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ズームレンズキットがもたらしたもの

今回、とっても長いです。9000字超えです。また、言葉選びがちょっと雑な気がします。それでいて中身はさほどかもしれません(それはいつものことですね)。

使いづらいエントリー機


 以前、上記のような記事を挙げたのだが、最近こんなことがあった。
 10代のカメラを始めたばかりの子が、カメラを持ってきて、
 あの、これ、ボタンを押しても動いてくれないんですけど。
 見てみると、ボタンとはシャッターボタンのことで、それでフォーカスが効いて、ピントが合った時にピッとなってくれないというわけだ。
 あ、マニュアルフォーカスになっているのね、と、写真趣味の方ならわかるだろう。フォーカスに関わる設定を無意識に触ってしまったのだということもあるあるとして推測できる。

 カメラは某大手のミラーレス。エントリー機。白いボディが可愛らしい。が、操作性に関しては可愛くない。ビギナー向けではないのだ。

AFの測距点の数、その測距点を気楽に動かせるスティック、水平垂直を知らせる装置、SD等のダブルスロット、とにかく広いファインダー。これらは、写真をしっかり撮るのに有効に働いてくれる。(それに対して)例えば他にもEOS kissは露出を変える時、露出ボタンを押しながら、ダイヤルを回すという煩雑(ってほどでもないけれど)さがあったが、EOS二桁機からは、後ろのコントロールホイール(サブ電子ダイヤルですね)で調整できた。その動作の差はさほど大きなものではないとは思うけれど、露出を変える、という写真の写りの根幹を為すところが、2アクション必要……つまり、説明書を読まなければできない、というのはやはりちょっと面倒だ。
 何が面倒かと言えば、ハイアマチュアは露出を変えるという概念を知っているから、2アクションだとしても、それをどうすべきかを探すだろう。しかし初心者には、そういう機能があるとは知らないわけで、全自動からAVモードとかTVモードへと移行するには壁ができてしまう。しかし中級機以上はそういう「ちょっとした動きも省略したい」ということでできているので、その辺はより直感的にできているはずだ。そしてその直感的な、というのが初心者には大事で、残念だけれども、説明書を逐一読みながら撮影する人はそういないのだ。


 リンクしているエントリのなかの一節だ。そんなわけだから、この子がカメラのピント合わせが自動でできない、というより自分で合わせることができる仕組みがある、ということも知らないのは当然だろう。

 さてメニューを掘って、マニュアル設定を戻さないと、と思ってふとカメラの背面を見ると、十字キーの左側に小さくMFと書いてあるではないか。なんだい、めちゃくちゃ簡単な話じゃん。
 ポチっと押して、AF復帰。MFの意味さえ知っていれば簡単な話だった。だが、それが初心者には分からない。なのについ押してしまいがちなところにあるから、なにも分からない人にはパニック必至だ。それで色々自分でいじって見てくれれば覚えるのだろうけど、何がどうなっているのか分からないのに、とにかく色々触ってみるのは怖いはず。
 取り説見ろ、という話でもあるが、これまた難しい。
 何故なら、マニュアルフォーカスにしたい、というのなら取り説の項目を調べられるが、オートフォーカスできなくなった、どうする?という逆引きはできないから。

 あのさ、ここ、メニューってのがあるでしょ?

オートフォーカスに戻したあと、僕は言った。

 で、ここの…
 んーどこだろ、あれ、分かんねえな、
 あ、あった、これね、これ設定を初期状態に戻すやつね。カメラはボタン適当に押しても壊れないからさ、とにかく色々押してみたりしてごらんよ。それで何が何だか分からなくなったら、さっきのところ押せば初期状態になるからさ。

 これは僕が初めて一眼レフを触りだしてやってきたことでもある。分からなくなったらとにかく初期状態に戻したれ、と。それでカメラについてはなんとか理解した。露出の仕組みは流石に本を買って覚えたが、あの複雑怪奇な操作性をこれまた分厚い説明書を読んでまで覚えようとはならない。
 きっと彼女も、そこまでやることはない気がする。そこまでカメラにハマっているわけではないからだ。

 だいたい、僕の最初の一眼レフは露出補正の仕方もよく分からなかった。そのボタン押しながらダイアル回すって、初心者がわかるわけないだろ、と。

 今回、初期設定に行き着くのも大変だった。いや、これ簡単に行きついても大変である。わけわからないうちに押してしまったらパニックになるだろうし。


 カメラボディがそうであるから、そんなのよりは楽ちんなスマホで十分だし、使い方も直感的でいい。
 となればカメラはますます売れなくなる。それでもカメラを使いたいとなる利点が見当たらないのだ。とくにエントリー機は。

