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哲学的批評:サカナクション(2-1)

2 マジョリティとマイノリティ/表面と深層、マジョリティとマイノリティとの間をまたぐことは可能か?

2-1

マイノリティからモスへ:変遷

 834.194 に収録されている『モス』の元のタイトルは「マイノリティ」だったことはサカナクションのファン(通称:魚民・うおたみ)内では有名な話である。なぜかというと、「マイノリティ」という言葉には社会的な意味合いとして性的マイノリティ (sexual minority)、人種的マイノリティ(racial minority) などの社会格差や間違った信念(例えば、人種 race という概念は生物学的なものではない、あくまでも社会で構築されたものだ)から生まれたものがあるからだ (注1)。山口は「マイノリティ」という言葉を、「クラスの中の1人か2人」のことのみを指したかったのが当初の狙いだった。クラスの一、二人は、クラスの残りとは異なる音楽的な関心を持っていた山口の中高時代の経験が反映されている(注2)。つまり、ここでのマイノリティというのは、マジョリティという独占的な選好の世界の中で好かれていないもの、嫌われているものが好きである、ということを主張できない、しにくいと言う立場にあるひとたちのことである。それはあくまでも個人的な好き嫌いのレベルであって、社会的に好まれている、あるいは嫌われているものやことを指しているのではない。だからこそ、山口は学校のクラスという非常に狭い空間を例にとって、マジョリティ/マイノリティを説明するのである。しかし、面白いことに、学校のクラスは社会の縮図、あるいは社会を反映している側面もある。社会的に「ポップ」やそれに対する「ロック」や「パンク」、「ヒップホップ」、「フォーク」といったカテゴリが構築されているのも事実である。そして、山口は音楽においてはマイノリティに属していると思っていて、それは日本の音楽界においても、サカナクションというバンドが、サカナクションの音楽がマジョリティには属しないことはある程度認識されているだろう。
 サカナクションの概念のなかで、マジョリティとマイノリティの二項対立は2012年後半から使われはじめた。例えば、2012年9月1日に掲載された記事(注3)で、今後のJ-POPシーンに訴えていきたいことを訊かれ、山口はこう答えている、「ロックバンドという小さいお山で有名になるんじゃなくて、エンターテインメントという大きなお山のマイノリティーでいたいです。その、大きなお山にロープウエーでたまに行って戻って来るというか。テレビからしか情報を得ず、音楽を深く探らない人たちにも、洋楽しか聴かない人たちにも、面白いねって言ってもらえるバンドになれたらいいなと。だから、テレビとかもあんまり出たくないけど(笑い)、でもその世界で勝負して広めていくっていうチャレンジもしていきたいなと思ってます」。その後の2014年1月号の雑誌MUSICAでは、2013年のサカナクションが「マジョリティの中のマイノリティという唯我独尊をさらに極めながら、ついにチャートのトップに立ち、紅白をはじめとしたお茶の間へ侵入することに成功した新たなバンドの象徴」と説明されている(注4)。「大きなお山」=マジョリティは2013年のサカナクションにとってはその年に初出場した紅白歌合戦であって、その中で異質な存在、違和感を醸し出す存在=マイノリティとして、いる。マジョリティの中のマイノリティでいることが具体的にどのようなことかといえば、山口の言葉を借りれば、それは「いい意味で粋がるっていうか……俺らがマスメディアに出た時に違和感を感じてもらいながら、でも、いつも音楽を聴いてくれてるコアなリスナーには俺達のベースにあるものをしっかり感じてもらうっていう。マスメディアの中にいる俺らの違和感を楽しんでもらうっていうかさ」(注5)。そして、ただマジョリティの中のマイノリティという立場に留まるだけではなく、「大きなお山にロープウエーでたまに行って戻って来る」ように、マジョリティとマイノリティの境界を行き来しながら、しかしながらマイノリティという立場を固持する。山口自身、そしてサカナクションというバンド自体、テレビという媒体に対して、他のメディア媒体と比べて、強い嫌悪感を抱いている。やはり、芸能・エンタメ業界とそれにかかわる幾多の人々が栄枯盛衰を経てきたのはテレビの中であって、その栄枯盛衰に巻き込まれるのではないか、という思いがあるのかもしれない。だからこそ、テレビ、そしてその中で行われていることがマジョリティの象徴だとある種の畏怖を感じているのだろう。ちなみに、マジョリティ/マイノリティがさかんに言われ始める前、そして今でもオーバーグラウンドとアンダーグラウンドとの二項対立が意識されている(注6)。
 サカナクションの立ち位置としては、マジョリティとマジョリティの架け橋、通訳になりたい、マジョリティとマイノリティとの境界線をまたぐ存在になりたい、と山口は繰り返し語っている。例えば、2017年の遠山正道(スマイルズ)との対談で、山口は「個人的なもの、美しいもの(マイノリティ)と大衆的なもの(マジョリティ)、その間を重心移動してバランスを取っている」と発言している(注7)。これは、先述した「大きなお山にロープウエーでたまに行って戻って来る」ような動き方、つまりマジョリティとマイノリティとの間を行き来するという意味で非常に似ている。
 そして、ベストアルバム『魚図鑑』が発売される2018年には、曲をわけるカテゴリとして、浅瀬、中層、深海、という三項が使われる。浅瀬のカテゴリには『新宝島』や『アルクアラウンド』他 、サカナクションファン=マイノリティでなくとも、多くの人が一度は聴いたことのある曲たちが収録されている。一方、深海カテゴリには、『ティーンエイジ』や『映画』など、サカナクションのコアなファンのみが聴くような曲が収録されている。そして、深海カテゴリの曲が収録されているDisc 3 は、魚図鑑の初回限定盤のみにしか入っていない。Disc 2 の中層には、『白波トップウォーター』や『目が明く藍色』など、サカナクションのファンの間での人気曲(注8)が多く収録されている。
 つまり、マジョリティ/マイノリティの二項対立を用いれば、浅瀬カテゴリの曲はマジョリティ(ファン関係なく、多くの人に好かれる)、中層はマイノリティの中のマジョリティ(多くのファンが知っている)、深海はマイノリティの中のマイノリティ(ファンの中でもコアなファンしか知らない)として分類されうる。そして、これらの分類は光の当たり方に比例する。浅瀬は太陽からもっとも距離が短いので光が入りやすいが、深くなるにつれ、次第に光が入らなくなる。深海では光が入らず、暗闇である。だから、多くの深海魚は進化の過程で必要ない視覚がなくなる。

