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人間が持つもっとも強い性質と仕事

わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない。

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

著者の神谷美恵子さんは言わずと知れた精神科医であり、将来に希望も目標も見出せないと語るハンセン病患者と接するなかで、「生きがい」への関心を深めていった。衣食住は国によって保証されていたものの、彼らをいちばん悩ませていたのは「無意味感」であったという。

「毎日、時をむだにすごしている」
「無意味な生活を有意義に暮らそうと、むだな努力をしている」
「たいくつだ」

ここから私たちの生活を生きるかいあるように感じさせているものは何か、ひとたび生きがいを失ったら、どうやってまた新しい生きがいを見いだすのか、についての非常に興味深い考えが展開されていく。

ところで、この「無意味感」はD・カーネギー『人を動かす』(創元社)に記されている「自己の重要感」にも関係があるように思われる。カーネギーは、この本の中でアメリカの哲学者・教育家であるジョン・デューイ教授の言葉を紹介している。

(ジョン・デューイによると)
人間の持つ最も根強い衝動は、”重要人物たらんとする欲求”だというのである。

D・カーネギー『人を動かす』創元社

かのフロイトが唱える人間が持つ二大欲求のひとつ”偉くなりたい願望”も心理学者ウィリアム・ジェイムズのいう”人間の持つ性情のうちで最も強いものは、他人に認められることを渇望する気持ちである”も、「自己の重要感」と捉えることができる。

カーネギーはここから人間関係における(お世辞ではない)賛辞の大切さを説くのだが、今回の趣旨から外れるので深くは触れないでおく。

ともあれ「自己の重要感」を感じてさえいれば、「無意味感」に悩み苦しむということはなくなりそうだ。では、どうすれば「自己の重要感」を感じることができるのか。いろいろな局面がありそうだが、そのひとつとして「仕事における自己の重要感」を考えたい。

仕事と「自己の重要感」

先にあげた本のなかで、神谷美恵子さんは生きがいについての4つの問いをあげている。

1 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
2 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。
3 以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。
4 一般に人生というものは生きるのに値するものであるか。

実際の生活においては4の問いはわからないままでも、ほかの問いのどれかに対して肯定できれば、たいていは結構元気に暮らしていけるという。

このうち、仕事に関係するのは1と2、特に1の問いであろう。仕事とは、まさに何かのため、だれかのために行なうものだからである。仕事を失ったり退職すると、この部分に対しての確信をもちづらくなり、「無意味感」に陥りやすくなるのかもしれない。

老年期の悲哀の大きな部分はこれに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。したがって、もし老人に生きがい感を与えようと思うならば、なんなり老人にできる役割を分担してもらうほうがよいし、また何よりも愛の関係において老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが肝要となる。

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

もちろん仕事以外の人間関係などでも、生きがい感や「自己の重要感」を感じるケースはあるだろう。しかし、起きている時間の多くを仕事に割いているのが現状であれば、仕事でこれを感じることができれば言うことはない。逆に仕事で感じることができれなければ、趣味や家庭などプライベートの時間でこれを見つけなければならなくなる。

たとえば、企画した商品やサービスをお客さんに喜んでもらえたとき、プロジェクト内で確固とした役割を果たせたとき、営業で売り上げアップに貢献できたとき、これらはまさに「生存の意味感」を感じられる出来事であり、「自己の重要感」を感じられる機会である、と言っては大げさだろうか。

逆に、パワハラで役立たず呼ばわりされてしまったり、社内で閑職に追いやられたりすると、自己の重要感にとっては危機的な状況になりうるだろう。(余談だが「自己の重要感」の大切さを認識すれば、これらの行為の酷さもより一層はっきりするのではなかろうか)

一方で、仕事が辛いなどの声をよく聞く現状を鑑みると、現代の日本においては仕事における自己の重要感を感じづらい状況にあるのかもしれない(あるいは単に過重労働なだけなのか)。

テクノロジーが仕事に与える影響

『サピエンス全史』を著したユヴァル・ノア・ハラリの『21Lessons』を読んでいると気になることが書いてあった。この本の2章が「雇用」をテーマにしたものなのだが、ここで述べられていることがまさに「自己の重要感」にとって危機的な出来事ではないかと思うのだ。

人間には2種類の能力がある。身体的な能力と認知的な能力だ。過去には機械は主にあくまで身体的な能力の面で人間と競い合い、人間は認知的な能力の面では圧倒的な優位を維持していた。だから、農業と工業で肉体労働が自動化されるなかで、人間だけが持っている種類の認知的技能、すなわち学習や分析、意思の疎通、そして何より人間の情動の理解を必要とする新しいサービス業の仕事が出現した。ところが今や人工知能(AI)が、人間の情動の理解を含め、こうした技能のしだいに多くで人間を凌ぎ始めている。

ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』河出書房新社

「自己の重要感」を感じられるのは、自分の能力を発揮して、それが誰かの役に立ったりするときだと考えると、この機械化、AI革命はその機会を奪うことにもなりはしないか。ここに記載されているように、いまや身体的な能力を必要とする仕事において、人の能力が求められることは少なくなってしまったように思われる。それはその多くが機械によって賄われているからだろう。

認知的な能力においてもテクノロジーへの置き換えが進むとどうなってしまうのか。もちろん過去に肉体労働に従事していた人がサービス業に転じたように、新しい仕事も生まれるだろうし、そこで自己の能力を発揮する人もいるだろう。だが…。

過去に自動化の波が押し寄せたときには、人々はたいてい、それまでやっていた、高度な技能を必要とせず、同じことを繰り返し行なう仕事から、別の、やはり単純な仕事に移ることができた。(中略)1980年に失業した工場労働者は、スーパーマケットでレジ係として働き始めることができた。(中略)
だが2050年には、ロボットに仕事を奪われたレジ係や繊維労働者が、癌研究者やドローン操縦士や、人間とAIの銀行業務チームのメンバーとして働き始めることはほぼ不可能だろう。(中略)今日では、アメリカ空軍はドローン操縦士とデータ分析員が不足しているのにもかかわらず、スーパーマーケットの仕事が務まらずに辞めた人を雇って空きを埋めようとはしない。(中略)
したがって、人間のための新しい仕事が出てきても、新しい「無用者」階級の増大が起こるかもしれない。私たちは実際、高い失業率と熟練労働者の不足という、二重苦に陥りかねない。多くの人は、19世紀の荷馬車の御者(彼らはタクシーの運転手に鞍替えした)ではなく、19世紀の馬(しだいに雇用市場から排除された)と同じ運命をたどる可能性がある。

ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』河出書房新社

すでに現時点でも「自己の重要感」を感じづらい仕事が増えているような気がしないでもない。そもそもが機械やコンピュータが人間にとって必要な多くのものを満たしてくれるのであれば、人が(本当に)やるべきことは少なくなっていくのではないか。この本でハラリ氏は「搾取から存在意義の喪失へ」と書いている。

もちろん機械化、AI革命の恩恵も計り知れない。生産性が高まり、物が豊かになり、便利さや(一見すると)快適な生活を享受できる。安全性も高まったし、治安だってよくなり、医療も発達した。ハラリ氏もAIとロボット工学には莫大な好ましい可能性がある、と具体例を含めて書いている。しかし、物事には常に光と影の面があることを認識する必要はあるだろう。

足りないものが至るところにあって自ら作り出せば、人に感謝され自己の重要感を感じる機会にもなろう。しかし、もはや必要なもののほとんどを機械やAIが作り出してしまうのであれば? 何のためのテクノロジーだろうか?

技術は本来人間からかけ離れたものではない。人間が技術をうみ出す一方、技術も人間に影響を与え、社会を変化させる。したがってこれからの技術開発には、技術が人間に与える影響をも組み込んで考えていかなければならない。

中村桂子『生命科学』講談社学術文庫

これは1996年に出された本だが、生命科学者である著者の中村桂子さんは「人間も生き物であることを基本にして、生き物が暮らしやすい科学技術を考えていこう」と発信し続けている。

人が暮らしやすい科学技術を考えるのであれば、当然「人が暮らしやすいとはどういう状態か」が問われるはずだが、そこの問いは抜きにして、科学技術が進んでしまっているように思えてならない。暮らしやすいには当然、生活の大半を占める「仕事」の楽しさや働きがいも含まれるはずだ。

決してテクノロジーを否定するわけではないが、「自己の重要感」が人にとって食べることと同じくらい大事なものであるならば、それを発揮しやすい環境を整える(もしくは留意する)こともまた科学技術と社会を考える際に必要な視点なのではなかろうか。

仮に家族や使用人に、六日間も食べ物を与えないでおいたとすると、我々は一種の罪悪感を覚えるだろう。それでいて、食べ物と同じくらいに誰もが渇望している心のこもった賛辞となると、六日間はおろか六週間も、時には六年間も与えないまま放ったらかしておくのだ。

D・カーネギー『人を動かす』創元社

▼今回はこちらの本を元に考えたことを書きました。いずれもおもしろく、新たな考えへと誘ってくれる本です。気になった方はぜひ手に取ってみてください。

Photo by Alesia Kazantceva on Unsplash

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