 さて、ようやく本題。今回、そんな複雑な仕組みでもカメラを使いたい、とはならない理由の一つとして、ズームキットレンズを挙げてみたいと思う。

キットズームレンズではカメラを持つうまみが少ない

 キットレンズはどこの会社のものでも写りも悪くないし、軽いし、押さえるべきはきちんと押さえているレンズだと思う。とりあえずダブルズームキットを買っておけば、日常の行事やなにやらは撮れてしまうし、カメラをそう言った家庭の記録に使うには充分だった。でも、今やそういうシーンはスマホで事足りるし、望遠を使ってまで記録に残そうとはしなくなっていると思う。むしろ動画で記録した方がいいし、スマホの画面で見るからデジタルズームを使ってもさほど画質が落ちているようにも見えない。
 それで充分だと感じるのだ。記録として残すのであれば。

 確かにカメラがめちゃくちゃ売れていた頃は、そのズームレンズキットがもたらした恩恵は大きいと思う。けれど今となっては、それが仇になっているように思う。キットレンズのせいで、カメラでもスマホでも写りはたいした差がないよな、と思わせてしまったと考えるからだ。

 キットレンズは総じて暗い。したがってボケない。スマホとの差異化をはかりやすい望遠は、確かにボカすのにいいけれど、日常の使い勝手は良いものではない。さらに言えば、小学校の広いグラウンドだと、望遠が足りないとすら思う。対して、望遠が伸びるほどピント合わせがつらくなる。コンティニュアスAFなんかも設定できることを知らなければ、連写をしてもピントは来ないし、またフォーカススピードがついてこない場合もある。

 そんなよりは、スマホでタップ、ピッとしてパシャリの方が話は早い。きちんと写すために考えなくていい。考えるのはどうやって表現するかだけ。それすらさまざまな加工がワンタッチでできてしまうし、記録だけならそんなこともしないでいい。むしろ動画で撮った方が臨場感もあるし、切り取れば写真になる。人はますます考えることの楽しみから忌避するところに、享楽を覚える。それでいて、ぱっと見の画質に大きな差があるようにも見えない。

 そんな状態でカメラは、その裾野を再び広げられるだろうか。

 ミラーレスになってから、小型軽量のカメラが出てくることを期待していた。だが実際はボディの大きさは変わらず、むしろ肥大化しているものすらある(価格も)。α7の初代と4番目の厚さの違いたるや。3と4でもだいぶ違う。レンズも大きい。いやはや大きい。ミラーがない分小型化できるんじゃなかったの?
 でも、これは仕方がない気もする。小型軽量を追いかけて行けば、それは結局スマホに勝るものはないから。だから高画質を謳わねばならない。しかしその高画質とは、初心者にとっては解像度のことではない。だってスマホでOKなんだから。

良さがわかりやすいカメラとは

 じゃあ、初心者にとっての「高画質」ってなんなのか。
 それは、ボケだと思う。
 スマホのポートレートモードではなかなか出せない自然なボケ。それがスマホとの差異化をはかれる要素になりうる。

 キットレンズを槍玉に上げてしまったが、改めて言うと、単体で見た時このレンズは決して悪いものではない。軽さ、手頃なズーム域、価格、寧ろ用途によっては使い潰してもいいかとなるような、めちゃくちゃいいお手軽レンズだ。だが、ボケを生かすことができない分、カメラという趣味の間口を広げるための、スマホとの差異化を、自ら閉したレンズでもあると思う。

 だからこそ、今こそカメラはそのキットレンズを単焦点にしてみるべきではないかと僕は思う。

 外装をプラにしてもよい、F1.8とかF2でもよい。それでもできれば質感にはこだわってほしいところだが、とにかく35mmか50mm、そして28mm、僕なら28-50の組み合わせが一番いいように考えるが、なんなら28-35-85の組み合わせから2本選ぶなんて楽しさがあってもいい。つまり、これ、キットレンズを2本セットにしてしまえ、という発想だ。28mmのみとか、50mmのみのキットがあってもいいし、ダブルプライムキットでも販売して、レンズ交換の楽しみも提供する。スマホの焦点距離は換算28mm近くだしね。箱の問題でコストがかかるなら、別売りにして、同時購入特典で安くするとか、そんなシステムにしてみるのはどうだろう。それでいや、運動会が撮りたいんです、という方には同じように指定の望遠をつけるとか。

