服を洗濯したり、涙を拭いたり、隣人と口論したりしなければならなかった。  経済学が語る市場というものは、つねにもうひとつの、あまり語られない経済の上に成り立ってきた。
 毎朝15キロの道のりを歩いて、家族のためにたきぎを集めてくる11歳の少女がいる。彼女の労働は経済発展に欠かせないものだが、国の統計には記録されない。なかったことにされるのだ。国の経済活動の総量を測るGDP(国内総生産)は、この少女の労働をカウントしない。ほかにも子どもを産むこと、育てること、庭に花や野菜を植えること、家族のために食事をつくること、家で飼っている牛のミルクを搾ること、親戚のために服を縫うこと、アダム・スミスが『国富論』を執筆できるように身のまわりの世話をすること、それらはすべて経済から無視される。
 一般的な経済学の定義によると、そうした労働は「生産活動」にあたらない。何も生みださないことにされてしまう。

カトリーン・マルサル. アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話 (pp.22-23). 河出書房新社. Kindle 版.

本書はこうした家事や育児や地域交流などの、市場経済の裏で無視されてる活動や人間性にスポットライトを当てることを主題としています。それらの活動の多くは、歴史的に女性が主に担ってきていることもあり、特に本書はフェミニズム経済学として現行の主流派経済学を強く批判するという立ち位置となっています。


読んだ感想としては、いやあ、非常に面白かったですね。

江草自身もかねてから社会の中で家事育児などの旧来の女性ジェンダー的な仕事が軽視されてる(無視されてる)ことを問題視していますから、その問題を小気味よく指摘する本書はうんうんと首がもげそうなぐらい頷かされました。

※江草のこの問題意識はこの記事などに時々書いてます。

しかも、本書の原著の初出はリーマン・ショックの衝撃もまだ冷めやらない時期の2012年とのことですから(ちなみに著者はスウェーデンのジャーナリストの方だそう)、随分前にすでにここまでまとまった現行経済観の批判をされてる方が存在していたことに、さすが感服させられます。


とくに、本書が攻撃対象としているのが経済人(ホモ・エコノミクス)の概念ですね。

利己的に合理的にただ実直に経済活動を営む「経済人」。あくまで経済学上の計量に都合が良いモデルにすぎなかったはずの概念ですし、改まって提示された時には誰もが「あくまで簡略化されたモデルでしょ」とその現実味のなさを認識しているつもりでも、ふと気を抜いた時には私たちはつい「経済人」モデルで考えてしまっているものです。ちょっと理解できない行動をする人や態度がムカツク人がいたら、みんなすぐ「どうせお金目的だろ」って言うでしょう。

それだけ私たちは「経済人」の概念にとらわれてると言えるのですが、この点で興味深かったのが私たちは「経済人」に憧れているのだという本書の指摘です。

すなわち、個人で独立・自立して、合理的にものを考え、しがらみなく自由に行動する「経済人」にみんな実は憧れているんだと。彼(経済人)には面倒な人間関係も、自分でも理解できない非合理的な衝動も、痛かったりしんどかったりする重たい身体も、悲しくなったり悩んだりする感情もないので、そうしたもの全てに本当は悩んでる私たち生身の人間からすると、憧れの存在になりうるというわけです。

 世話をする側にとっても、子どもの自立を育むのは難しい作業だ。子どもの世話が生活のすべてになり、依存されることに生きがいを見いだしてしまうと、お互いに依存が強すぎて離れられなくなる。ちょうどいい相互依存関係を保つのは、誰にとっても大きな課題だ。日々この課題に直面するなかで、人は心に癒えない傷を負う。こんなふうでなかったらいいのに、と空想するのも無理はない。
 最初から、ひとりだったらいいのに。宇宙飛行士みたいに、何もない空間をただよっていられたらいいのに。

 経済人が現実的でないのはもう明らかだ。興味深いのは、人がそれでも経済人にしがみつこうとする態度である。
 きっと私たちは、経済人みたいになりたかったのだ。誰にも頼らず、合理的に生きられる世界が欲しかったのだ。どんな犠牲を払ってもそれを手に入れたかったのだ。
 でも、そうやって現実から目をそらしてきた結果、私たちはいったい何を得たというのだろう?

カトリーン・マルサル. アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話 (pp.166-167). 河出書房新社. Kindle 版.