表面と深層

 ドゥルーズは『意味の論理学』のなかで、「意味 sens」という概念を分析する際に「表面」と「深層」という用語を用いている。そして、ドゥルーズはこれを言語論として文学作品における言語を例に、言語の意味について分析する。ドゥルーズは表面にルイス・キャロルと彼の作品である『鏡の国のアリス』、深層にはアントナン・アルトーを対応させている。
 『意味の論理学』の前半では、「表面」という実在的だが非物体的な概念が取り上げられる。表面は私たち言存在(parlêtre=言語がないと存在できない存在)、そして私たちが生きる世界の存在条件である。ラカン的に言えば、表面は象徴界である(ラカンにとって、象徴界は、現実界、想像界と並んで、私たちの精神、プシュケー psyche の一要素である)。そして、表面において、言語の意味は意味は出来事(événement)を表現する(意味=出来事)。その点において、意味は実在的である。ドゥルーズによると、名詞や形容詞はその意味が固定されているが、動詞という出来事の言語、純粋生成(pur devenir) が、名詞や形容詞のもつ意味の固定性を失わせる(注9)。
 例えば、アリスの名前は神によって、固定化された知識として保証されている。しかし、キャロルが言語を反転させ始めると、その保証はもうない。例えば、キャロルが能動態と受動態を反転させたり(「猫はコウモリを食べるか」が「コウモリが猫を食べるか」)、原因と結果を反転させる(何か悪いことをするまえに罰を受ける、など)と、アリスの名前は生成変化を免れない。「猫」、「コウモリ」、「何か悪いことをする」、「罰を受ける」といった実詞(substantif)は固定されているが、順序=動詞の働きを変えると、コウモリが猫を食べるようになるように、「コウモリ」という名詞の性質が大幅に変わる。ドゥルーズは、二つの意味が同時に起こるこのような状況をパラドックスだとし、このパラドックスはエミール・ブレイエ(Emily Bréhier)の言葉を使って、「表面 la surface」で起こるとする。
 だから、千葉雅也は『意味がない無意味』で、意味は無意味である、という矛盾を言うのだ。千葉によれば、意味は無意味で非物体的である。なぜなら、表面のパラドックスは意味の多方向への発散、無限の生成変化を意味しているからだ。これを千葉は解釈の無限性、接続過剰としての無意味、と読み替える。もはや、「コウモリ」という名詞に対して、解釈がありすぎて、なにを意味しているのかわからない。ラカン的に言えば、それは、あるシニフィアンについて、その宛先であるシニフィエを無限に発散するということだ。