 今からカメラを購入しようという人は、稀有な存在となりうる。カメラを手にするきっかけは、多くがライフステージの変化だったりするとは思うけれど、そのなかでもスマホで全然問題ないし、時代は動画だし、と、あえてカメラを選ぶ人は以前より多くはないと思う。
 あるいは何か趣味を始めたいと、その選択肢にカメラを入れる人はどのくらいいるだろう。スマホカメラで撮るのが楽しいと感じる人が、選択肢に入れてくれるか、いや、スマホで充分だと選択肢に入れないか。どちらだろう。

 僕のように旅をしてカメラの楽しさに気づく人もいるだろう。でも、これもスマホで充分だとなるかもしれない。可搬性、加工の手軽さ、発信力、繰り返すがこのあたりでカメラが勝てる要素はない。

 だからこそ、我々はこんなことができまっせ? というインパクトが欲しいのだ。それがレンズを交換できること、そして背景を綺麗にぼかせること、これなんじゃないかなと思うのだ。

スマホというカメラとの差異化のために

 いろんなメーカーのカメラを見ると、そのキットレンズはあいもかわらずズームレンズが多い。画質は良くなっているだろうけど、絞り値は以前より暗めのものがあったりさえする。小型化目的と高感度が良くなっているからなんだろうけれど、それでスマホからカメラに移行するには訴求力が足りないように思う。店頭で気まぐれに触ってみて、直感的にカメラを触れて、撮ったものがモニターに映し出されたときにうわあ!と感動してもらわなくては、カメラ始めようとはならない。何これ重いわりになんも変わりないじゃん、で終わってしまう。

 以前、ソニーのα900が店頭にあって、なんの気無しにファインダーを覗いてみた。ついていたレンズは50mmf1.4の単焦点レンズだったと記憶する。覗いた途端、うわっ、と小さく声が出て漏れた。自分が使っているカメラよりファインダー内部は暗目だが、ピントが合っているところとそうでないところがしっかり分離して、所謂ピントの山が掴みやすかったのだ。ただただ、ファインダーを見ていたくなった。このファインダーの性能はミノルタから受け継がれたものだと聞いたことがあるけれど、だからこそ、その後、ソニーがファインダーを電子ファインダーにしたことが、どうしても解せなかった。確かにその後、ミラーレスになり、フルサイズカメラが出て、破竹の勢いにはなったし、ファインダーを売りにしたカメラを開発し続けてもニッチな商売にしかならないとは思うけれど、これは、素晴らしい性能だったと今でも思う。



 スマホにカメラが喰われ始めたころを思い出して欲しい。いやあ、やっぱりカメラは別物だよ、とならなかったのは何故かを考えて欲しい。
 日常はスマホで充分となっている今だからこそ、趣味なら本気で、を実現していく方向性が大切なんではないか、多機能、高機能のカメラは確かに必要であって、より確実に被写体を捉えたいという要望を叶えるそのようなカメラは、やはりどうしても高くなる。が、そこには数としては少ないものの確かな購買者層が存在する。そんな趣味なら本気で、なカメラは必要だ。
 あるいはニッチなカメラ。インスタ360的なものもそうだが、所謂カメラ!の形をしたものでも、ペンタックスが出したモノクロ専用機とか、xproシリーズみたいなものとか、こういうものもカメラの面白さを訴求するものだろう。
 だが、エントリーユーザーに響くか、といえば、モノクロしか撮れないとか、液晶ファインダー使えるのに、光学ファインダーで撮る意味が分からん、とか、そういうことになるのではないか、と思う。
 それよりは、説明書がいらないくらい直感的操作ができて、デザインが良く、首からさげていたくなるような見た目で、出てくる絵が、パッと見で、明らかにスマホとは違うものが出てくるようなカメラシステム、そういうものをエントリー機として出すのがいいんではないかと思うのだ。

 そしてそれは、以前書いた、初心者様のカメラは難解にしてみては、ということと矛盾しない。露出のための絞りやシャッター速度の調整は、仕組みを知らなくてはできないが、それを変更するためのアクションはできるだけシンプルに、という意味なので。

長い余談を経てみる。

 これを別の視点で見ると、オタク文化の大衆化と似ているところがあることに気づく。いや、カメラというモノとオタク文化というソフトでは比べようがないのだけれど、でも似ていると思う。

 オタクはどの分野にでもいるのだけれど、この場合のオタクという単語は、所謂アニメとかアイドルとか、パッと想像に浮かぶ、そういう世界を指すことにしておく。


 僕が学生の頃はいわゆるオタク文化はまだまだ日陰の存在だった。そういうものが好きだと言えば、後ろ指を指されるに決まっていた。僕はアニメは好きだが、そこまでハマるほどではなかった。友人はコミケにも並んで行っていたらしい。あるいはアイドルオタクの子はライブに行くし、毎回10分番組をきちんと録画しているような人で、とにかく楽しそうだった。

