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人は案外「お金目的」じゃないから逆に大変

続きの続き。

「お金目的だ」と論敵を批判する手法がよくありますが、あんまり的を射てないのではないかというお話。

その理由として、

  • 人身攻撃の誤謬である

  • 「お金目的=悪い」と断定するのは難しい

  • そもそも多くの人はお金目的でなく本心の気がする

の3点まで考えてみました。

では、続けていきましょう。

お金目的にしてはコスパが悪いのでは

過激な意見とか、逆張りの意見を主張するのって、お金目的にするにしてはあまりにコスパが見合わない気がするのですよね。

確かに、書店にいけば過激な主張の本は並んでますし、ネット論客でもたとえば白饅頭氏とかそれなりにマネタイズできてそうな方はいます。
でも、そういう人はほんの一握りの一握りで、ほとんどの人にとって意見を表出することがお金につながってることは稀でしょう。

人気商売の要素が色濃い芸能人やコメンテーターの方々ならまだしも、たいていの職業の方々は意見表出でやいのやいの言うよりも自分の仕事に専念したほうがよっぽど金銭的には安泰でしょう。とくに医師なんて自説を語ってる時間と労力でバイトに行く方が遥かに確実かつ高額の報酬が見込めます。わざわざ過激な意見を言うなんて、社会的リスクが高いばかりで報酬の期待値も低いのです。

もちろん、それでも一攫千金とか一発逆転を目指して、インフルエンサー狙いで過激な意見を言うというのはありえるでしょう。
ただ、同じインフルエンサー志望でも、有用な情報やノウハウをまとめたりするインフォメーション系の発信のほうが概ね人気でバズりやすいことを考えると、オピニオン系の発信はそれこそ茨の道で割に合わないように思います。

だから、結局のところ、オピニオン系の人たちは、やっぱり「意見を言いたい人」と思われるのです。
仮に「お金目的」の気持ちがあるとしても、「お金が儲かりそうだから意見を言おう」ではなく、「自分の意見を言ったついでにお金が入ったらいいな」ぐらいが自然なところなのではないでしょうか。
これに対して「お金目的だ」と批判しても、なんとなく的を外してる気がしてなりません。

たとえお金目的としても真の目的ではなく中間目標にすぎない

また、仮に意見主張がお金目的の行為であったとしても、その肝心の「お金」は最終目標ではないと思うのです。

人がなぜ大金を稼ごうとするのかと考えた時、「美味しいもの食べて広い家に住んで高い服や車を買って――」などの酒池肉林なイメージが一般に抱かれやすいです。
確かにそういう豪遊の要素があることは否定できないのですが、江草は実はそれが「人々がほんとうに得たいもの」ではないのではないかとにらんでます。
それよりもむしろ「人々はお金によって自分の正しさを実感したい」のではないかと思うのです。

たとえば、自分の年収や納税額の高さをもって「社会に貢献してます」という顔をする人が少なからずいます。
他人に価値を提供したとき感謝の気持ちの代わりに得られるもの、それがお金。そういう認識の人も多くいます。
つまり、お金は「社会から自分の貢献が認められたこと」の証明として扱われているのです。

だから、「これだけのお金をみんなからもらえたということは自分はみんなに感謝されてるのだ、みんなに正しいと思ってもらえてるのだ」と実感できることこそが、「お金を多く持つこと」の真の報酬なのではないでしょうか。
要は社会的な承認欲求ですね。

翻って、もし意見主張の成果として大金がもらえたとするならば、それはどういう意味になるでしょうか。
「自分の意見に対してこれだけのお金が集まるのは、自分の意見が正しいと認められた、自分の意見によくぞ言ってくれたとみなが感謝してる証拠である」となります。
そういう自分の意見の正しさの証明の媒介物として「お金目的」というのはありえるでしょう。
でも、その時の「お金」とはあくまで中間目標であって、やっぱり本当の目的は「自分の意見の正しさを証明したい」なのだと思われるのです。

ここに「お金目的だ」と批判しても、やっぱり的が外れてる気がしちゃいます。
誰かを「お金目的だ」と批判するのは、「自分で自分の意見を信じてないくせにお金がほしいから言ってるんだろ」という揶揄なので、「お金を通して自分の意見の正しさを証明したい」という動機に対しては当てはまらないように思います。

なんにでも「お金目的」と言えてしまう

また、「お金目的だ」という批判が微妙な理由として、なんにでも「お金目的だ」と言えてしまうことも挙げられます。

資本主義、自由市場化が進んだ現代社会において、そもそもお金に絶対につながらない行為なんてないと言えます。

「社会貢献のためにボランティア活動をしています」と言う人にも「そうやって善人ぽい評価を得て良い職や出版講演などにつなげようとしてるんだろ」と言えてしまいますし、「ニセ医学撲滅のためにエビデンスに基づいた正しい医学情報発信をします」と言う人にも「そうやって大衆の信任を得た頃に国会議員に立候補とかするんでしょ」などと言えてしまいます。

つまり、「ボランティア活動」や「有徳な人物評価がされること」や「認知度が上がること」などなど、全てが理論的にはマネタイズ可能な現代社会において、「お金目的だ」はなんにでも使える万能すぎる批判となります。
なんなら「論敵をお金目的だと批判すること」も「お金目的だ」と批判することができるでしょう。

だから、とりあえず挨拶代わりに「お金目的だ」と言うのはかなり乱暴で、「○○党の意図に沿った意見を発信してくれる代わりにお金をあげるよ」などの裏取引が判明したなどの相当の根拠がない限り、妥当な批判にはなり難いと思います。

人は案外「お金目的」じゃないから逆に大変

とまあ、あれやこれやと「お金目的だ」という批判にいちゃもんをつけてきたわけです。
これでじゃあ、「みんなお金目的じゃないんだね、よかったよかった」となればよいのですが、現実は逆です。
「お金目的」であってくれた方がよっぽど楽な可能性があるからです。

仮に理屈が破綻してる無茶苦茶な意見を主張してる人がいたとして。
お金目的だったら、他にもっとお金が楽に稼げる活動があるなら移動してくれる可能性があります。

でも、これがお金目的でなく、「固い信念」や「承認欲求」を核としていた場合かなり意見を変えさせるのは難しくなります。
彼らにとって意見を曲げることは、自分の信念の敗北、自分の社会的承認の喪失を意味しますから、いかに理屈が無茶苦茶になろうとも、反論されればされるほどかえって自説に執着しがちになります。

しかもデュエム-クワインテーゼ的に、自説に反する証拠が出てきても、たいていの場合、いくらでも自説を擁護することが可能でもあります。
天動説が数々の観測上の矛盾に対しても、周転円などのアドホックな理論修正を経て長年生き延びたことがその好例です。
人は信じたいものを信じきろうとしてしまうのです。

だから、意見が「お金目的」でないほうが、よっぽど議論は大変とも言えます。

そのあまりの大変さから、もういっそのこと「発言を封殺したくなる」のもわからないでもないのです。
でも、それはそれで言論弾圧というのはかなり強い副作用のある策ですので、やっぱりいかがなものかなと思うのが江草の立場です。


いやー、世の中って難しいですね。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。