『ナイロンの糸』=東京という表面への欲望

 サカナクションの楽曲において、ドゥルーズのいう「表面」がどのように機能しているのか、『ナイロンの糸』という楽曲を例にみてみよう。『ナイロンの糸』という曲はサカナクションの最新アルバムである『834.194』の Disc 2 の4曲目である。カロリーメイトのCM曲に起用されたこの曲は、アルバムの楽曲の中で最初にストリーミングサービス等で先行配信がされ、最も早くMVが公開された。つまり、サカナクションがこのアルバムをプロモーションをするうえで、戦略的に『ナイロンの糸』が重要な位置を占めていることがわかる。川谷絵音(ゲスの極み乙女。、indigo la End、ichikoro、ジェニーハイ)は『834.194』のプロモーション方法について、このように分析している。

「先行トラックにもなった『ナイロンの糸』は、サカナクション特有のサビがなかなか出てこない焦らし系の曲。この焦らしは『夜の踊り子』などとも共通しており、Bメロを何回か繰り返し、枯渇感をあおってから最後にサビがくる。

しかも『ナイロンの糸』は最初は抑え目の軽いビートで、2番のAメロから4つ打ちのビートが入り、徐々にサビを予感させてくるんですよね。でもなかなかこない。2番はBメロの前にさらに間奏が入って、Bメロすらも焦らされる。そんなことされたらより欲しくなっちゃうんですよね、サビが。そして最後に「この海に居たい」と何回も繰り返すサビ。夜の途方もなく暗い海の景色が、僕の頭には広がって離れなくなった。ズルい。最初の先行トラックがキャッチーな『忘れられないの』ではなく、この『ナイロンの糸』なのもズルい。

ストリーミングや配信では、アルバム情報を出した後に、徐々に先行トラックを解禁していき、アルバムを期待させていく手法が王道だ。そんななか、重要なのは解禁していくトラックの順番。最初に『ナイロンの糸』という、どちらかといえば地味な曲から出していったのは正解だと思う。これも一種の焦らしだ。」(注10)

