「学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」の呪縛
たまたまなんとなくNHK朝ドラ「虎に翼」のあらすじページを見ていたんです。(申し訳ないことにドラマ自体は見てないですが)
そこでこんな表現が出ていました。
「女性が家庭に押し込められる社会の空気」を嫌ったテイストがありありと出ている、朝ドラらしい箇所だなと思います。
江草もわりとリベラル寄りなので、ほんとそういう保守的な考えには納得できないタイプです。
(以前、試しにやってみた江草の政治思想診断テスト結果はこちら↓)
実際、江草は、アメリカのリベラル派女性判事として名を馳せた「RBG」ことルース・ベイダー・ギンズバーグの生き様を描いた作品に感激して目に涙を溜める系の立場です。女性だからという理由で法曹界で不当な差別的扱いを多々受けてたのを乗り越えて最高裁判事になるまで大成されたわけです。いやあ、かっこいい。
今回の朝ドラも主人公は日本初の女性弁護士がモデルとのことですから、きっと日本版の「RBG」を描こうとするような作品になるのだろうと推測します。
なるほど、いいですね。
だから、江草的にはこの方向性に(もちろんNHKの朝ドラにも)何の文句もないんです。
ただ、社会はこの「女性は女学校を出たら、結婚し、子を産み、家庭を守るべし」という旧来的な空気の解消をこうして熱心に図ってる一方で、とある「別の旧来的な空気」については放置しすぎなんじゃないかなあと思うんですね。
それは「学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」という空気です。
これはもともと「男子たるもの学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」という形態でした。しかし、今は先ほどから指摘している「女性の家庭からの解放」の運動の流れで、女性の社会進出や活躍が盛んに謳われるようになった結果、「男女問わず学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」に変化しつつあります。
これは確かに「女性は女学校を出たら、結婚し、子を産み、家庭を守るべし」という慣習を解消するには都合がいいんですね。家庭以外の活躍の場として仕事というフィールドを女性に開放することになるわけですから。
ところが、「女性は女学校を出たら、結婚し、子を産み、家庭を守るべし」という空気が、個々人の自由を抑圧するものとしてリベラル派の立場からは容認できないのと同様に、「学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」という空気だって、個々人の自由を抑圧するものとしてリベラル派は本来容認しえないもののはずなんですよね。
ところが、NHKで堂々とテーマになるぐらいには「女性は女学校を出たら、結婚し、子を産み、家庭を守るべし」の解消は進みつつある一方で、この「学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」に対する批判や疑問は社会としてほとんど目立たないのが現状です。
これは、自由を抑圧するものを許さない立場であるリベラリズムに立脚してるのだとすれば、ちょっと一貫性がないんではないかなあと、江草は疑問に思ってしまうんですね。人々(特に男性)の「仕事からの解放」も同時に謳ってこそ、個々人の人生の自由な選択を尊重するリベラリズムにふさわしい態度であろうと。
これだけ「女性の家庭からの解放」が言われるようになってるだけに、逆側面の「仕事からの解放」がついぞ見られない、このアンバランスさが気になってしまうのです。
言ってしまえば結局のところ「(男女問わず)学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」という社会における仕事中心主義が保存されてるがために起きてる社会的症状が、今や社会を揺るがしてる未婚化・晩婚化・少子化なわけでしょう。
最近の世の中では皆が「女性は結婚し、子を産み、家庭を守るべし」に反発したいが余りに、仕事を高い社会的地位に持ち上げて、家庭を低い社会的地位に貶めてしまってる雰囲気さえ感じます。仕事は「自由の象徴」として崇められ、家庭は「抑圧の象徴」として忌避されてる。
そんな風に、家庭で育児家事をしている者は(男女問わず)社会的に低く見られてる。それなら結婚や出産育児に皆が腰が引けるのも当然ではありましょう。
実際、こないだとりあげた少子化対策の書籍でも「育児のせいで仕事ができなくなると自分らしい人生を犠牲にすることになる」的なニュアンスがありましたから、結構根深い空気だなあと思うんですね。少子化問題のエキスパートが書いてるものでこれですからね。
あるいは、たまたま見かけたこの記事。全然事件の本筋とは異なるものの、この記事で紹介されている、児童虐待疑い(冤罪かどうかが争われてる)の家庭に対して児童相談所が提案した「子どもを返すため」の要件も、絶妙にこの社会における「仕事中心主義」の強力さが垣間見える内容となってると思います。
これ、子どもを育てるためには「専業主婦ではダメで仕事をしろ」と児童相談所が言ってるわけですからね。
もちろん「生活費を担保するために働きなさい」とか「保育園に入れるために就労要件を満たしなさい」という現実的なニュアンスであって、児相も全然悪意はないんだと思うんですが、「まず仕事があってそれから育児である」という順位付けがこの社会において無意識に働いていることには違いはありません。まさしく「(男女問わず)学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」を体現してるものであるでしょう。
もし本当に「家庭差別」がない世の中であるならば、「育児をしている者には働いてなくとも生活費を保障する」という社会の空気になってもおかしくないはずですが、そうはなってないわけですから。
もちろん、育児休業が推進されたり、子育て支援の拡充が進められたり、働き方改革が施行されたりと、社会全体の仕事中心主義への偏りを是正しようというトレンドは始まってはきています。
ただ、現実には、なかなか厳しい状況です。
例えばこの子育て支援金の記事に対するコメント欄も「仕事してる者から金を取るな」という仕事中心主義および経済主義のショーケースとなってます。
このことからしても「(男女問わず)学校を出たら、就職し、働いて、社会に貢献すべし」がいかに社会の支配的な空気となってるかは見て取れるかと思います。
しかし、そもそもの「女性は結婚し、子を産み、家庭を守るべし」に対する反発は、男女差別を解消するのが本意であって、そこで、仕事を上げて家庭を下げる「家庭差別」を施してしまっては本末転倒でしょう。
それは単純に、女性に男性のジェンダーロールを与えて男性化してるだけに過ぎません。なんなら、この状況は、身体的・心理的な性別ではない、社会的な性別(ジェンダー)においては旧来的な男性役割(仕事)が女性役割(家庭)に完全に勝利していると言っても過言ではないでしょう。それで本当に男女差別解消と言えるのでしょうか。
だから、「女性の家庭からの解放」は高らかに謳い上げられてる一方で、「(男女問わない)仕事からの解放」はほとんど語られない現状を、江草は非常にバランス悪く奇妙に感じるんですね。
真のリベラリストなら、ここにも踏み込んでこそと思うのですが、みなもしかして思ったよりリベラルじゃないのでしょうかね。
でも、それならば、何をもって「女性の家庭からの解放」を訴えているのか。
実際に男性介護者の権利を守る判決を勝ち取ったリベラル派の巨人の故「RBG」ならどう思われるのでしょうね。