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世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 春ですね。急に暖かくなってきました。仙台でも桜が咲き始めているようです。
 春に桜といえば思い出すのが在原業平の歌。

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

在原業平

反実仮想とは何か

 「世の中に桜というものがなかったならば、春は心穏やかに過ごすことができたはずなのに(実際には桜のせいで心が乱れてしまうことだ)」という歌です。

 古文では「〜せば〜まし」という反実仮想の構文として習う句ですね。「ましかば〜まし」という形で覚えろと言われた人も多いでしょう。
 「のどけし」(のどかである)という形容詞を「のどけからん」と結ぶのではなく、「のどけからまし」と結んでいるので、反実仮想だとわかります。

 反実仮想とはなんでしょうか。
 たとえば「明日晴れたならば、外出する」という場合の「〜ならば」は、実際にあり得る仮定です。
 一方で、「もし私が鳥だったならば、飛んでいけるのに」といった場合の「〜ならば」は、実際には起こり得ないことを仮定しています。このような仮定のことを「反実仮想」と言います。あなたは鳥ではありません(今のところ)。しかし、字面だけ見ると本当に自分は鳥であると思っている可能性も否定できません。鳥人間コンテストなんてものもありますし、本当に鳥になれると信じていると思われるおそれがあります。
 
 そのような誤解を招かないために、反実仮想の構文が用いられます。

単なる仮定文、

「我鳥ならば、飛んで行かむ」

では、鳥になれると思っている可能性を排除できませんが、

「我鳥ならば、飛んで行かまし」

とすれば、「ああ、行かましというのは反実仮想だから、話し手は自分は鳥ではないとわかっているんだな」と読み手は安心することができます。

のどけからまし

 というわけで「世の中に絶えて桜のなかりせば」を「のどけからまし」と反実仮想の「まし」で結んでいるので、「(本当はそんなことがなくて現実は逆なんだけれども)世の中に桜というものがなかったならば」というニュアンスが出るわけです。

返歌

 この歌に対する返歌もあります。『伊勢物語』の中で、在原業平が詠んだ前掲の歌に対して、

散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき

詠人知らず

という返歌が返されています。

 平安時代には、人々は和歌でコミュニケーションを取っていました。昔は紙は高価で、旅行も一部の金持ちしかできなかったので、その人が作る和歌の技法や題材を見て、相手の身分や資産状況がなんとなくわかるわけです。本歌取りといって有名な和歌をベースにして新たな歌を作るのは、そもそもその有名な和歌を知らなければ作れないわけですが、勉強するには巻物やら買わなければならないわけで、つまりはそういう財力がある証明になるわけです。名勝や名物を歌に詠むのも同じことですね。昔は関所などもあり自由に旅行するのも難しく、高貴な身分でなければ領地を跨いだ移動はできなかったので、そういう場所に行ったことがあるというだけで身分の高さの証明になりました。現代で言うところのワインとか高級時計とか、絵画とかと同じです。自分の年収がいくらだとか身分が高いんだとか言うのは極めて下品なので、そういうことを知っていて情報にアクセスでき経験があるということを示すことでマウンティングするわけです。人間の本質は変わりませんね。

 さて、返歌のほうも読めば意味はわかると思いますが、「桜は散るからこそ美しい。この世の中に永続するものなどあるでしょうか」といった程度の意味合いです。詠人知らずということになっていますが、業平の句に対する返答としてはどこか食い違っているような気がします。やはり大した歌人ではなかったのでしょう。

 そもそも業平の句で問題にしているのは「桜がなかったならば、春は心穏やかだろう」ということですが、返歌の趣旨は「ものごとは終わるからこそ美しい」というものです。これが返歌であるならば、もともとの歌はたとえば「桜の美しさがいつまでも続いてほしい」とか、「桜が散るように私の命もやがて尽きてしまうことが悲しい」といった趣旨のものでなければならない気がします。

 とはいうものの、返歌の方が個人的には好みです。人生は無常。この世のものはすべて儚い幻想です。あまり肩肘張らずにゆるゆると生きていくくらいがちょうどいいのではないでしょうか。

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