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深海で踊る、水面で溺れる

人生で初めて、遺書を書いた。

書くつもりはなかったのに、気がつけば遺書を書いていた。
私には特段の資産はないし、そういったことではなくて、ただ伝えたい人の名前を書き連ねた。そしてその人達へ言葉を置いた。どれも陳腐で笑えた。あんなに言葉を知りたがって、あんなに言葉を武器にして生きてきたはずなのに、いざ遺そうとする言葉は情けないものばかりだった。情けなくて、これが私なんだと思った。

空っぽだ。

私を示す言葉は「空っぽ」だった。

月に1度にまで減った通院で、初めて医師から再休職をしてはと提案を受けた。
私の主治医は、あまりそういったことを言わなかった。私に休職をするよう言ったのは、初めて私が精神科に駆け込んだときだけだった。その後の休職する、しないはいつも私が決めていた。というより、復職するとか冗談だよね?と2人で笑うしかない状態が続いていた。単に必然だった。今までは。私が「まだ無理です」と言えないのを察して、主治医が背中を押して「じゃあ延期にしよう。」というだけ。

もちろん今回も決定権は私にあった。だけど、提案をしたのが主治医だった。

なんとなく、病院に着く前からそう言われるのだろうと察していたし、実際にそうなっただけだった。それでも驚いた。私の状態は、そんなに悪かったのか。前日に遺書を書いておいてなんだが、不思議な感覚だった。

休職は断った。
前回みたいな長期間でなく、2週間だけでもいいんだよと追加で言われた。私はそんな手もあるんだと驚きながら、今週が山場だから、今週を迎えてから決めたいと言った。主治医は渋々といった様子で、とりあえずいつもどおり月に1度、つまるところ1ヶ月後の予約をしてくれた。その代わり繰り返し、「だめだと思ったら、いつでも駆け込んできて。」と言った。そんなことを言われたのは、初めてだった。

私は今、最後の1年を生きている。

絶対に28歳にはならないで生きようと、そう思って生きている。

もう2度と、クリスマスも年末年始もバレンタインもないんだな、と思いながら生きた。会いたいと思った人には会おうと、行きたい場所には行こうと、元気だったら足を運んでいる。

世界から逃げ出したいのかわからないけれど、視力検査の結果はそこまでひどいものでなかったのに、私の世界は毎日ぼやぼやとしていて、メガネが必要になっていた。その上、左耳には何かが詰まったような感覚が取れない。空腹を感じないわけではないけれど、別に食べなくても平気で、入浴や排泄も面倒くさい。

見たいものも聞きたいものも、もうないのかもしれない。

そんなつもりはなかったはずなのに、書き出した遺書には中学時代のいじめっこたちへの罵詈雑言が増えていた。「10年以上かけて私を殺した、おめでとう、あなたたちは殺人者だ」と書いていた。書いた記憶はなかった。読み返して驚いた。私はそんなふうに感じていたのかと、笑った。

私には死ぬ勇気はない。まったく、どこにも転がっていない。

私は心の底から死にたくなくて、だけど生きているくらいなら死んでしまいたいのだ。面倒くさい。死にたいなら死んでくれ。死にたいと胸を張って言えばいい。だけど残念、私は死にたくなかった。これ以上私の歴史が増えるのはごめんだし、資産が増えるのもごめんだ。死んだときに周囲に迷惑がかかる。そんなものは、ごめんだ。どっちやねん。

私の選んだ道は、人の心に寄り添うことだった。

そして私は、自分の心に寄り添うことをやめたのだと思う。

人のことより私のことがわからないから、諦めた。

私は愛されていると思う。
先日、実家から荷物が送られてきた。中身がくだらなくて笑ってしまった。母からの贈り物にはいつも「なんであえてこれなんだよ」といい意味で笑わされている。今回は母がハマっているたべっこどうぶつとセブンイレブンのフリーズドライ、祖母がハマっているキレートレモンのセットだった。どんな僻地に住んでいると思ってるんだと笑った。

こんな小さなことだけじゃない。
これまで生きてきた、それこそ私の歴史が物語っている。私は家族に恵まれている。両親は離婚しているけれど、父とも仲が良かったし、今もよく連絡をとっている。両親も妹も大好きだ。心から愛している。祖母も祖父も、父方も母方もみんな。従兄弟も従姉妹もはとこもみんな。元気が良すぎて「生きてく世界が違うんだろうな」と思うことは多いけれど、それでも大好きだ。

だから、死にたくないのだ。
死にたいと思ってしまって、申し訳ないと思っている。

眠っている時の記憶はない。
夢を見ていることもあるけれど、それとこれとはきっと別物だってわかっている。死ぬのって、あんな感じなのかな。私という存在が「存在する」ということを忘れる感覚。「私」という存在が存在しない感覚。そうなるのだろうか。ずっと眠っているみたいな。自我がないって、存在しないって、どんな感じなんだろう。

Netflixを毎晩漁っていると、亡くなってしまった大好きだった名女優や名男優と目が合う。
私は彼らの演技が好きだった。大好きな映画に主要キャストとして出演していた。最新作では役柄名だけ出てきた。亡くなってもなお、彼らが存在したことがきちんと示されることが嬉しくて、劇場で泣いてしまった。その2人と目が合う。毎晩、ほぼ確実に。そして思う。

どうして、死んでしまったの。
今、どんな感じなの。
死ぬって、どんな感覚なの。

「僕のいない朝は 今よりずっと素晴らしくて
すべての歯車が噛み合った きっと そんな世界だ」

中学時代はVOCALOIDをよく聞いた。その中でも鏡音リンが好きだった。「友人」たちとパート分けをしていろんな歌を歌った。VOCALOIDたちが「歌っている」歌は、ちょうど死を意識し始めた私に根強く残った。今のはその一節。