 彼らは学生寮の友人なのだが、アイドル番組を友人が黙々と視聴している間に、同部屋の東大生が机に向かって勉強している光景はなかなかシュールだった。しかししばらくするとその東大生も一緒になって、その番組を観るようになった。面白いものは伝播するのだ。

 とはいえ、やはり後ろ指は指されたものだった。僕もアマチュア無線の免許を持っていたのだけど、そのことを知られたら変人扱いされたくらいだから、そんな時代だったのだろう。それに比べたらいい時代になったじゃないか。

 今のオタク文化は当たり前のように日常で目にするものになった。
 関心がなくても、そういうのが好きな人がいる、ということをふうん、と受け入れる土壌がある。男子高校生が、美少女アニメらしきもののグッズを持っていたとして、そこまでドン引きはしない…んじゃないかな。うん、しない、しないと思うよ。

 …するかも。
 でも、普通に田舎町を歩いていても、それアニメのTシャツですよね、という服装をしている人もいるし、コスプレだとか、写真撮影している光景を、この田舎町でも見かけるというくらいだし、職場のデスクにフィギュア飾っている人もいるし、市民権はきちんと得ているような気がする。本当にこれはいい時代だと思う。好きなものを好きと言える世界は絶対にいい。

 知人に撮り鉄がいる。学生の頃からお世話になっていた先輩だが、その時は鉄だということなど一切知らなかった。最近久々に会って、いつから鉄道にハマっているんですか?と聞いてみたら、いや、子どものころからだよ。でもあの頃は鉄道好きなんて言ったら、白い目で見られたでしょ?と答えてくれた。 今はそんな状態じゃないからね。とも。

 市民権、つまり、昔ならそんなもの見てるんだ、的敬遠をなされていたものが、当たり前に日常にある、日常的にあるのが普通になる。そういうのが好きな人もいるよね、とか、僕もそれなりに観る方だよ、という人が出てくる。そんな状態になった。かなり前にニコ生放送というのが我が街にやってきたとき、普段は人のいないはずのこの街に相当の人が集まってきたのを思い出す。文化の一般化が起きるのだ。
 そうなると、その文化は経済的な繁栄をもたらすことになる。それと同時に、世にいうオタク文化は、広がった裾野を土台としてますます深化していく。よりディープな世界を夢見て、普通の人ならしないようなことをすることを楽しいと感じるようになる。
 誰かが言っていたが、どんなジャンルのオタク文化でも、それが世間一般に受け入れられていくと、よりダメな方向にハマっていく人がいる。本当のオタクとはそうあるはずだ。と。

 同じCDを複数枚購入することで○○の権利をゲット、とか、複数のジャケットで販売とか、いや、もっと深みがありそうだが、とにかく、ふつうに好きな人よりも、もっと好きだという意思を高揚させるような仕組みにハマっていく。こうしてライトユーザーとヘビーユーザーの構図が出来上がる。圧倒的なライトユーザーを土台に、ヘビーユーザーが頂を目指す。

 カメラ文化との違いは、オタク文化のその構図が、他のなんらかの文化に浸潤されていない、ということだ。

 カメラ文化は、元々はその操作の難しさもあって、使う人は限られていた。一家に一台となっても、それを扱うのはお父さんで、写真趣味の人、というのは、絞りやシャッタースピードの関係を把握して、自分で露出を考えてきた。そしてそれは、だんだんと自動化、つまり誰もが扱えるものへと進化してゆき、そうすることで、カメラ文化は広がってゆく。そこにデジタルカメラの登場、仕組みの分からない人でも、とにかく押せば写るというようになり、カメラはどんどん普及していった。これ、まるでオタク文化の広がりと似てはいまいか。

 ところが、スマホの台頭によって、ライトユーザーのパイが激減してしまった。よってカメラはエントリー機、つまりは初心者に優しいカメラではなく、そのものズバリ、廉価機が売れなくなり、メーカーも積極的にそのバリエーションを増やすことは少なくなった。ここがオタク文化との違いである。オタク文化は他の分野からの浸潤がないように思うのだ。
 むしろカメラはコンテンツではなくモノなので、ここではオタク文化としてのアニメや映画がVHSから DVDへ、そしてネット配信へと移行していくウチに、街のレンタルビデオ屋さんが廃れていくことの方に似ているのかもしれないが。

 その一方で、ハイエンド機はさらなる高機能化を目指していく。だが、それに伴ってボディもレンズも価格的にかなり高くなっている。気楽にカメラ始めようかなとネットで調べていたページをそっと閉じてしまう。ハイエンドだって、機能と価格、そのバランスはちゃんと比例しているとは思えない。まだカメラの世界に潤沢なエントリー需要があったなら、ハイエンド機ももう少し安くできているのではないか、と思う。