川谷の言う通り、この曲は夜の暗く冷たい海が舞台として設定されており(注11)、ミュージックビデオ (MV) でも登場人物が東京湾を漂っているシーンが最後にある。しかし、重要なのは、語り手(歌詞における主人公)は比喩としての「この海」にはいないということだ。
 サビでは「この海に居たい」という詞が繰り返されることを川谷も指摘しているが、この詞をよく聴いてみると、ボーカル山口の発音では「このうみ」の「う」の音が消えていて、「このみにいたい」というように聴こえる。もちろん、この「う」を除いた発音には山口の意図がある。なぜ山口はこのように発音しているのか。もし、「このみ」を「この身」と、「いたい」を「痛い」というように捉えると、、次のような解釈ができるのはないか。つまり、「この海に居たい」というのは、あくまでも欲望なのであって、実際に「この海」にいるかといえばそうではない。この海に居(られ)ないのは、この海にいると、「この身」が痛くなってしまうからである。
 「この海に居たい」のあとにくる詞は「この海に帰った二人は幼気に」だ。同じく、一つずつ見ていこう。「この海に帰った二人」。「海」でもなく、「その海」でもなく、「あの海」でもなく、「この海」である。そして、どこかに帰る、ということは、そのどこかは自分にとって元いた場所であって、家のような、いて安心するところだ。「二人」にとって「この海」は元いた場所で、一旦そこから離れたが、戻ってきた。だが、「帰った」ということはさきの詞「居たい」と矛盾してないか。帰った、ということは、今は「この海」に居るということではないのか。この矛盾はつぎの詞で解決する。
 そして、この二人「は幼気に」、である。「幼気」は「いたいけ」と読むが、実はこの言葉には相反するような二つの意味がある。デジタル大辞泉(注12)によると、「いたいけ」の一つ目の用法は「子供などの痛々しく、いじらしいさま。」で、例文には「幼気な遺児」とある。二つ目の用法は、「幼くてかわいいさま。」である。一つ目の用法の例文に出てくる「遺児」というのは親が死んだ子供のことだから、親がいないという悲しく、あわれでかわいそうなことに焦点を当てた用法である。一方で、二つ目は子供のかわいさに焦点を当てている。また、デジタル大辞泉にはこの語の由来も書いてある、「「いた(痛)きけ(気)」の音変化で、心が痛むくらいいじらしいさまをいう」。つまり、由来から見ると、「幼気」のもともとの意味は一つ目の用法である。したがって、「この海に居たい」の「いたい」は音声的に、「幼気に」の「いたい」は意味的に両方とも「痛い」、である。これは、ドゥルーズのいう deux sens à la fois (一度に二つの意味) である。つまり、「いたい」という言葉が二つの意味を同時に訴えてくるのだ。しかし、もとをたどれば、「居たい」と「幼(いたい)」であって、この海に居たいという欲望の幼さ、かわいらしさが痛さの裏側に残っているのだ。
 さいごに、「この海に帰ったふりをしてもいいだろう」という詞を二つに分解してみよう。まずは「この海に帰ったふりをしても」である。デジタル大辞泉によると、ここで使われている意味での「ふり(振り)」とは「見せかけの態度や動作」という意味である。つまり、「この海に帰ったふりをしても」実際にはこの海には帰らないが、見せかけでは帰ろうとしている、ということになる。これによって、さきの二つの詞の矛盾は解決する。つまり、見せかけでは「この海」に帰って、居るが、本当は居ない、ただ「居たい」という欲望があるだけだ。見せかけでは帰ろうとしているということは、他人には自分がこの海に帰ったことを見せたいということだ。
 二つ目は「いいだろう」の部分である。同じ辞書(デジタル大辞泉)で調べると、「《断定の助動詞「だ」の未然形+推量の助動詞「う」》不確かな断定、あるいは推定の意を表す」と書いてある(注13)。「だ」と言う時点では、この海に帰ったふりをしてもいいと断定的に思ってはいるものの、「ろう」をその後に言うことで、本当に帰ったふりもしてもいいのか、と疑問を持っている、というよりも、ある程度勝手に、根拠なく断定している。「いいだろう」というのは、この海に帰ったふりをすることに対する承諾を得たいので、勝手に自分で承諾した、ということにもなる。語り手は「この海」に居たいけど、この海にいると、身が痛いので、いられない。いられないけど、いるふりをして、それを他人に見てもらいたい。他人に見てもらうには、海の表面にいる必要がある(表面にしか光は当たらない)。しかし、表面にいると、痛い。
 山田智和監督のミュージックビデオ (MV) を見ると、「二人」の表面への欲望が伝わってくる。青年は溺れないように、海に沈まないように、必死に水の表面をかいている。必死に表面に残ろうとしている。女性の爪の表面にはターコイズブルーのマニキュアが美しく塗ってある。そして、二人がシャワーを浴びているシーンは印象的だ。とくに、肌の表面の水滴の描写が、これも美しい。
 このMVと先ほど分析した歌詞を比べてみると、つぎのことがわかる。歌詞にある「この海」は、MVでは東京湾という設定になっていて、歌詞の語り手もMVの主人公である青年も「この海」=東京湾を欲望している。東京という場所には異常なまでに光が当たる。ビルたちは真夜中になっても光を発し続ける。物理的な光だけではなく、東京の空気じたいが暗闇を粉砕する。そんな光あふれる東京という場所にいたいが、いるふりをしている、いるふりをしていることを自分で承諾している。しかし、表面の刺激が痛い。シャワーの熱さ、除光液の刺激。二人の肌の表面が交じり合う、混ざり合う。そうでもしないと、この表面への刺激には耐えられない。この「二人」の関係性は表面でだからこそ、成立する。換言すれば、表面でなければ、「二人」の存在、あるいはその関係性の存在が成立しない。「猫」と「コウモリ」の関係性、あるいは「何か悪いことをする」と「罰を受ける」の関係性は動詞の働きを変えると、変わるが、関係性自体は続いている。つまり「猫」と「コウモリ」を反転させても、「猫」と「コウモリ」は何らかの形で関係している。つまり、表面では、「二人」の関係性の内容は変わるが、その関係性の存在は継続する。
 東京という街では、「二人」が人間の最小の単位である。東京への憧れは、関係性への憧れでもある。「プロのミュージシャンにとって、ライブやプロモーション、音源制作など、さまざまな面で東京での活動は効率が良い。早くから情報テクノロジーに敏感だったサカナクションも、その点を踏まえて上京したはずだ。しかし、ミュージシャンに限らず、東京は必ずしも人の幸福を約束する場所ではない。多くの人との出会いが、また忙しない生活や立ち込める不安感が、心をすり減らすこともあるだろう」(注14)。インターネットという情報テクノロジーはサカナクションを早くから関係性を構築することには役に立ったはずだが、その関係性が必ずしも良いとは限らない。ある種の、関係性をつくらなければならない圧力に押されて、皮肉にも孤独感を覚えるのが東京という街だ。