私は私のことを異質だとか異物だとかそんなふうには思っていないし、私の存在が世界に与える影響のくだらなさを知っているつもりだ。私がいてもいなくてもそんなに世界は変わらない。それでもあの時より明確に近づいた「死」を考えるとき、ほぼ確実にこのフレーズが脳内を駆け巡る。私のいない朝は、どんな朝だろう。どんな世界が広がっているんだろう。

私はそれを見てみたいけれど、見られないから、それが死なのだと、いつも考える。

もう二度と迎えることのない予定のバレンタインを、私は今年も適当に過ごしてしまった。なんなら特段記憶にない。何してたっけな。なんかあったっけな。ああ、えっと、いつも自分用に買っている大好きな日本酒のチョコレートを買ったんだ。うつ病の薬を飲んでいて、食べられないことをすっかり忘れて。そしてそれに、また絶望したんだった。

思い出せることが、絶望ばかりになってしまった。

脳みそが完成するのは27歳から28歳だと、正しいのかすらわからない情報を得た。
受ける気もない、驚くほど興味のないDVDを用いた研修中に聞こえたフレーズだった。興味がなさすぎて頬杖をついて視聴していた。そんなものは勉強するのではなく体感するものだと、私は偉そうなことを思っていた。大人しく座っていたけれど、全く聞いていなかった。聞いていなかったのに、そこだけ耳に入ってきた。

私の脳みそは、完成を遂げたのだろうか。

完成を遂げた脳みそが「それでは元気にお亡くなりください」と告げているのだろうか。

思考が毎晩暗くなる。
地の底、というよりは海の底にいるような感覚になる。自分でも不思議だ。私の広い広い海の底。私の言葉は泡になるけれど、音を含むことができない。広いのに浅い海の底。すぐ近くにある光に、手をのばす気にならない。「助けて」と言葉にしているのに音にならない。水面で言葉が弾ける。弾けて、消える。息苦しく、喉の奥に何かが詰まっているような感覚。水のような、泡のような、言葉のような、食べ物のような。吐き出せたら楽なのに、吐き出したものが伝わらなくて、また詰まる。

毎晩、私は、自ら望んでか望まずか、気がつけば浅くて広い、くだらない海の底で寝そべっている。


創作活動をしていた頃に書きたかったものがある。
書きたすぎて、うまく書けないと消してしまって、結局未完成のまま10年以上になる。
それと、似ている。
水の中、海の底。そこを選んだのはきっと、涙もそれに誘拐されて、見えなくなるからだ。言葉も泡になって、音を含めず伝えられないからだ。私はそれに憧れている。私が描きたかったあの光景を、体感したいのだと思う。疑似体験として、毎晩その息苦しさに悶えながら、今日も生きてしまったね、とつぶやく。誰にも何にも届かず、水面で弾けるところまで、見届ける。私はあと何日、これを繰り返すだろう。

「おれ、魚になりたいんすよ」
「理由は特にないんだけど、」
「重力に従って落ちるなら、きっと深海が一番いい」

「水葬ってやつ」

「水の中ならきっと、寂しさもないでしょ」
「だっていつもそばに水がいてくれるもん」
「おれのそばにはいつも空気がいるけれど、空気に実感は伴わない」
「結局おれはいつもひとりだ」

「なみだだけが目に見えてしまうなんて、すんごく嫌だなあ」
「悲しみだけが見えるなんて、そんなの」

「海の奥深くで、呼吸を忘れて、言葉を忘れたいんです」

「水の中なら表情が歪んで、たぶん上手に笑えるはず」

10年近く前のメモの、ほんの一部分。もうここだけ見ても病んでいる。お魚になりたい愛おしい人を描こうとしていた。某水泳アニメではありません。全く別物です。10年前の自分が書きたかったものが、今の私に当てはまっている。皮肉だろうか。17歳の私も、同じ気持ちだったのだろうか。思い出せない。創作は私の「投影」だったのだろうか。こうあればいいのにという「想像」の範囲だったんだろうか。わからないけれど、少なくとも今の私にとっては投影だ。10年前の私の世界に、すぐに入り込めてしまう。

さて、これまで史上最もまとまりのなかった、大散らかりのnoteが見事に完成してしまった。
できればどこかで筆を止めてほしかったのだけれど、不思議なことに今回は一瞬も止まっていない。物理的に時間制限で止まったことはあった。睡眠時間の確保のため。それでも続きを書き始めるまでにも時間はかからず、今も次から次へと言葉が湧いて出てくる。気持ちが悪い。こんなときばかり、まとまらないのに出てきてしまう。たぶん、助けてほしいから、私は私なりの武器を使いたいのだ。「言葉」は、私の「武器」だったから。

そうして、なんだかんだ言いながら、来年も今日を迎えるんだろう。
来年度の人事を気にして、ドキドキするねと言っているんだろう。

死にたくてたまらない私は、そんな未来が来ることを、広く浅い海の底から、誰にも伝わらない声で、今日も願って叫んでいる。心の中の矛盾と、私は今日も答え合わせをする。その答えをまた叫ぶ。誰にも届かないのに、バカみたいに大きな声で。

どうか明日も、こうして海の底を感じられますように!

生きててよかったって、「いつか」笑えますように!

だけどどうか、そんな日は、来ませんように。

お前、ほんとめんどくさいな。読み返してびっくりしたわ。


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