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「だれでも金で回ってる」〜 金動説にご注意を〜

グレーバー&ウィングロウ『万物の黎明』を読んでいて、とても目からウロコの箇所がありました。

アダム・スミス以来、現代の競争的市場交換の形態が人間の本性に根ざしていることを証明しようとする人びとは、「原始交易」なるものの存在を指摘してきた。なるほど、何万年も前から、貴重な石や貝などの装飾品のような物品が、はるかな距離を移動していた証拠なら苦もなくあげることができる。こうした物品の多くが、のちに人類学者が世界中で「原始通貨」とみなすことになるものである。このことは、資本主義がなんらかのかたちでつねに存在していたことを証明しているのだろうか?
この論理は完全に循環している。貴重なものが長距離を移動していたのであればそれは「交易」の証拠であり、交易がおこなわれていたのであればそれはなんらかの商業形態をとっていたにちがいない。しかるに、たとえば三〇〇〇年前にバルト海の琥珀が地中海にたどり着きメキシコ湾の貝殻がオハイオ州に運ばれたという事実によって、市場経済の萌芽形態の存在は証明される。市場は普遍的なものである。それゆえ、市場は存在したにちがいない。それゆえ、市場は普遍的である、云々。
このような著述家が実際になにをいっているかというと、貴重物の移動の原因を市場以外にじぶんは想像できないということである。しかし、想像力の欠如は、それだけでは論拠にはならない。

『万物の黎明』
太字は江草による)

つまり、物が長距離移動していることの原因を「交易」と決めつけるのは、物の移動の原因として「交易」以外が思いつかない想像力の問題ではないか、そしてそれは「これが交易の証拠」だと言いたいがための循環論法に過ぎないのではないか、と言ってるわけです。

あいかわらずのグレーバーらしい手厳しい指摘です。

実際、他書である『OPEN』では、まさに先史時代の貴重物の長距離移動の事実をもってして「交易の証拠である」としているところがあります。

人類は、「運び、交換し取引する性向」を持っている、とスコットランドの哲学者で経済学者アダム・スミスは考えた。歴史を振り返ればどこでも人々は交換をしている──恩義やアイデア、財、サービスをやりとりするのだ。そして考古学者が深掘りすると、それだけ人間取引の証拠もさかのぼる。何千年も過去にさかのぼるし、最近の驚異的な発見によれば、交易は有史以来ずっとあるのだ。
(中略)
黒曜石は考古学者や歴史学者にも珍重されている。というのも、それが産出されるのはごく少数の火山性の場所だけだから、それが他の場所で見つかれば、それは移動と交易のパターンを示すものとなるからだ。

『OPEN』
太字は江草による)

これは確かにグレーバー側に理がある指摘です。論理的に考えれば、物が長距離移動する原因として「交易」以外の可能性がないことを説明して初めて、それが「交易」の証拠であると言えます。しかし、『OPEN』の記述を見ていても、「物の長距離移動」すなわち「交易」である、と無批判に飛びついているきらいがあるのは否めません。

それが「交易」以外による現象の可能性はないかを検討してないという怠慢、あるいは「交易」以外の可能性が思いつかない想像力の欠如であると批判されても仕方がないところといえます。

このあと『万物の黎明』の中でグレーバーらは物品の移動が「交易」以外でも説明できることを示していくわけですが、この具体的な中身については本稿の目的ではないので触れません。(書籍をぜひお読みください)


で、今回本稿で注目したいのは、ついつい私たちが何かにつけて原因を「金」や「市場原理」に見てしまいがちなバイアスについてです。

この『OPEN』のような無批判的な「交易」への飛びつきというのも、まさに私たちがついつい「そこに市場原理があるはずだ」と無意識的に見てしまっていることの一例と思われるわけです。(仮に存在していたとして)先史時代の「交易」に必ずしも「お金」が必要であったかどうかは分かりませんが、そのイメージに「取引」や「市場原理」を想起していることは明らかです。

つまり、どうも昨今の私たちは、目の前に「不思議な現象」や「理解できない意見」がある時に「そこにお金や市場がからんでる」とか「お金の問題だ」として説明を片づけてしまう傾向があるように感じるのです。(少し問題のレイヤーは異なりますが類型として「お金があれば解決だ」もあります)