「二人」もしくは、関係性

 MVに出てくる二人はほんとうのカップルだという。監督がカップルを採用したのは、カップルの間にある情動がないと、表面の刺激が耐えられないと監督が考えたからだろう。だからこそ、MVは二人が(青年だけではないことが重要)沖のほうから岸へと歩いてゆくシーンで終わる。だが、私たちは、歌詞にある「二人」は恋人・カップル同士である、と結論づけることはできないだろう。詞をつくった山口はこの「二人」の関係性を恋人には限っていない。山口自身、「二人」イコール恋人という現代のポップシーンに反抗していると考えると、当然のように思える。「二人」イコール恋人を前提としているような曲を、俗にラブソングと呼ぶが、山口はこのようなラブソングを(2016年末時点で)つくったことがない、少なくともそれと直接的に伝わるような曲がないという。

「サカナクション、今までたくさんの曲を作ってきました。来年で10周年ですよ!そんなサカナクションにはひとつ大きな特徴があります。それは……

ラブソングがない!

……ないわけじゃないんだけどね。ラブソングだって伝わりやすい曲がない。そういう状況に今追い込まれているんですね。世の中はラブソングで溢れています。どこのデパートに行っても聴こえてくる音楽はラブソングだし、スーパーのオルゴールとかになっている曲までラブソングだと。たくさんのミュージシャンがたくさんのラブソングを歌っています。そして、多くのリスナーに共感を得ているわけですね。だがしかし、サカナクションには……

ラブソングがない!

……ふふふ(苦笑)。分かりやすい、ストレートなラブソングを作ってこなかった理由はいくつもあるんですが、(後略)」(注15)

いま引用した山口の言葉は2016年12月頃に放送されたラジオ内の言葉なので、2016年10月19日にリリースされたシングル『多分、風』も、その時点で、いままで山口がつくった曲に入っていると思われる。『多分、風』という曲には、「あの子」という表現が出てくる。そして、歌詞のなかの語り手と「あの子」との関係性が描かれる。明らかに、『多分、風』のほうが『ナイロンの糸』よりも「ラブソング性」が強いが、山口は『多分、風』をラブソングとしていない。そうすれば、『ナイロンの糸』における「二人」も恋人同士と解釈しないこともできるということだ。MVの山田監督がそう解釈しただけであって、私たちがそう解釈しないといけないとは限らない。この「二人」の関係性に対する解釈は無限にある。これが千葉=ドゥルーズのいう、表面における意味解釈の多方向への発散である。しかし、山口も山田監督の両者とも、「二人」の関係性がなければ、表面に居続ける、もしくはいるふりをし続けることはできない、という点においては一致している。この関係性がなければ、表面から逃れる必要がある。では、表面から逃れたら、どうなるか。ドゥルーズによると、表面の下には「深層」がある。

注1:TOKYO FM「SCHOOL OF LOCK! UNIVERSITY サカナLOCKS!」2019年6月14日放送回より引用。
>この曲はもともと「マイノリティ」っていう仮タイトルが付いていたんですよ。歌詞の中にも「マイノリティ」って言葉が出てくるんですけど、結構この言葉ってセンシティブじゃないですか。性的マイノリティや民族的マイノリティも含まれるから。でも、僕が言いたかったのは、みんなが好きと言うものを好きと言いたくない……自分の中に本当に好きなものがあるっていう、それを選ぶっていう性質のマイノリティだったんだけど。それを「マイノリティ」っていうタイトルにしちゃうと全部含んでしまうので。違った表現ができないかなっていうので「モス」っていう……虫の蛾ですね。それをタイトルにして完成させた曲です。
http://www.tfm.co.jp/lock/sakana/index.php?itemid=13144%2522
注2:「NEWS23」スタッフノート、「【永久保存版】サカナクション山口一郎×NEWS23小川彩佳「本当に正しいことは、最初はいつも少数」より山口。「クラスの中の20人にイイネと言われるものを作るのは、ちょっと自分にはできないけれど、クラスの中の1人か2人に深く刺さる音楽を作ることはできそうというかんじです。」(http://note.mu/news23/n/nb7a1138b21ef

