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論敵を「お金目的だ」と批判するのはイマイチ

論敵に対して「あいつらはお金目的で、逆張りしたり過激なことを言うんだ」と批判する論法をよく見かけます(昨日のnoteで触れた大津先生の記事でもありました)。
つまり「心の底ではそう思ってもないくせにその方がウケて儲かるからあいつらは変なことを言ってるのだ」というニュアンスですね。

とてもポピュラーな論法ですし、なんとなく気持ちも分からないでもないのですが、でもやっぱり、あんまり意味があるとも思えないし、イマイチな方法と思うのですよね。

理由を書いていきます。

人身攻撃

まず、ひとつにこれが人身攻撃であるというのがあります。
つまり論敵の人柄を攻撃して主張の信頼性を落とそうという作戦ですが、それは要するに主張の内容そのものへの反論ではないわけなんですよね。
そもそも、主張してる者がお金目的だろうが、お金目的でなかろうが、内容の真偽には関係はないはずです。
そこで「お金目的だろ」と言ってしまうと、議論がずれてしまっているんですよね。

人身攻撃は誤謬やマナー違反として広く知られている手法なので、相当に強い理由やロジックがない限り、基本的に手を出さないほうが無難です。下手が用いると逆に失笑を買うだけでしょう。


お金目的で何が悪いのか

次に、お金目的であったとして、それが本当に悪いことなのかというのがあります。

仮にも私たちは自由資本主義社会に住んでいますので、お金目的で活動することは基本的に容認されています。なんなら推奨されてると言ってもいいでしょう。各自が利己的に振る舞うことが良いことなのだと「神の見えざる手」をある程度は信頼してる社会なのです(全面的に信頼はしてないので神が間違えそうな箇所は事前に規制しておくわけです)。

であれば、特別に規制がかかってるジャンルでもなければ、お金目的で意見を言うのも自由なはずなのですよね。
世の中のエラい先生方も有償で書籍を出版したり講演をしたりしてるわけですから、自分の意見を言論や執筆で表現することと金銭的利益との接続をただちに悪いこととは言えないでしょう。
にもかかわらず、「お金目的だ」と批判するのも不思議な話です。


そもそも「お金目的で意見を発言すること自体が不浄である」とするなら、たとえばコンビニバイトはお金目的でいいけど、言論活動はお金目的の要素が少しでもあるとダメということになります。
それらの扱いの違いはどういった基準に基づく線引なのでしょうか。

また、そういった「お金目的はダメだ」という空気が行き過ぎた結果、ケアワーカーや教師などのいわゆる「聖職」のブラック化が進んでることも言われてますし、「お金目的は悪」と簡単に結びつけてよいものかはモヤるところです。



もちろん、自由資本主義そのものに反対する立場もあるでしょうし、昨今のSNSでの扇動的発言の横行は確かに社会問題ではありますから、「お金目的」への懸念に一理はあるのは確かです。
しかし、以上に見たように「お金目的」をいちがいに否定できない理由も様々ある中で、「お金目的だ」と簡単に一言投げるだけで十分な批判になると考えるのはあまりに素朴すぎるように思います。



寝ます

……まだ話は続くのですが(「そもそもお金目的ではないのでは」とか)、ここで大変に眠くなったし、遅くなったので今日はここまで。
続きは翌日かもしれないですし、来ないかもしれません。
あくまで気まぐれ個人noteなので。あしからず。

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