たとえば、頻繁に観測されるのが、意見が対立している論敵や、自分が嫌悪感を持つ仕事をしている人物に対して、「わざと逆張りして衆目を集めてお金儲けしようとしているのだろう」とか「詐欺のようなビジネスで人々をだましてお金儲けしようとしている」などと、ただ単純に「奴らはお金儲けに走ってる悪者である」と断じて批判する光景です。

確かに、実際に純粋にお金目当てで逆張りや詐欺ビジネスに加担している者は少なからずいるでしょう。ただ、そこにお金以外の原動力や理由がある可能性は本当に否定できているのでしょうか。その可能性を検討せずに何でもかんでも「お金目的だ」と一蹴してしまうのは安易で怠惰な態度です。なぜなら「お金目的だ」と言うのはどんな立場のどんな意見のどんな相手であっても使える安直な万能批判文句だからです。

自分に理解できない意見を言う者がいる。自分が賛成できないプロジェクトを行う者がいる。そういう時に人は不合理さを感じます。その不合理さを解消するために、よくよく考えたり話し合ったり調べたりするのが本来勧められる理性的で誠実な態度であるでしょう。ところが、不合理さの感覚というのは、とってもモヤモヤするもので、人間にとってけっこうな不快な状態なんですね。だから、手っ取り早く解消したくなる。そういう時に便利なのが「お金」です。「どうせお金のためだろう」とすれば一見合理的な説明がついたような感じがして、たちまちモヤモヤから解放されるのです。

ところが、冒頭のグレーバーの指摘でもあるように、それは「お金」以外の可能性をハナから無視した、想像力を欠いた拙速な判断にすぎません。

たとえば、以前、うさんくさい健康商品を販売してる会社に迷い込んでしまった(知らずに就職してしまった)人の話を以前聞いたことがあります。いわゆるニセ医学的なビジネスですね。SNSの医師クラスタなどではそういうビジネスは「金儲け目的の詐欺商法である」とたちまち断定されるのですが、実際に内部に居た人に言わせると「確かに半分ぐらいはこんなのでたらめだと分かっていながら仕事してるけど、もう半分はほんとに人々の健康の役に立つと信じて仕事してる感じだよ」と言うのですね。(なお、その方はその会社のヤバさに気付いてすぐに転職したそうです)

確かに「お金目的」であるという側面もありつつも、「本気で良かれと思ってやっている」という面も存在しているわけです。もちろん、科学的妥当性のない商品そのものはきっちり批判すべきですが、それを担っている人たちを「お金目的」だと断じて一蹴してしまうのは、あまりに一面的であり、適切な批判とは言えないでしょう。そう決めつけられた側としても心外な批判であり、態度を硬化させることは必至です。

この辺の「お金目的」論法の問題は過去にも連作でnote記事を書いたこともあるので、今回はこの辺にしておきますが、安易に「お金目的」という批判は使われ過ぎてるという印象は今でも変わりません。


そして、とりあえず「お金」に頼れば合理的な説明がついたように感じるというのは、私たちの価値観が「お金」に対して強く依存していることの裏返しでもあります。「奇妙に見えるあいつの言動もお金目的だとすれば納得だ」というのは「お金がもらえるなら自分だって不合理なことや非道徳的なことをしますぜ」と無意識に認めているようなものです(もっとも「自分だけはそんなことはない」と否定するでしょうが)。これが恐ろしいのは、「お金」というものが自分や社会を強力に支配していることに私たちが違和感を抱かなくなっていることです。

つまり、どうも私たちの想像力が「お金」にとらわれるようになってしまっている。言い換えると、「お金」以外のことに私たちの想像力が働かなくなっている。物の移動を見れば「交易だ」と思い込んでしまうように、人の言動を「お金目的だ」と思い込んでしまっている。もっと言えば自分の言動だって「お金」に支配されててもおかしくない。この現状を江草は空恐ろしく感じます。

「だれでも金で回ってる」

「地動説」ならぬ「金動説」と称せそうなこの世界観は、ある意味ガリレオガリレイ並の強固な信念として私たちの心底にこびりついてきているようです。教会からの反発を受けたガリレオの「地動説」は一転正しかったと認められ今や常識となりましたが、一方の今や常識として闊歩しつつある「金動説」はさてどうでしょう。それに反発しうるかどうかは私たちの想像力いかんにかかっているのではないでしょうか。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。