 オタク文化が大衆化していったように、広い裾野が維持されていれば、ハイエンドユーザーとのキレイな、富士山ようなバランスのヒエラルキーができていたと思う。しかし今、そのエントリー層が痩せ細って、カメラ趣味の人々の構図はとても歪になってきている。これはいずれステレオコンポのような世界になっていくことを想像させるにかたくない。
 そうすれば待つのは、ハイエンドの進化の鈍感だ。ハイエンドユーザーの総数はさらなるスマホのカメラ機能の発展によって、だんだんと減っていくことが予見できる。となれば、カメラメーカー大手はそのいくつかが撤退していき、価格は上がり、その割には機能的には価格に追いついていないようなシロモノが増えていく、そんな未来予想が成り立ってしまうのだ。

 だが、今はまだ、潜在的にカメラを欲する人がいるのだ。なぜならカメラ文化は下火だとしても、写真文化は相変わらず残っているからだ。アニメを観るのにDVDからネット配信に変わったようなものだ。写真を撮るのにスマホでいっか、となっているだけで、写真を撮らなくなったわけではない。そんな人がとてもキレイな写真を撮りたいとなったとき、スマホに負けない部分は、センサーの大きさと、豊かなボケではないか。つまり、どうしてもそれが好きならDVDを買うでしょう?と。

 そこをしっかり訴えかけてくれるエントリー機の登場、繰り返しになるが、例えばそれは、機能としてはさほどでなくとも、(単焦点レンズをキットに、と書いたところでプラでも構わないとは言ったものの)モノとしての作りもよく、デザインもいい。それでいて単焦点レンズの良さをわかりやすく伝えられるようなキットレンズの設定。要はニコンのZfcがやろうとしたことを、もう少し突き詰めていくことが、カメラ文化の維持をもたらす要素になるのではなかろうか。

 あれこれ書いたが、やはり僕は思い違いをしているのかもしれない。
 先ほども挙げたようにオタク文化とはソフト面であって、カメラ文化はハード面、つまり比較するなら、写真文化をこそあれこれ考えてみるべきなのだ。すると写真を撮るという文化に関しては、少しも衰退していない。むしろSNSの広がりもあって写真はもはや全ての人が撮るものとなった。そしてそれを成し遂げたのがいつも持ち歩くスマホであって、カメラは、カメラという重くて、大きくて、黒いものを敬遠している、というに過ぎない。
 だから果たして、このカメラ需要が、ボケるレンズのキットレンズ化、オシャレな外装といったことだけで元に戻るかと言われると、ここまで書いておきながら、それはちょっと難しいかもしれない。どんなに手軽で軽くても、スマホの携帯性には叶わないのだ。
 けれども、だからこのままハイエンドユーザーをターゲットにした商売を続けようとして、それが上手くいくとも思えない。パイは減り続けていく。ライトユーザーを取り込まなくてはならない。そのユーザーが、スマホからいかにカメラへシフトアップしてくれるか、(スマホで写真を撮る人にとってはむしろシフトダウンとすら捉えられかねないことも踏まえて)それは、カメラを写真文化にどのように再び最適化していくかということを、つまりは重くても持ち歩きたくなるカメラとは何かということを、オタク文化も含めた、裾野が広い分野のものに学んでいく必要はあるのだと僕は思う。

 スマホという何でもできる、軽い、小さいという存在を超えて、持ちたくなるカメラは、少なくとも暗いF値のズームレンズにその答えはないように思う。オタク文化が、その裾野を広げているのは、それがきちんと分かりやすい面白さを持つからだ。価格や、内容のディープさで、門前払いする、ということがないからだ。しかし、その扉を開けた先には、しっかりと沼が待っている。そこにハマることがいいことかどうかは別として。でも楽しい。楽しいから用意された深みへと、その歩みを強くする。

 カメラも同じだ。わかりやすい面白さ、つまり単焦点レンズの、一発でわかるキレイさ、これが必要だと、思う。そしてそこから内容のディープさ、つまり高機能なカメラたち。とびきりぼかせるレンズや、あるいは寧ろ、F値の暗い、けれどコンパクトなズームレンズ。そういう深みにハマっていく道があるといい。
 エントリー機には、とにかく全部が写せるズームでしょ、から脱却しないと、写真の面白さは分かってもらえないような気がする。

息子も鉄オタだ。教えてないのに色々知っていて教えてもらう。弁当はこれに入っていれば中身はもうなんでも良さげである。



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