「経済人」が現実的ではないのは頭では分かっていながらも、実はそれに憧れてるからこそ、そうであって欲しい、そうでありたいと思っているから、このモデルに固執してるのではないか。

不老不死が不可能なのを分かっていてもつい憧れてしまうのと同じく、完全に自由独立した個人のみで生きることは不可能であるにもかかわらず、それにどうしようもなく憧れてしまう私たちが居る。
江草的にイメージし直すと、こういう感じでしょうか。

実際にそうかどうかを確認することは難しい系統の話ではありますが、個人主義と合理主義にまみれた現代社会に対する本書の大変ユニークで面白い指摘だなと感じます。


こんな感じで、女性不在の男性視点でしかない現行の経済観、人間観を改めて、より多様で人間らしい社会に改善していこうとする本書。

繰り返しになりますが、江草の問題意識とも近いものがかなりあるので、ほんとよくぞ言ってくれたと言う指摘ばかりでとても良かったです。(もっとも、問題意識が近そうだなと思ったからこそ読んだので確証バイアスと言えばそうなのですが)

ただ、それでも気になる点はいくらかあったことは公平を保つためにもやはり書いておかねばなりますまい。


まず、全般的にアジテーションに満ちてる(扇動的な)エッセイ風テキストなので、勢いでごまかされてる気がしないでもないのですよね。

そのおかげで読みやすく心に染み入りやすいという点で長所でもあるとは思うのですが、「ほんまにそう?」と疑問に思う箇所もサクサクっと突き進むので、逆に疑問を挟む余地がない感じ。

もっとも、合理主義すぎる世界観をこそ批判してる本書だからこそ、あまり細かく理屈っぽくするのは似合わないとは思うので、仕方ない面はありますが。


で、江草的に最大の減点ポイントは、男性性に対する怨嗟が強過ぎるところですね。フェミニズムを基盤としてる論考であり、上述の通り、扇動的なテキストなのもあって、ことごとく男性が悪者として描かれています。

別にトーンポリシングをしたいわけではないんです。実際、歴史的に男性が女性を抑圧してきたことは事実ですし、それに対する怒りが噴出するのは極めて自然なことです。

でも、あまりこうして男性性に対する怨嗟を濃厚にぶつけられてしまうと、旧来の女性ジェンダー的な活動(家事育児)を担ってる、一男性からするとさすがにちょっと堪え難いものがあります。

本書が2012年初出と少し前の書籍であることも考慮しないとはいけないのでしょう。身体的女性性の人間がそのまま女性ジェンダーの役割(ケアワークなど)を担っており、身体的男性性の人間がそのまま男性ジェンダーの役割(ビジネスなど)を担っているという構図が当時だとまだまだ圧倒的主流だったのかもしれません。その場合には女性ジェンダー役割を軽視している悪役として身体的男性を悪魔化して描くのも妥当であったと言えなくもないでしょう。

ただ、10年以上経って、まだまだ十分とは言われないとは思いますが、身体的男性も女性ジェンダーの(ものだった)役割を担うようにはなってきてるんですよね。そうした中で、ただ「身体的男性である」ということでことごとくボロクソに言われるのは、社会の中で女性ジェンダー役割を大事にしましょうと提言してる本書の立場からして、事実上のフレンドリーファイヤー(同士討ち)となってしまってます。仲間であるはずの層まで一緒くたに殴られたらたまらないです。

もちろん、本書の著者は、女性ジェンダー役割を果たしている男性まで撃つつもりはなかったでしょう。「そういう男性は別」と多分言われるはず。でも、勢い良く語られるテキストにはそうした細かい留保や区別なく、とにかく「男性が」「男性が」とひと括りなので、身体的男性なら誰もが強い非難の対象となってる印象を否定するのは難しいものがあります。

先ほども言ったように、本書自体は初出が10年以上前のものなのもあって、仕方なかった面もあろうかとは思います。しかし、この傾向(身体的男性を結局はまるっとボロクソに言う)って、現在の一部のフェミニズム論者の方々にもまま見られるので、ちょっと辟易するんですよね。

特に本書の文脈においては、本質的な問題は身体的な性別ではなくって、社会におけるジェンダー役割の格差にあるはずです。身体的性別がなんであろうと、(旧来の)女性ジェンダー役割を担っている者が社会でないがしろにされてることをこそ問題にしているはず。にもかかわらず、身体的男性を十把一からげに悪魔化して語ってしまうのは、それこそ身体的な差異をもって人を差別していることに違いはないでしょう。

一応、本書でも「ただ男性化してるだけの女性」(つまり男性ジェンダー役割に迎合した女性)について批判的な態度を示している箇所はあります。しかし、これも当の女性たちに対する批判というよりも、男性達の作った競争社会のせいにしてるテイストが強くって、身体的女性性にはなんだか甘いんですよね。結局はなんだかんだいって社会的女性ジェンダーよりも身体的女性性の方を重視してるのかい、と気にはなってしまいます。

※ なお、「男性化してる女性」に対する批判点は、『リーン・イン』にまつわる議論が分かりやすいと思います。こちらの記事のインタビュイーは競争社会という構造だけでなく当事者の女性個々人に対しても批判の矛先を向けています。


ともかくも、(旧来の)女性ジェンダー役割を身体的男性も担うようになってきた昨今だからこそ、このような身体的性差に基づいた単純な差別的アジテーション(男性を悪魔化する表現)はそろそろ時代遅れなんじゃないかなあと思います。




……と、個人的にちょっと指摘したくなる難点はあったものの、総じて現代の経済主義社会にぶっ刺さる非常に重要な提言をされていて、素晴らしい一冊であったと思います。

江草の思想にも合致するポイントが多々あるので、今後ともたびたび参照したり引用したりするかもしれません。

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