また、Forbes JAPAN の山口へのインタビュー記事。「たとえば、高校のクラスの30人の中で20人に評価される音楽をつくるには、マイノリティである自分を捨てなければいけない。でも、1人か2人に深く刺さる音楽なら、やり方を少し変えればできるかもしれない。」(Forbes JAPAN 編集部、「サカナクション山口一郎「20代は、影響受けるものを自分で決めない方がいい」」、2018/7/26、 http://natalie.mu/music/pp/sakanaction05/page/3
注3:水白京(毎日新聞デジタル)、「サカナクション:ボーカルの山口一郎に聞く「大きなお山のマイノリティーでいたい」」、まんたんウェブ、2012/9/1、http://mantan-web.jp/article/20120901dog00m200024000c.html
注4:MUSICA編集部、「マジョリティの中のマイノリティをさらに極めたサカナクション、鮮烈な2013年を語る」、2013/12/16、http://musica-net.jp/articles/preview/3915/ 内の画像参照。
注5:MUSICA編集部、「マジョリティの中のマイノリティをさらに極めたサカナクション、鮮烈な2013年を語る」。
注6:例えば、2009年のブログ記事(山口一路、「アンダーグラウンド、オーバーグラウンド。」、サカナクション一路の『魚と音楽』、2009/11/19、http://sakanaction.blogspot.com/2009/11/blog-post\_19.html)や2015年のインタビュー記事(「サカナクション・山口一郎インタビュー(後編)
30年後の音楽?」、美術手帖、2015/7/1、 http://bijutsutecho.com/magazine/interview/234)。また、SAKANATRIBE 2014のライブDVDの初回生産分にはOVERGROUND-UNDERGROUNDステッカーが封入されていることを覚えている(cf. SAKANATRIBE 2014 -LIVE AT TOKTO DOME CITY HALL- SPECIAL WEBSITE、http://www.jvcmusic.co.jp/sakanaction/sakanatribe2014\_special/)。
注7:「サカナクション・山口一郎とスマイルズ・遠山正道が語る「音楽とアートのシナジー」」、美術手帖、2017/11/1、http://bijutsutecho.com/magazine/interview/8448
注8:2017年5月9日に新木場スタジオコーストで開催されたサカナクションデビュー10周年記念イベント「2007.5.9-2017.5.9」で発表された、ファンサイトの投票による結果では、『目が明く藍色』が1位、『白波トップウォーター』が2位にランクインした。

注9:依っている原文は、«Mais quand les substantifs et adjectifs se mettent à fondre, quand les noms d'arrêt et de repos sont entraînés par les verbes de pur devenir et glissent dans le langage des événements, toute identité se perd pour le moi, le monde et Dieu.» (Gilles Deleuze, “Logique du sens,” Les éditions de minuits, 1969, p.11)
日本語訳は、「だが、名詞と形容詞が解け始めると、そして、固定されていた名詞/名前は純粋生成である動詞によって突き動かされ、出来事の言語の中で滑ると、すべてのアイデンティティが自分の中で、神の世界で、迷子になる。」(筆者訳)
注10:川谷絵音、「サカナクション、常にトレンドのバンド(川谷絵音)」、NIKKEI STYLE、 2019/10/2、http://style.nikkei.com/article/DGXMZO48577960V10C19A8000000/)。
注11:「このまま夜にかけて」で舞台が夜に移っていることがわかり、「たぶん少し寒くなるから/厚着で隠す」で夜の寒さ、冷たさが伝わってくる。海という場所はサビにたくさん出てくる。
注12:「幼気(いたいけ)の意味」、goo辞書、http://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B9%BC%E6%B0%97/
注13:「だろうの意味」、goo辞書、http://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%A0%E3%82%8D%E3%81%86/#jn-139438
注14:小池宏和、「サカナクションは始まりの場所「北海道」から「東京」までの距離と繋がりをこのように歌い続けてきた」、rockin'on.com、2019/6/6、http://rockinon.com/news/detail/186749
注15:TOKYO FM「SCHOOL OF LOCK! UNIVERSITY サカナLOCKS!」、「サカナクションでラブソングを作りたい。」、2016/12/15、http://www.tfm.co.jp/lock/sakana/index.php?itemid=9117&catid=17

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